高天神城(静岡県) | おおとり駆の城日記

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静岡県掛川市の高天神城(たかてんじんじょう)です。



標高132mの鶴翁山に築かれた山城で、戦国時代、徳川と武田の間で激しい争奪戦が行われ、「高天神を制する者、遠州を制する」とうたわれた難攻不落の名城です。


高天神城の築城時期は明らかではなく、鎌倉時代のはじめに築かれたとの伝承もありますが、永正10年(1513年)に今川氏の城代福島氏が置かれたというのが最も古い記録になります。


永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にすると、今川氏は衰退していき、家臣たちは今川氏を見限っていきます。逆に三河の徳川家康は東へと勢力を広げ、高天神城の城主であった小笠原長忠は家康に服従します。

同じころ、甲斐の武田信玄も旧今川領へと侵攻する構えをみせ、元亀2年(1571年)に遠江に進軍してきますが、長忠は高天神城に籠城し、信玄は攻め切ることができず攻城を断念します。

この戦いであの武田信玄が落とせなかった難攻不落の城として高天神城の名が一躍全国の戦国大名の間で有名になりました。


しかし、信玄死後の天正2年(1574年)、今度は信玄の息子・武田勝頼の猛攻を受け、1か月におよぶ籠城戦の末に落城します。

落城の原因は家康が再三の救援要請にもかかわらず援軍を出さなかったことで、城兵の士気が下がったためとみられています。

一方、勝頼は父信玄が落とせなかった高天神城を落としたことで自身の力を過信することになったといわれています。


高天神城は武田の手により改修され、旧今川家臣の岡部元信が城将として入りました。

しかし、翌天正3年(1575年)に長篠の合戦で織田・徳川連合軍と戦った武田軍は壊滅的な打撃を受けます。

優位に立った家康は二俣城・諏訪原城といった遠江の諸城を落とし、高天神城の奪還をはかりますが、やはり簡単には落ちません。そこで家康は、高天神城の近くに横須賀城を築くなど高天神城の包囲網をつくり長期戦を行いました。

そして、長篠の合戦から6年後の天正9年(1581年)兵糧や弾薬の尽きた武田の城兵約800は撃って出て全員が討ち死にし、高天神城はついに落城、武田氏も翌天正10年(1582年)に滅亡します。

高天神城はその後は利用されることなく、廃城となりました。


登城口(搦手門跡)

城の正面玄関にあたる追手門は南側ですが、北側には裏門に当たる搦手門があります。

現在は高天神社の鳥居が建っています。

本日はこちらからアプローチします。


15分ほど急な石段を登ります。


高天神城は東峰と西峰という二つの高所があり、その二つを結ぶ尾根によって、H字状の構造をしています。

東峰には、本丸や三の丸などが置かれました。一方、西峰は後年、武田勝頼により拡張された部分で、西の丸や堂の尾曲輪などが置かれました。

搦手を登り切り、まずは向かって左の東峰から攻めることにします。


的場曲輪

本丸西側の帯曲輪です。弓矢の練習をしていたことからこの名前がついたそうです。


大河内幽閉の石風呂(石窟)

本丸北東側斜面にある石牢です。ドラマなどで見たことはありますが、実際に遺構として残っているのは初めて見ます。

天正2年(1574年)武田勝頼による落城後、徳川方の軍監であった大河内政局(おおこうちまさもと)は勝頼に従わなかったために、この石牢に閉じ込められたといわれています。

そして、政局が助け出されたのはなんと8年後!家康がこの城を奪還したときでした。

救出されたときまだ50歳になっていなかった政局ですが、やせ衰え、80過ぎの老人のようであったといわれています。


御前曲輪

本丸下段に位置する曲輪です。小笠原長忠と奥方の顔はめパネルがありました。

後方の建物の基礎は、昭和9年に地元出身の軍医が建てた模擬天守跡です。

昭和20年に落雷により焼失しています。


本丸跡

東峰の最高所に本丸があります。

現在何も残っていませんが、御前曲輪、腰曲輪、的場曲輪によって囲まれ、土塁によって固く守られていました。


三の丸

三の丸は東峰の南端に位置しており、現在は東屋が建っています。

天正2年に武田勝頼の攻撃を受けた際には、小笠原与左衛門清有が城兵250人を従え守備していたことから、与左衛門平とも呼ばれています。


井戸曲輪

再び腰曲輪を経由して搦手方面へ戻ります。

井戸曲輪は東峰と西峰の中間点にあります。

曲輪内には「かな井戸」という井戸が残り、山城の水補給場所となっていました。

かなとは「金」のことで、鉄分が含まれた水だったから?という説があります。


今度は西峰へ向かいます。


二の丸・堂の尾曲輪

西峰の北に向かって伸びる尾根に築かれた曲輪です。


大堀切

高天神城一番の見どころです。尾根を断ち切って作った、堂の尾曲輪(左側)と袖曲輪跡(右側)の間の堀切で高さ6m、幅8mはあるでしょうか。堂の尾曲輪の一番先端に立つと結構怖いです。


横堀

要害堅固な高天神城ですが、唯一西側が緩斜面で弱点となっていました。

そのため、武田氏は西側に深さ2メートル、長さ100メートルに渡って、井楼曲輪下から堂の尾曲輪下までの空堀を掘り、今も良く残ります。


西の丸・高天神社

西峰の最高地には現在高天神社が建っています。以前は御前曲輪に建っていましたが、江戸時代にここに移されました。

岡部丹波守真幸が守備していたことから、丹波曲輪とも呼ばれています。


馬場平

細長いので馬場の練習地と思われがちですが、番場(ばんば)という尾根からの侵入や出入りを監視する「番所」があったと説明板にはありました。


馬場平からの眺め

遠州灘までよく見えます。


甚五郎抜け道

馬場平からさらに西側に尾根が続きますが、この尾根上に細い道があります。

この道は、「甚五郎抜け道」と呼ばれていて、天正9年(1581年)落城時に武田氏の軍監だった横田甚五郎が城を抜け出してこの尾根伝いの道を馬で駆け抜け、甲府の勝頼に落城報告をしたといわれています。

あまりにも尾根沿いの狭い道なので、犬や猿でも恐れをなして後戻りするとかで「犬戻り・猿戻り」とも呼ばれています。



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