吉田城講演会(愛知県豊橋市) | おおとり駆の城日記

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子供の頃からお城好き 今までに巡ったお城の感想 その他どうでもいい趣味のことなどあれこれ綴っていきます

今回は久しぶりのお城講演会レポート、雨の降り続いた先週の土曜日、豊橋まで出かけてきました。

今回の目的は市史跡指定記念講演会「楽しく知ろう吉田城」に参加するためです。


会場は豊橋公園近くの豊橋公会堂。定員600人でしたが、当日は300人ほどの参加者だったでしょうか。

講演者は3人

豊橋市文化財センター学芸員の中川永さん、城郭イラストレーターの香川元太郎さん、そして日本城郭協会理事の加藤理文先生です。


当日は参加者全員にこの冊子「歩いて楽しむ吉田城」が配られました。

全39ページ。しかもオールカラーページの立派な冊子です。

本当にこれ無料でもらっていいんですか?と思わず受付で聞き返してしまいました。


冒頭に豊橋市長のあいさつがあり、最初の講演者は豊橋市教育委員会文化財センター学芸員の中川永さんです。

この方はもともと豊橋市の出身で、大学時代は滋賀県に住んでいらっしゃったそうです。

滋賀県といえば、国宝彦根城はじめ、安土城、小谷城など全国的に有名なお城が数々あり、お城ファンのみならず一般の観光客にもなじみのあるお城が多いところです。

ところが地元豊橋に戻ってみると吉田城というお城は地元でもほとんど顧みられることがなく、とても寂しい思いをしていたといいます。


ところが近年の発掘調査などによって、従来はわからなかった吉田城の全貌が明らかになってきたとともに、続日本100名城に選定されたことも追い風となり、徐々に吉田城の人気が高まってきました。

中川さんたち文化財センターの人たちは発掘や遺跡の保存だけでなく、ソフト面でも地元の人や全国のお城ファンに吉田城の魅力を伝えたいと

活動をされています。そのひとつがこうした吉田城関連の講演会やイベントを積極的に開催したり、さきほど受付で配られたパンフレットなどを作って、多くの人に吉田城の魅力を情報発信することだといいます。

考えてみれば、私も吉田城のイベントに参加するために最近は豊橋を訪れる機会が増えています。


続いて登壇したのは香川元太郎さんです。

香川さんの本業は日本画家、迷路絵本などが人気のイラストレーターですが、お城の鳥瞰図(いわゆる空からの俯瞰図)のイラストに関しては現在、この人の右に出る人はいないでしょう。

多くのお城関係の書籍、雑誌に香川さんの復元イラストが掲載されています。

もちろん絵だけではなく、お城に関しての知識、造詣も深く、講演の内容もとても興味深いものでした。


今回、この吉田城と城下町の復元鳥瞰イラストを描く苦労話なども聞かせていただきました。

江戸時代に描かれた絵図面をもとにどの方向から眺めたものかを決めて、キャンバスに碁盤を切り、その中にひとつずつ、建物を立体復元していく手法をとります。

ただ絵図面では建物の構造や部材まではわからないので、当時東海道の宿場町を描いた浮世絵などを参考にしたそうです。瓦屋根や板葺き屋根の違いも丁寧に色分けして描かれています。

しかもこの作業はコンピュータではなく、基本的にはすべて手描きだそうですので驚きです。

この吉田城の復元イラストを完成させるのに3か月かかったそうです。


最後は日本城郭協会理事の加藤理文先生です。

いつもながら石垣や土塁について熱く語っていただきました。


吉田城は後に姫路城主となる池田輝政(照正)が15万石の居城として築いた城。

東西1.4km、南北0.7km、総面積837,000㎡と三河地区では岡崎城に次ぐ規模を誇っていました。

本丸はすべて石垣で囲まれていましたが、そのほかは規模の大きな土塁で囲むなど中世の城と近世の城の特徴がミックスされた状態で現在まで残されているのが大きな特徴です。


かつて中世の城の多くは石垣だけではなく、土をかきあげた土塁で囲まれていました。

しかし、土塁は堀とセットの関係だったため、明治以降土塁は崩され、堀の埋め立てに使われ、各地で姿を消していきました。

吉田城では二の丸、三の丸、総堀と大きく3種類の土塁が残されており、その総延長は3kmにも及びます。

また池田輝政時代に築かれたとみられる鉄櫓下の石垣は高さ13mあり、現存する織豊時代の石垣としてはもっとも高いといわれています。


吉田城には9つの櫓があり、そのうち5棟は3階建てでした。

3階建てといえば天守にも匹敵する格式ある建物です。

加藤先生は輝政が秀吉の聚楽第に倣って築城したとしたら、現在の鉄櫓の位置が天守だったのではないかと推測をしました。


他にも、

・豊川沿いに水門が残されており、物資を直接城内に荷揚げできたことが確認できる。

・かつて多くの城では土塁の上に、土塀が造られていたが、ここ吉田城では土塀の礎石、しかも珍しい登り土塀の礎石が残されている。

・堀底が逆台形の箱堀のほか、V字型の薬研堀がみられる。


いずれをとっても市街地にこれだけの遺構が残されていることは奇跡的なことであり、もっと高く評価されるべきであると熱弁をふるわれました。


最後に3人のパネルディスカッションがあり、ここでもとても楽しいお話を聞くことができました。


講演が終わるとすでに夕方でしたが、雨上がりの吉田城を散策しました。


三の丸口門の鏡石

特に名前はついていませんが、松本城の玄蕃石、上田城の真田石に匹敵する大きさです。


腰巻石垣

本丸南東の辰巳櫓下にみられます。

土塁の崩落を防ぐための工夫で、江戸城や彦根城でみられますが、下が空堀なのはここ吉田城だけだとか。


鉄櫓

豊川越しに撮影された古写真では手前の川手櫓が写っており、幕末期にはすでに鉄櫓は失われていました。

昭和29年(1954年)に復興されました。

名古屋城、岡崎城天守の復元が昭和34年だったので実に5年も早かったことになります。


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