芸術の力学

芸術・文学・言語

アラン――思想としての文体(三) 「文体と言語意識――日常語の思想」

2017-08-19 | 文学
  三 文体と言語意識――日常語の思想」
 先にも述べたように、アランの文章には、専門用語は殆ど見当たらない。彼の通俗性などと言われるものは、こうした点から来ているのであろうが、そのようなレッテルは、彼を理解する上では役立たない。現代において、難しい理論を、平易な日常語で解説するといった類の書物は数多くあるが、アランのしたことは、それとは全く異なることである。それらの書物は、専門語という第一の言語で書かれたものを、日常語という第二の言語に、分かりやすいように、言わば「翻訳」したものと言える。そこでは、専門語と日常語の関係は、原文と翻訳の関係と同じように、前者こそ本来的なものであって、後者は、あくまでも公衆の理解に資するための便宜上のものでしかない。日常語でかかれたものは、専門語で書かれた思想のイミテーションという位置づけであり、積極的な意味を持ったものではない。それに対して、アランが日常語で書くのは、決して読者に分かりやすくする便宜上のためなどという消極的な理由によってではない。「私は日常語に賭ける」(『芸術に関する一〇一章』)と、彼は言っている。この「賭ける」という力強い言い方のうちにアランの目指していたものが表れている。専門語によっては表現し得ない思想こそ、彼にとって重要だったのである。
 彼は言う、「カロリー、ボルト、アンペア、ワットのように、分かりきっている語、約束で意味が決まっているような語、そんなものは決して言語ではない」(『文学論集』)と。近代の実証主義者達が目指してきたのは、まさしくこの「カロリー、ボルト・・・・」といった語に見られるような厳密性である。彼らは、人間精神についても、できることなら自然科学の用語のように、はっきりした約定からできた明瞭な語で、表現したいと望んできた。しかし、アランはそうした語を自らの思想表現の手段としては拒否する。「本当の言語というものは、我々の体に響くものであって、精神に響くわけではない。言うならば、間接的に精神に響くのだ」(『文学論集』)として、観念上の決まりのみによって成り立っているような語を、本来の意味での言語としては認めなかった。そうした語は、人間から切り離された完璧さを表す空虚な記号であって、物質を対象とする際には有効であっても、精神と肉体を持った人間という混乱した存在に対しては、無力であると考えた。抽象的知性による分析は、己の精神の情念に対しては、なす術がない。「自分の肉体から離れて考えることは、天使の真似をするに等しい。たちまち獣性が、我々をつかまえる」(『芸術に関する一〇一章』)。この情念という獣性を捕らえることこそ、彼にとっての哲学の仕事であり、それは日常語によってこそ可能であると彼は考えた。自らが日常的に使っている語を否定すれば、己の思考を自ら否定することになる。なぜなら、我々はそれを使って思考をしているのだから。我々が当たり前に使っている語のうちに、人間的真実を表した思想が満ちている。そう信ずるところからアランは思考を始めた。
 アランは、コントに倣って、クールcoeur(心、胸、心臓、勇気、愛などの意を持つ多義語)という語をしばしば例に挙げて、日常語に含まれる深い思想について説明する。
 「coeurは、勇気を意味する。coeurは愛を意味する。coeur は空っぽの筋肉(心臓のこと)を意味する。もし、この単語を、一度に三つに意味に取らないならば、まずい書き方をしていることになる。同時に、愛というものを、ありのままに書く  すなわち、血の部分と意志の部分とを書く  機会を失することになるのだ。結局、言葉に抗ったがために、観念を書き損ねるのだ」(『芸術に関する一〇一章』)
 観念による規定が先立つ専門語には、このような多義性は見られない。多義的ということは曖昧ということであり、多くの専門的研究者達は、そういう語を使うのを嫌う。しかし、作家や詩人は、一義的に制約された専門語では、小説や詩を書かない。アランは作家や詩人と共に歩む。精神と同時に肉体を持ち、情念という肉体による精神の惑乱を有する人間という存在そのものが、多義的な存在なのである。日常語の多義性は、肉体や欲望や知性や意志が絡み合った人間という存在を、そのまま反映している。
 また、語の多義性は、人間という存在の多義性と同時に、その歴史性をも表している。「語の中には、人間の経験の果実として、思想が与えられる」(『芸術に関する一〇一章』)と、アランは言っている。coeurは、「胸」、「心臓」を意味すると同時に、「心」をも意味する。人々は、coeur(心)を、単に頭脳に属した知性的なものとは考えなかった。また、食欲や性欲の部分に属するものとも考えなかった。心が揺さぶられるような感動を、心臓の鼓動や胸の高鳴りに、最もよく感じ取ったのであり、その実感をもとに、coeurという語で、目に見えないが最も身近で切実な「心」というものの存在を表現した。さらにそこに、「勇気」、「愛」という意味を与えて、それらの徳を、人間の心において最も重要な理想として思い描いた。そして、「勇気」と「愛」という二つの徳は、coeurという一つの語によって、結び付けられている。愛する我が子のためなら、いかに気弱な母親も、自らの命を惜しまぬ勇気を持っている。このように、coeurという語の持つ、それぞれの意味に、その語を使用してきた古今の無数の人々の思いが込められており、しかも、それらの心は、互いに呼応し合って、一体のものとして存している。アランは、次のように言っている。
 「言語活動 langageは、社会学的一存在である。それはまた、真正の社会を結ぶ絆でもある。真正の社会は、過去の記念的遺物によってのみ維持される。そうして言語活動こそ、生きた記念的遺物 monument とでも言うべきものだ。それは人間の遺産を保存し、伝えると同時に、人間の構造及び最も緊要な諸機能の動かしがたい証人でもある。例えば叫びは、胸部の痙攣の結果だからである。言語活動が、保存される場合以外は決して変化しないことは、理解されるだろう。そして詩は、記憶によって容易に変更されない一定の形式を保存すると同時に、また絶えず身体組織に幸福を与える韻律によって言語活動を整えるものであるから、二重の意味で記念碑的である。詩は、我々を自分自身に呼び戻す一種の礼拝となり、祈祷となる」(『我が思索の跡』)
 この点で、言語を単にコミュニケーションのための道具とする、現代に蔓延する言語観と、アランの思想は決定的に異なっている。いつの世にも、言葉とは人が互いに心を伝え合う道具だという素朴な信仰はあったに違いない。しかし、近年殊に、実用性の価値基準により、コミュニケーションの道具としての言語という考え方が支配的になって来ている。こうした言語観は、言葉を、単に流通する貨幣のごときものと見做し、コミュニケーションという、同時代人との横の繋がりにおいてしか、考えようとしていない。そこに、致命的に欠けているのは、言葉の背後にある「人間の経験の果実」、そこに込められた古人達の心を感じ取ろうとする意志である。言葉を平面的に捉えるのみで、言葉の持つ奥行きを感受しようとする意識がそこには無い。そうなると言葉の美というものが見失われる。なぜなら、言葉が意味を伝えるための手段でしかないのなら、その「意」さえ通じればよいのであって、その「姿」は重要な意味を持たなくなる。コミュニケーションを言語の目的と考えるなら、結局、言語の習得の意義は、言語に関する世の慣わしやしきたりに自らを染めることでしかなく、それ以上の意味は持たなくなる。そこで追求されるのは、円滑に「意」を伝える方法であり、それ自体は重要なことなのだが、そのことばかりに意識が偏ると、結局、安易に伝えられる「意」しか問題にされなくなる。
 しかし、先に小林秀雄の思想として述べたように、深い感動や真の美的経験は、「寡黙や沈黙の方に、人を誘ふもの」であり、この容易に伝えがたいものこそ、我々の精神を根底で支えているものなのである。その表現しがたいものを表現するには、詩人達がそうするように、言葉の持つあらゆる特質を生かして、それにふさわしい言葉の「姿」を追求しなければならない。そして、その追求のうちに、もし言葉の「姿」が己の精神の根底にまで響けば、それによって己の精神が立て直されることもある。詩人は、予め何らかの観念を持っていて、それを美辞麗句で飾り立てるということをしているのではない。完成した詩によって、己の表現したかった思想や、己の詩魂の奥底にあるものを、知るのである。言葉は、「意」を他者に伝えるだけではなく、その「姿」によって自らの「意」を立て直すという作用を持っている。アランが、「詩は、我々を自分自身に呼び戻す一種の礼拝となり、祈祷となる」と言っているのは、まさしくその作用のことである。そして、その前提となるものは、「生きた記念的遺物」としての「言語活動」なのである。
 言葉の「姿」が、精神に何ものかを与え得るのは、言葉の内に、それを使用して来た古人の思想が「人間の経験の果実」として込められているからであり、そうした時間的に蓄積された重みが、一人の人間によって考えられた以上のものを有しているからである。アランは、手垢の付いた日常語で自らの思想を表現した。決して手垢を削ぎ落とそうとはしなかった。寧ろその時間的に蓄積された重みを踏まえることによってこそ、独自の表現が可能となると考えた。しかし、使い古された表現をそのまま使い古した形で書きはしなかった。直観的な飛躍によって、各語の意味を全的に保持しながらも、他の語との意外な関連性により、新しい角度から光が当てられる。彼の文章が、日常の言葉遣いで書かれていながら、難解であるのはそこから来ている。人間の歴史の中で蓄積された語の多義性を活かして、一つの言葉の含み持つ多様な意味の総体を、古人とともに、響かせながら展開していくという書き方を、アランは、自らの思想表現の方法とした。



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