高取城①(奈良県) | おおとり駆の城日記

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奈良県の高取城です。

標高583メートルの高取山に築かれた山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲はなんと約30キロメートルにも及びます。

日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられています。


高取城の始まりは南北朝時代の元弘2(1332)年に南朝方に属した高取の豪族・越智邦澄氏が砦を築いたことが始まりとされています。越智氏の支配が長く続きましたが、戦国期に入り、天正11年(1583年)に織田信長により越智氏は滅亡。一時的に筒井順慶によって郡山城の支城として使用されましたが、天正13(1585)年に大和国が豊臣秀吉の弟秀長に与えられると、その家臣であった本多利久が城主となり、現在見られるような縄張りの高取城が築かれます。


秀長、秀吉没後は俊政は徳川家康につき、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの前哨戦では高取城は石田三成の軍勢に攻められますが、この難攻不落の高取城を西軍は落とすことができませんでした。

戦後、利政はその功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となりました。

しかし、寛永14(1637)年に本多家は継嗣なく断絶。代わって、三河以来の譜代の旗本である植村家政が2万5千石の大名に取り立てられ新たな城主となりました。以降幕末まで14代にわたって、植村家が城主を務めました。

また、文久3(1863)年には、高取城は尊王攘夷派の志士によって組織された「天誅組」の襲撃を受けますが、難なくこれを撃退しています。


ちなみに江戸時代は城の石垣を修理する場合は幕府に報告し許可が必要でしたが、高取城に関しては3代将軍家光より直々に、植村氏は家康の以来の古参譜代であり、城が山上にあることから破損も多いと思われるということで「一々言上に及ばず」と特別に許されていたということで、修復も江戸期を通じてこまめに行われたそうです。


しかし、明治維新後に廃城となると、あまりに山深くに建てられていたため、一部は城下の寺院などに移築されたものの、建物の大部分は明治20年ごろまでに自然倒壊に任せるしかなかったといわれています。

ただ、石垣などの遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、人為的に破壊されることなくほぼ完全な状態を現在までとどめています。



高取城跡へは近鉄吉野線「壺阪山駅」から4.5km、徒歩で片道約2時間のハイキングコースです。

壺坂山駅前から途中の壺坂寺まではバスがあり、これを使えば1時間ほどは短縮できますが、バスの本数は少ないということが下調べをする段階でわかってきました。

当然行きは登り坂であり、オジさんはちょっと体力に自信がありません。


夢創館(むそうかん)

城下の土佐街道沿いにある観光案内所です。大正時代からあった呉服店を改修した建物です。資料の展示や、パンフレット、特産品なども販売しています。


ネットの口コミでここでタクシーを呼んでもらえるという情報を得て今回はこの方法で登城することにしました。


八幡口登城口

狭い山道を抜けて、ここまで車であがってくることができました。

一応駐車できるスペースはありましたが、せいぜい5~6台ほどでしょうか。

比較的朝早い時間帯でしたが、紅葉時期の日曜日だったこともあり、すでに満車でした。

タクシーで来て正解だったと思います。料金は2000円でした。


ここから本丸までは壷阪口門を経て歩いて15分ほどです。




壷阪口門

高取城への入口は「壷阪口門」「黒門」「吉野口門」「岡口門」の4箇所あってその内の一つです。来る途中に見た壺阪寺につながる門ということでこの名前がついていると思われます。

現代になって作られた階段がありますが、当時はここを登るのも大変だったと思われます。



木でできた階段を上り切った所に、苔むした石垣が残る「壺阪口中門」跡に出ます。


大手門(御城門)跡

大手門は二ノ丸、本丸に入る為の唯一の門で、どのルートから登ってきても必ずここを通ることになりますが、城下町から登ってくるとここまでは2時間かかります。


大手門から本丸方面を望んだ写真がありました。

明治20年ごろに撮影されたもので、この頃まで本丸には櫓などが存在していたようです。


大手枡形

ここからは主郭部分に入っていきます。

枡形虎口を形成する三方の石垣が素晴らしいです。


ARで再現された大手門

スマホアプリ「ええR高取城」では当時の光景を見ることができます。




十三間多門跡

大手枡形を抜けると、石垣に囲われた曲輪が目の前に現れ、行く手を阻みます。

ニの丸に入る為には両脇から迫る石垣と、正面の「十三間多門」跡の脇を通り抜けなければなりません。


二の丸

十三間多門の櫓台を超えたところが二の丸跡です。

二の丸の大きさは東西に約65メートル×南北は約60メートルで、当時は藩主の御殿があったとみられています。

現在は東屋と簡易トイレがあります。




太鼓櫓・新櫓跡

本丸と二の丸の間には太鼓櫓・新櫓の2基の櫓と十五間多門という多門櫓を備えた馬出曲輪がありました。石垣は近年になって積みなおされたもので、紅葉に映えてとても美しいです。この上に登ることもできます。

老夫婦が仲良くお弁当を食べていました。この人たちは下から登ってきたのでしょう。羨ましい体力です。




二の丸から見上げた本丸天守台

天守台は高さが12mあり圧巻です。

この天守台の上に、三重の天守が明治時代まで建っていました。


ARによる天守再現

外壁は白漆喰総塗籠であったようです。


次回は本丸をご紹介します。



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