カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ごミサのノマド ー 後ろを振り向いてごらん(復活節第4主日)

2021-04-24 20:43:30 | 教会

 近隣教会のごミサに与ってきた。土曜日のミサだから空いていると思ったら出席者は50名は軽く超えていたようだ。映画「ノマドランド」の伝で言えば、私はごミサを求めてさまよい歩く「ノマド」(nomad 流浪の民)そのものだ。

 わたしの所属教会は分散ミサが徹底しており、ミサの順番は一月に一回すら回ってこない。だから主日はYouTubeで関口やイグナチオのネットミサにでているが、霊的聖体拝領ではなにか実感がない。今日は友人に誘われて近隣教会のミサに出た。お祈りも声を出して出来るし、歌も歌える。なにか安心感に満たされた。
 普段は、ごミサに出ても、お祈りは声を出してはいけない、歌ってはいけない、聖体拝領のときアーメントと唱えてはいけない、などなど窮屈このうえないので、今日はごミサに出た気がした。
 とはいえ、教会の「お知らせ」には、「高齢者はミサの参加をご遠慮ください」とか「ミサを求めて他の小教区のミサに赴くことはお控えください」など禁止・注意事項がいくつも書かれている。コロナ禍を考えればどれももっともなことだが、私はノマドのごとく近隣教会のミサに出た。

(ノマドランド)

 

 この4月に小教区の司祭の定期の人事異動があり、この近隣教会に新しい神父様が来られた。この神父様は「いつでも、誰でも、ミサにおいでください」という方針をお持ちの方だ。ミサの後ご挨拶したが、「近所なのだからいいのではないですか」とおっしゃっていただいた。
 神父様のお説教もよかった。今日の福音朗読はヨハネ10/11~18の「良き羊飼い」の場面だ。「わたしは自分でそれ(命)を捨てる」とあるが、師いわく、わたしたちはだれもが殉教者のようなまねはできない。わたしたちが嫌いな人もいるだろう、わたしたちを嫌う人もいるだろう、そういうときその人たちを「愛せ」といわれてもなかなか愛せない。それが普通だ。だから、そういうときはそっと「後ろを振り向いてごらん」、そこにはイエス様がおられることに気づくだろう。そしてイエス様に背を押されて前を向いてみれば、向き直ってみれば、そこにいる私の嫌いな人も違った姿で見えてくるのではないか、父は私を愛してくださるとはそういうことなのだと思う、と言われた。がむしゃらに前だけ向いていればよいというわけではない。ときには後ろを振り向いてみよう。それは昔を懐かしんだり、懐古趣味に浸ることではない。普段気がつかないイエス様に気づく術なのだという。久しぶりのH師節であった。神父様に何があったのかは解らないが、コロナのコの字も使わずにコロナ禍に生きる術を諭されていた。よいお説教であった。

 コロナ禍のなかで、ミサの在り方は司祭によって様々であることがよくわかった。カト研の皆さんの教会では三度目の緊急事態宣言をどのように乗り越えようとされているのでしょうか。

 

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