【目次】
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<外伝>
第44話 王者・谷原の気迫!の巻
1.それぞれの表情
三塁側スタンドは、最高潮の熱気に包まれていた。
「ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ!」
「かっとばせー、ヨーコーイッ」
一点差に迫った勢いのまま、墨高応援団にも熱がこもる。まるでうねりのようだ。そこに観客達の様々な声が入り混じる。
「信じらんねえ。あの谷原のエースを、つるべ打ちにしちゃうとは」
「墨高……強くなったとは聞いてたが。こりゃホンモノだな」
「うむ。かけつけた野球部OBの連中も、きっと鼻が高いだろう」
その野球部OBの一人、田所はスタンドの最前列にて、半ば放心状態にあった。口をあんぐりと開け、微かながら両手が震える。
「こ、こんなことってあるのかよ」
自然とつぶやきが漏れた。
「おれだって善戦を望んでたし、谷口達がほんきで谷原に勝とうとしてたことも知ってたけどよ。まさか……ここまで食い下がるとは」
周囲では、一期下の後輩達が無邪気にはしゃぐ。
「よく打ったぞ島田! さすが昨年からのレギュラーだっ」
中山が右こぶしを突き上げ、叫んだ。傍らで、長身の山口が「オイオイ」と苦笑いする。
「さっきまでの憂いは、どこ行ったよ」
「今さらいいじゃねーか。やっと勝てそうな潮目になってきたんだしよ」
む、と太田も同調した。
「ピンチの後にチャンスありと言うが、そのとおりの展開だな」
太田の一言に、中山が「オウヨ」と応える。
「こうなったら同点、いや一気に逆転だぜ」
田所は「やかましい!」と、中山の脳天にゲンコツを喰らわせる。
「てっ。な、なにするんスか」
頭をさすりつつ、中山は恨めしそうな目になる。
「まったく調子のいいやつらめ。さっきまでグチってたくせに、潮目が変わったとみるや、もう手のひらを返しやがる」
「べ、べつにいいじゃないですか」
なだめるように言ったのは、気のいい山本である。
「げんに今、流れがきてるんですし。ここで応援してやらなきゃ」
「いい気なもんだな。見ろよ、谷原の連中を」
そう告げて、田所は眼下のグラウンドを指差した。マウンド上に、谷原内野陣が集まっている。皆一様に険しい表情だ。
「あの村井は予選じゃ、ずっと無失点できてたんだ。それを墨高に破られたとあっちゃ、えらくプライドにさわったろう」
小さく吐息をつき、田所は話を続けた。
「ほかの連中もだ。やつらきっと、ここから血眼(ちまなこ)で向かってくるぞ」
「……あ、あのう」
ふいに太田が、おずおずと話に割って入る。
「なんだよっ」
「誰です? さっき、だまって応援すりゃいいと言ってた人は」
あらっ、と田所はずっこけた。
バックスタンドは、まだざわめきが収まらない。
「う、うそだろ……」
「あの村井が、墨高に三連打を浴びるなんて」
思わぬ展開に、東実ナインは互いに目を見合わせ、一様に驚きの表情である。
「フフ。やるね、墨高」
周囲をよそに、エース佐野は腕組みしつつ冷静に言った。口元に微笑が浮かぶ。
「たしかに今日の村井は、カーブが不安定だった。そこに目をつけるとは」
「カーブだけじゃないぞ」
後列より、二年生捕手の村野が口を挟む。
「今の島田には、シュートまで打たれちまった」
「む。だがシュート打ちなら、墨高には井口がいるし、いくらでも練習できるだろう」
ええ、と一年生の倉田が同調した。
「しかし墨高、勢いが出てきましたね。こりゃ一気に同点……逆転もありますよ」
「さあ。それは、どうだろうな」
佐野の意外な返答に、後輩は「えっ」と目を丸くする。
「なんだ倉田。おまえ、気づいてなかったのか」
「は、なにがです?」
「あの村井が、まだほんとうの力を隠してるってこと」
訝しがる倉田を横目に、佐野はグラウンド上へ険しい視線を向けた。
マウンド上。谷原のエース村井は、左手にロージンバックを握り、しばし無言で佇む。
「おい村井。切りかえろ、あまり気にするな」
傍らで、正捕手佐々木が励ます。
「カーブの制球が悪いのを、つけこまれただけだ。勢いにのせちまって、さっきの五番にシュートまで打たれたのは、ちと計算外だったが」
「……勢いにのせちまって、だと?」
村井は顔を上げ、一瞬睨む目になる。
「気休めはよしてくれ。一本目はともかく、その後はちゃんと制球したのを、ジャストミートされたんだぞ。勢いやマグレで、俺のタマが打てるかよ」
「む、村井……」
気圧される佐々木。村井はフフと、今度は自嘲の笑みを浮かべる。
「甘かったのさ」
「あ、甘かった?」
「決勝にそなえて、余力を残そうと考えたことじたい、墨高を甘く見てたんだ」
そうだな、と佐々木も同意する。
「春先の練習試合で大勝したこともあって、どこか油断があった。あれから三ヶ月、やつらがこれほど力をつけてくるなんて、思いもしなかったからな」
「ああ。だがそれも、ここで終わりだ」
エースは決然と言い放つ。
三塁側ベンチ。反撃ムード一色にも関わらず、墨高のキャプテン谷口は厳しい表情を浮かべ、眼前のグラウンドを見つめていた。
マウンド上では、谷原バッテリーが何ごとか言葉を交わす。
「ハハ、さすがだな」
つぶやきが漏れた。傍らで、倉橋が「どういうことだ?」と問うてくる。
「もう少し動じてくれると思ったんだが」
苦笑いして、谷口は答えた。
「見ろよ倉橋。谷原のベンチを」
「む……そういや、何の動きもないな」
一塁側ベンチでは、谷原監督がさして顔色を変えることなく、静かに戦況を見つめていた。さらにマネージャーや控え選手達も、まるで動揺する様子は見られない。
「初めて点を取られたんだし、監督がバッテリーを呼んで指示するなり、ベンチから伝令を送るなりしそうなものだが」
「ああ。これぐらいで揺さぶられるチームじゃないってことか」
そう言ってうなずく谷口。周囲では、仲間達がネクストバッターズサークルの横井へ声援を送る。
「いけーっ横井、遠慮することはねえぞ」
「流れはこっちだ。一気にたたみかけようぜ!」
盛り上がるナイン達。その列に、谷口は「ちょっと」と割り込み、サインを出す。
えっ、と横井は目を丸くした。しかしすぐにキャッチャー佐々木がポジションに戻り、アンパイアから「バッターラップ!」と声が掛かる。
「ど、どしたい谷口」
戸室が怪訝げに言った。
「いま出したサイン。一球まてって……」
そうですよ、と井口も同調する。
「せっかく勢いがついてるんですし、もっと積極的にいくべきじゃありませんか」
「バカいえ」
口を挟んだのは丸井である。
「島田が一塁にいるんだし、ここはバントでかく実に進めなきゃ」
「そういうことじゃない」
谷口の返答に、丸井は「あれ」とずっこけた。
「みんな。もう一度、気を引きしめ直すんだ」
ベンチの全員を見回し、キャプテンは険しい表情で告げる。
「たやすく押しきれるほど、谷原は甘くないぞ」
「ぼくもそう思います」
同調したのは、やはりイガラシだ。
「忘れたんですか。あのピッチャーが、まだほんらいの投球をしてないってこと」
後輩の言葉に、谷口は無言でうなずいた。
右打席にて、横井はバットの握りを短くした。
「さあ来い!」
視界の端では、一塁走者の島田が離塁していく。
そして前方のマウンド上。谷原のエース村井は、こちらに鋭い視線を向ける。明らかに怒りの形相だ。やれやれ……と、横井は胸の内につぶやく。
「二点取られたもんで、あの村井も気を入れてきたな。それで『まて』のサインか」
ほどなく、アンパイアが「プレイ!」とコールする。
村井はセットポジションに着くと、すぐに投球動作を始めた。クイックモーションから右手のグラブを突き出し、左腕をしならせる。
「……うっ」
投じられた一球に、横井は思わず呻く。
ズバン。快速球がうなりを上げ、懐の奥深くを突き刺した。その迫力に、先ほどまで盛り上がっていた三塁側ベンチとスタンドが、一瞬で静まり返る。
「す、ストライク!」
心なしかアンパイアのコールも掠れる。
「こ、ここでインコースか!」
驚愕の横井は、咄嗟に味方ベンチを振り向いた。キャプテン谷口が帽子のつばに触れ、次のサインを出す。
「……む、送りバントね。しっかしあのタマ、当てるのもカンタンじゃないぞ」
二球目。またもインコースに、快速球が投じられた。まるで閃光のように、横井の寝かせたバットの上を通過する。
「ストライク、ツー!」
あっさり追い込まれ、横井は「くそっ」と唇を歪めた。そして再び打席を外す。
「……な、なんだよ。あのタマは」
三塁側ベンチ。谷口の横で、丸井が顔を引きつらせる。
「ミートのうまい横井さんが、バントもさせてもらえないなんて」
ええ、とイガラシもうなずいた。
「打たせてとる投球から、一転してチカラでねじ伏せにきましたね」
「む。それにしても、さっきより数段速くなってねえか」
驚愕と動揺が、ベンチ内に広がっていく。
「まだあんなタマ、投げられるのかよ」
「こりゃひっくり返すどころじゃねーぞ」
そんな声も聞こえてきた。まずいな、と谷口はひそかにつぶやく。
「村井のタマに、みんな圧倒されてしまってる。ここは何としてもチャンスを広げないと」
束の間思案した後、谷口は横井と一塁走者の島田へサインを送る。傍らで、倉橋が「おいおい」と目を丸くした。
「ヒットエンドランって、さすがに危険じゃねえか。空振りすりゃ併殺もあるぜ」
谷口は「いや」と、首を横に振る。
「たしかに危険だが、何もしないよりはマシさ」
やがて横井が打席に戻り、試合が再開された。
横井はまたもバットを短く握り、村井と島田を交互に見やる。相手投手は再びセットポジションに着いた。この間、走者は一歩二歩と離塁していく。
次の瞬間。くいっと村井が身を翻し、一塁へ牽制球を放った。
「なんだとっ」
谷口は思わず声を上げた。逆を突かれた島田は、頭から滑り込む。
「……せ、セーフ!」
一塁塁審のコール。ベンチから「フウ」「あ、あぶねえ」と、安堵の声が漏れる。
「ちぇっ、やるじゃねーか」
イガラシが呆れ顔で言った。
「てっきりバッターのことしか頭にないと思ったら。向こうのバッテリー、わずかなスキも見せないってか」
ああ、と倉橋が苦笑いする。
「しかし……いくら左投手だからって、なんて牽制なんだ。あれじゃ、おいそれとリードもできねえぞ」
グラウンド上。一塁手坂元が「ナイス牽制よ!」と声を掛けつつ返球した。おう、と村井が応える。谷原ナインの動きを注視しながら、谷口はさっきと同じサインを出す。
島田は一瞬「えっ」と驚いた目をした。それでも無言でうなずく。
「お、おい谷口」
再び倉橋が目を見開く。
「ちと無謀すぎやしねえか。あんな牽制をする投手相手に、足を使おうなんて」
「だからこそさ」
キャプテンはきっぱりと答えた。
「しかけをためらえば、ますます向こうは調子づく。ここは引いちゃダメなんだ」
語気を強める谷口。その迫力に、さしもの倉橋も口をつぐんだ。
村井がマウンドのプレートを踏む。その斜め後方では、一塁走者島田が決心を固めた表情で、じりじりとリードを広げていく。
そして、また村井が牽制球。島田は手から飛び付くように帰塁した。際どいタイミングだったが、間一髪セーフ。
「またまた……」
「あぶねえぞ、ランナー気をつけろって」
内外野のスタンドから、溜息混じりの声が漏れる。
「もういいだろ村井」
今度はキャッチャー佐々木が、聞こえよがしに言った。
「それだけ釘を刺しときゃ、ランナーはもう動けねえよ。あとはバッターをちゃちゃっと料理すりゃ」
なにいっ、と横井は目を剝く。
「このヤロウ。言わせておけば……」
迎えた三球目。村井が投球動作を始めるのと同時に、島田はスタートを切った。
「……くっ」
インコースのシュート。横井の眼前で、ボールは膝元を抉るように鋭く曲がる。何とか当てようと差し出したバットは、しかし空を切ってしまう。
「ストライク、バッターアウト!」
捕球するや否や、佐々木は二塁へ送球した。バシッと二塁手のグラブが鳴る。
「くそうっ」
島田はタッチを搔い潜ろうと回り込むも、その指先をグラブがはらう。
「アウト!」
無情な二塁塁審のコール。ああ……と、ナイン達から溜息が漏れる。
「一瞬にしてツーアウトかよ」
ベンチ後列で、戸室が顔を歪めた。隣で丸井も唇を噛む。
「やられた。同点のランナーまでも……」
ほどなく三振を喫した横井と、タッチアウトとなった島田が引き上げてきた。二人とも重い足取りである。
「す、スマン」
謝る横井に、谷口は「いいや」と首を横に振った。
「おれの方こそ、焦りすぎたかもしれん。すまなかった」
その時、ポンと肩を叩かれる。
「どしたい谷口」
振り向くと、倉橋が微笑んでいた。
「試合序盤に、勇気が大事だと言ったのは、オメーじゃねえか」
「く、倉橋……」
「たまたまうまくいかなかったからって、キャプテンが弱気になってどーするよ」
傍らで、イガラシも「そうですよ」とうなずく。
「向こうが本気になったのは、われわれが攻勢をかけたからです。残りのイニング、またねばってスキを見つけて、たたみかければいいじゃありませんか」
ふと気付けば、ナイン達の視線が集まっていた。倉橋、丸井、イガラシ、戸室、横井、島田、井口。さらに控えメンバーも。
幾分表情を和らげ、谷口は言った。
「そうだったな。ありがとう、みんな」
結局、次打者の片瀬も三球三振に仕留められる。スリーアウト、チェンジ。
2.執念の谷原
「フウ……」
本塁上にボールを転がし、佐々木は踵を返す。その背中に「ナイスキャッチャー」と、村井が声を掛けてきた。
「二塁で殺してくれて、助かったぜ。向こうも無謀(むぼう)なことをしたものよ」
「ああ。この回に限っては、だが」
正捕手の返答に、エースは訝しげな目になる。
「気になることでもあるのか?」
「おまえのインコースとあの牽制を見せられて、エンドランを仕かけてきたチーム、今まであったか?」
あっ、と村井は小さく声を上げる。
「そういや怖じ気づいて、なにもできなくなるチームばかりだったな」
「む。やつらの闘志は、並大抵のものじゃないってことさ」
二人がベンチに帰ると、自然にチームメイト達が集まってきた。すぐにダッグアウト前で円陣が組まれる。皆一様に険しい表情だ。
「秋から無失点の村井が、ここで打たれちまうとは」
まず坂元が口を開く。
「後ろで見てて、どうもカーブがよくないと思ってたが。やつらそれをねらって」
「ま……やつらは、負けてもともとだからな」
苦笑い混じりに言ったのは、岡部である。
「チャレンジャーの向こう見ずが、たまたまうまくはまったんだろう」
む、と細見も同調した。
「力量はともかく。思いきりよくぶつかってくる相手は、けっこう怖いからな」
「……ほほう」
ふと佐々木が腰に手を当て、二人を睨む。
「おもしろいこと言ってくれるな。墨谷がチャレンジャーなら、こっちは王者気取りか。春の甲子園で、西将にやられた俺達が」
厳しいキャプテンの言葉。二人はバツの悪そうに、うつむき加減になる。ナイン達の間に、しばし気まずい空気が流れる。
「まあ待て、佐々木」
ふいに口を挟んだのは、監督であった。すっとナイン達の輪に入ってくる。
「か、監督」
さしもの佐々木も、恐縮した表情を浮かべる。他のメンバーも直立不動の姿勢になった。
「気持ちは分かるが、そういきり立つことはあるまい」
「は、はい……」
「侮れない相手だということは、今さら言うまでもないがな」
そう言って、監督はちらっとグラウンド上を一瞥する。すでに墨高ナインが、七回表の守備に散っていた。
「ただ向こうを警戒するあまり、こっちのペースを崩すこともない。墨谷がねばりの野球で来るのなら、うちはうちの野球を貫けばいいだけだ」
指揮官の言葉に、谷原ナインは「はいっ」と応える。
「それよりワシが気になるのは、あの片瀬というリリーフ投手だよ」
ふいに監督が声を潜める。
「あのボウヤ、たしかにいいタマを持ってるが……見るからに足腰が細い」
「まだ一年生なので、きたえ不足なのでしょう」
宮田の発言に、指揮官は「うーむ」と渋い顔になる。
「きたえ方が足りないのは、たしかだろう。しかし同じ一年生の井口やイガラシは、いかにも頑丈そうな足腰をしていた。このちがいは、なんだろうか」
「ひょっとして……」
佐々木がハッとしたように、目を見開く。
「やつは故障上がりなんじゃ?」
「その可能性が高いとワシは思う」
指揮官の返答に、ナイン達は「ああ」とうなずいた。
グラウンド上。片瀬の投球練習の間、墨高内野陣はボール回しを行う。
「へいっ、サード!」
イガラシからのボールを、谷口はグラブに受けた。そしてすかさず「もういっちょ」と声を上げ、一塁方向へと体を向ける。
「ファースト!」
送球が、一塁手加藤のミットに吸い込まれた。パンッと小気味よい音が鳴る。
「……もう七回か」
三塁ベース横に移動して、谷口は一つ吐息をつく。
「さすが谷原だ。やっと流れをつかめたと思ったのに、すぐまた引き戻されてしまった」
ほどなく片瀬が投球練習を終え、いつものように倉橋が二塁へ送球した。
「せめてナインの気持ちが、受けに回らないようにしなければ」
そう胸の内につぶやき、谷口は「バッテリー」と呼んだ。
「二番からだ。さっきと同じく、思いきっていこうよ」
キャプテンの掛け声に、片瀬と倉橋は「おうっ」と声を揃える。
七回表。先頭打者の宮田が、右打席に入ってきた。
「二番からか。この後、クリーンアップに回るな」
さりげなく打者の様子をチェックしつつ、倉橋はマスクを被る。
「長らく話し込んでたのは、おそらく片瀬のことだろう。点を取られた直後だし、きっと攻め方を変えてくるだろうから、まずそれを探らねーと」
ほどなく、アンパイアが「プレイ!」とコールした。倉橋はすかさず、マウンド上の片瀬へサインを出す。
「まず、これよ」
片瀬はうなずき、すぐに投球動作を始める。その瞬間、何と宮田はバットを寝かせた。投じられたのはスローカーブ。
「なにっ」
驚きながらも、片瀬はマウンドを駆け下りる。同時に谷口と加藤もダッシュした。だがミットにボールが収まる寸前で、宮田はバットを引く。
アンパイアの判定はボール。うーむ、と倉橋は小さく首を傾げる。
「まともに打ち返せないもんで、小ワザを仕かけてきたか」
倉橋は「それなら……」と、次のサインを出した。
二球目。片瀬が左足を踏み込むと同時に、またも宮田はバットを寝かせた。投球はアウトコース低めに、小さく曲がる速いカーブ。再び三人がダッシュするも、やはり捕球寸前にバットが引かれる。
フン、と倉橋は鼻を鳴らす。
「打つ気がないのなら、さっさと追い込むにかぎるぜ」
続く三球目も、同じくアウトコース低めに速いカーブ。またしても宮田はセーフティバントの構えを見せたが、三たびバットを引いた。これでツーストライク。
「……しかし、みょうだな」
宮田の大柄な体躯を、ちらっと横目で見やる。
「このバッター、なりにしちゃ俊敏だが、どう見てもパワーヒッターだ。そんなやつに、なぜわざわざセーフティバントを」
訝しく思いながら、倉橋はマスクを被り直した。その時である。
バント処理から戻った片瀬が、膝に両手をつき、フウと大きく吐息を漏らす。倉橋はギクッとした。すぐさまアンパイアに「タイム」と合図して、マウンドへと駆け寄る。
「おい片瀬。なんだ今の、ヘンな深呼吸は」
まさか……と、囁き声で問う。
「どっか傷めたか」
「あ、いえ。スミマセン」
端正な顔立ちの一年生は、苦笑いして答えた。
「続けてダッシュしたもんで、ちょっと息が切れちゃって」
「なんでえ、おどかしやがって。あれぐらい……」
叱咤しかけて、途中で口をつぐんだ。そういや……と、胸の内につぶやく。
「こいつは故障上がりなもんで、ひざに負担のくる練習メニューはしてこなかったんだったな。それで谷原を一イニングおさえたんだから、大したものだが」
黙り込む正捕手に、片瀬が「先輩?」と訝しげな目を向ける。
「あ……いや。とにかく」
倉橋は一つ咳払いして、ミットで軽く後輩の背中を叩いた。
「いいボールはきてる。自信を持って、投げ込んでこい!」
「は、はいっ。ありがとうございます」
そう言って、片瀬は朗らかに微笑む。
ポジションに戻り、倉橋は「どうも」とアンパイアに合図する。ほどなく試合が再開されると、宮田は始めからバットを寝かせた。
「こいつ、なに考えてやがんだ」
さすがに倉橋は、不気味に感じ始める。サインを出し、ミットをわざと外角のボールゾーンに構えた。
「ちと探ってみるか」
投球と同時に、またも三塁手谷口と一塁手加藤がダッシュした。少し遅れて、片瀬もマウンドから駆け下りる。
「……なんだとっ」
しかし宮田は、一転してヒッティングの構え。バットをはらうように、辛うじて外へ逃げるボールに当てて、ファール。
「ランナーなしでバスターか」
倉橋は渋い顔になる。どうもすっきりしない。
「普通に考えりゃ、ボールの軌道がよく見えるようにってことだろうが」
ふとマウンド上を見やる。片瀬がまた、数回深呼吸していた。無理もねえか……と、倉橋はひそかにつぶやく。
「ただでさえ体力不足な上に、試合経験も少ない。しかも相手が相手だ」
この時ふと、思い至ることがあった。自然に一塁側ベンチへ視線が向く。
「まさか。谷原のやつら、片瀬の弱点を見抜いて……」
マスクを被り直し、倉橋は「いや」と小さくかぶりを振る。
「谷原ともあろう連中が、うち相手にそこまでやるか?」
五球目。宮田はまたもバントの構えから、一転してヒッティング。そして今度は速いカーブをカットした。
くっ、と倉橋は口元を歪める。
「片瀬のいちばんのタマも、あっさりカットされたか。こりゃキツイな」
一塁側ベンチ。その前列の隅にて、谷原監督は静かに佇んでいた。
「いいぞ宮田。この調子で、もっとゆさぶれ」
「あの一年坊、もうアップアップだぞ」
盛り上がるナイン達を横目に、複雑な視線をグラウンド上へ向ける。
「……悪く思わないでくれよ、墨高の諸君」
腕組みしつつ、監督は一人つぶやく。
「これも君らを認めるからこその、最善策だ」
その時である。ふいに谷口が「タイム!」と合図し、片瀬に歩み寄った。すぐに倉橋も、マウンドへと駆ける。
「倉橋。どうやら谷原は、片瀬の弱点を突いてきてるな」
キャプテンの指摘を、倉橋は「ああ」と首肯する。
「まさかとは思ったが。一点差にされたもんで、なりふりかまってられねえんだろう」
「む。そこで片瀬」
後輩に顔を向け、谷口は端的に告げた。
「バント処理は、もう俺とファーストの加藤にまかせるんだ。向こうのねらいが分かった以上、まんまとそれに乗っかることはない」
「は、はい。ぼくもそうしたいのですが」
そう言って、片瀬は苦笑いする。
「ピッチャーの習性で、どうしても足が出ちゃうんです」
一年生投手の返答に、先輩二人は思わず目を見合わせる。
「ほう。いぜん誰かが同じこと、口にしてたな。しっかり教育が行き届いてることよ」
倉橋の言葉に、谷口は「ハハ」と少しバツの悪そうに笑う。
「たしかにピッチャーも内野手の一人だ。反応するのは、悪いことじゃねーよ」
生真面目な後輩に、正捕手は目を細める。
「しかしそれも、時と場合によりけりだ。今後はそういったことも学んでいくんだぞ」
「は、はいっ」
素直に返事する片瀬。その背中を、倉橋はポンと叩く。
やがてタイムが解かれる。
倉橋は、アンパイアから替えのボールをもらい、片瀬へ返球した。この間、なぜか宮田はバットを立て、通常の構えに戻す。
「あの手この手とよくもまぁ」
ひそかに溜息をつく。倉橋は呆れながら、半ば感心もしていた。
「谷原のやつらも、それだけ必死なんだな」
そして六球目。片瀬が左足を踏み込んだ瞬間、宮田はすっとバットを寝かせる。
「やはりセーフティか!」
マスクを放った倉橋の眼前で、小フライが上がる。ちょうどマウンドとホームベースの中間地点だ。そこへ片瀬が猛ダッシュして、グラブの左手を伸ばしダイブした。
なっ……と、思わず目を見開く。
片瀬はすぐさま、土にまみれた顔を上げ、グラブを掲げて見せる。その先端に、ボールは引っ掛かっていた。
「あ、アウト!」
アンパイアのコール。そして一年生投手の気迫の好プレーに、内外野のスタンドから拍手が沸き起こる。
「……か、片瀬!」
しかし倉橋は気が気でない。すぐに助け起こし「おまえひざは?」と、尋ねる。
「これぐらい、どうってことありませんよ」
少し息を弾ませながらも、片瀬は力強く言った。
「バカめ。故障上がりのくせに、ムチャしやがって」
軽く叱った後、倉橋はポンと後輩の背中を叩く。
「だが見かけによらず、いい根性してるぜ」
内野陣からも、次々に声が掛けられる。
「ナイスプレーよ片瀬!」
谷口が小さく右拳を突き上げた。さらに丸井も「見上げた闘志だぜ」と讃える。
「……さて。どうにかワンアウトを取ったが」
ホームベース手前に屈み、倉橋は気を引き締め直す。
「問題はここからだぜ」
ほどなく右打席に、三番打者の大野が入ってきた。こちらも眼差しが険しい。
「やれやれ。始まった頃のよゆうは、どこへ消えたんだか」
横目で打者を観察しつつ、苦笑いする。
「どうやら俺達。完全に、谷原を怒らせちゃったらしいぞ」
初球。片瀬が投球動作に入ると、この大野もバントの構えをした。
すかさず谷口と加藤、さらに片瀬もダッシュする。ところが捕球寸前で、またもバットが引かれた。速球がアウトコースに決まりワンストライク。
「おいおい……さっきホームランを放った打者にまで、バント戦法とは」
倉橋は思わず、一塁側ベンチを睨む。
「やつら本気で、片瀬をつぶす気だな」
続く二球目。大野は始めから、バットを寝かせる。
「今度はバスターかよ。まったく、いろいろとご苦労なこった」
皮肉を胸の内につぶやく。そして片瀬の投球。大野はやはりバットを立て、ヒッティングへと切り替えるかに見えた。
しかし次の瞬間。大野はまたバットを寝かせた。
「な、なんだとっ」
低めに投じられた速球を、大野は三塁線へ転がした。まさかのフェイントに、バント守備のスタートが遅れる。
「……いや、まて」
三塁線上で、谷口が冷静に言った。白線上を転がってきた打球は、ベース手前で僅かに外へ切れる。
「ファール、ファール!」
塁審が両腕を交差した。
「フフ。今のは完全に、意表をつかれたな」
打席に戻ってきた大野が、倉橋に向かい不敵に笑う。
「パターンどおりの攻めしかできない、谷原と思うな」
倉橋はぐっと、右こぶしを握り込む。
「言わせておけば……しかし、谷原め」
正捕手の視線の先で、一年生投手が肩を上下させている。
「こうもしつように、ゆさぶってくるとは」
ザシッ。低めをねらった片瀬の投球が、ホームベース手前でワンバウンドした。
「おっと」
倉橋は咄嗟に、ミットを立てて捕球する。
「す、すみません」
頭を下げる片瀬。倉橋は「力が入ってるぞ」と言って、ぐるんと両肩を回す。
「ほれ、こうやって体をほぐすんだ」
「分かりました」
後輩は素直にうなずいた。マズイな、と溜息混じりにつぶやく。
「得意のカーブまでも、制球できなくなってきてる」
アンパイアが「スリーボール・ツーストライク」とコールした。その傍らで、大野は一旦打席を外し、数回素振りする。
「このヤロウ、さっきからネチネチと……」
倉橋はつい、打者を睨んだ。
「つぎで九球目だぜ。その気になりゃ、もっと早く打てたろうに」
その九球目。こうなれば……と、ミットをど真ん中に構える。
「しめくくりはシュートよ」
胸の内につぶやき、サインを出す。
「もうコースより、ボールのキレで打ち取るんだ。思いきり腕をふれっ」
片瀬はうなずき、すぐに投球動作へと移る。
その瞬間、大野はすっと立ち位置をピッチャー寄りにずらした。そしてバットを前へ放るように、軽くスイングする。パシッと小気味よい音。
「せ、セカン!」
倉橋の掛け声も虚しく、速いゴロが片瀬の足下をすり抜け、二塁ベース右を破る。センター前ヒット、ワンアウト一塁。
「くそっ、やられた……」
技ありの一打に、正捕手は唇を噛む。
「体力をけずった上に、まがりっぱなを叩くとは」
その時、再びキャプテン谷口の声が響く。
「タイム! 内外野、みんなマウンドに集まるんだ」
各ポジションは、ほぼ無人である。墨高ナインはマウンド上にて、力投の一年生片瀬を囲むように集まった。
「……片瀬」
まず谷口が、穏やかな口調で告げる。
「よく投げてくれたな。流れをもってこれたのは、おまえのおかげだ」
「いえ……あっ」
顔を上げた片瀬だったが、すぐマウンドに片膝をついてしまう。
「お、おいっ」
慌てて加藤が屈み、寄り添う。
「まさかひざを……」
片瀬は「いいえ」と苦笑いした。
「足首です。急にダッシュをくり返したせいか、両方ともつっちゃって」
「トレーニング不足だな」
冷静に言ったのは、やはりイガラシだ。
「ひざをかばった練習量じゃ、このぐらいが限界ってことだ。故障上がりだったから、仕方ないけどよ」
歯に衣着せぬ指摘をしつつも、イガラシは「ほら」と右手を差し出し、力投の同級生を助け起こす。
立ち上がると、片瀬は全員を見回し、いつもの朗らかな笑みを浮かべる。
「期待に応えられず、申し訳ありません。みなさん後をたのみます」
ぺこっとお辞儀して踵を返し、三塁側ベンチへと駆け出す。その背中に敵味方問わず、観衆から拍手が送られた。
「てやんでえ」
ぼやいたのは丸井である。
「なにが期待に応えられず、だ。一時はベンチ入りも危ぶまれながら、あれだけのピッチングをして見せたくせに。気取りやがって」
口調とは裏腹に、目には涙が溢れている。
「さあ……井口、イガラシ、片瀬。みんなそれぞれの役目を果たしてくれた」
谷口はそう言って、ナイン一人一人の顔を見回す。
「つぎはおれの番だ。なんとしてもおさえて、ウラの攻撃につなげて見せる」
キャプテンの決意に、ナイン達は「オウ!」と力強く応えた。
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