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「申」をなぜ「サル」と読むの?

2021-09-10 17:52:29 | 古代史
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「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!(2020-11-28 19:54:00)に以下のように書きました。

「申」は「いなびかり」を示す字という説明のようです。

『漢書』律暦志によると申は「呻」(しん:「うめく」の意味)。果実が成熟して固まって行く状態を表しているとされる。
後に覚え易くするために動物の猿が割り当てられた。(Wiki「申」より)

しかし、この説明では良く分かりません。「申」を「サル」と読むのはやはりサルタヒコと関係があるのかも知れませんね。どなたかお詳しい方がおいでなら、お教えください(#^.^#)

これに対して、テレビとうさんからいいコメントを頂きました。

申⇒猿 (テレビとうさん)
2021-09-07 07:39:50
「後に覚え易くするために動物の猿が割り当てられた。」

この「後に」は、いつの事か判りますか?

私の感では「江戸時代」のような気もしますが。
🐵


Re:申⇒猿 (刮目天)
2021-09-07 08:43:21
おはようございます。Wikiにそのように書かれていますが、申は十二支のひとつですね。古代中国で始まった十二支は、早い時期に動物が充てられていたのだとすると相当古いですね。
日本では、720年に完成した日本書記で神の中の神であるサルタヒコが登場しますから、申をサルと呼ぶのは8世紀よりも古いのではないかと思います。猿楽は飛鳥時代に秦河勝が始めたといわれています。やはり、干支が日本に伝わった時期でしょうか。弥生時代後期の伊都国王は孟子を読んでいると推理していますから、その時期には十二支も伝わっているのかも知れませんね。また、何かありましたら、よろしくお願い致します(*^-^*)


これに対して、テレビとうさんから更に謎解きに繋がる以下のいいコメントを頂きました。

申⇒環 (テレビとうさん)
2021-09-07 18:52:44
調べてみると、秦の時代の竹簡で、

/wiki「生肖#歴史」

「…申、環也。…酉、水也。」と書いてあり、「環」が何を意味するのかは分かりませんが、「酉」はツボの中の水(酒)を意味する事から考えると、「環」は水以外の環境、例えば「大地」を意味するようにも思えます。

また、イナズマ⇒申から、自然現象の畏怖を表していたのかも知れません。ここから「神」は理解できるのですが、「サル」に辿り着くことが出来ませんでした。

以上、報告まで。


とのことなので、早速/wiki「生肖#歴史」を調べました。生肖(せいしょう)ということばをはじめて知りました(@_@)

その成立時期は従来、後漢の王充『論衡』にあることから後漢頃とみなされていた。

しかし、湖北省雲夢県の睡虎地秦墓から1975年に発見された竹簡(睡虎地秦簡)のうち卜占に関する『日書』の部分に十二生肖の記述が見つかり、紀元前200年代の秦の時代には既に成立していたことが分かった。

『日書』には次のようにある。

「子、鼠也。…丑、牛也。…寅、虎也。…卯、兔也。…辰、(原文脱落)。…巳、蟲也。…午、鹿也。…未、馬也。…申、環也。…酉、水也。…戌、老羊也。…亥、豕也」

(訳:子とは鼠(ねずみ)である。…丑とは牛である。…寅は虎である。…卯は兎である。…辰は(原文脱落)。…巳は蟲(むし、へびか?)である。…午は鹿である。…未は馬である。…申は環である。…酉は水である。…戌とは老いた羊である。…亥は豕(ぶた)である。)
比較すると「子鼠・丑牛・寅虎・卯兔・亥豕」は現在と一致し、「巳蟲・申環・酉水」も現在の蛇・猿・鶏と関連すると考えられている。ただ、「午鹿・未馬・戌老羊」というところに鹿が入り、その代わり、犬がない。順序も異なっていた。


これを見ると、十二支に生肖が当てられていないのは「申環・酉水」の二つだけのようです。この時代では「申」は「イナズマ」の意味ですし、「酉」も「トリ」の意味ではないようです。

そこでまず「環」を調べると、普通は「リング、ワ」の意味ですが、古代中国の天文関係では「光環」「行星環」を意味し、土星や天王星などの惑星の周りの環のことのようです。ですから、「申(イナズマ)は環也」というのは、中国の占星術では「イナズマ(申)は天体の運行(環)で起こる現象だ」と言う意味ではないかと思います。

そこで、中国の天文学・占星術で用いる二十八宿というのがありますが、これは天球を28個のエリア(星宿)に不均等分割したもので、天の赤道付近の28の星座(中国では星官・天官といった)のことです(wiki「二十八宿」より)。



左上の図が本来の二十八宿を表す図です。右の図と下の表は二十八宿にそれぞれ生肖が当てられています。ここで、四象は「青竜・朱雀・白虎・玄武である。古代中国天文学では「四神」ということが多いが、後世の風水では四象と呼ぶ。」とあります(Wiki「四象(ししょう)」)。七曜は「肉眼で見える惑星を五行と対応させた火星・水星・木星・金星・土星と、日(太陽)・月(太陰)を合わせた7つの天体のことである。七曜星とも言う」とあり(Wiki「七曜(しちよう)」)、四方向にそれぞれ七つの星宿が割り当てられています。その中の金星、日(太陽)、火星にそれぞれ四つの星宿が当てられ、全部で十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の名前の星宮が割り当てられています。

その中の「西方白虎」の七宿の六番目「火星」が觜火猴(申宮)、七番目「水星」が参水猿と呼ばれています(オリオン座のそれぞれラムダ星とゼータ星に対応します)。猿・猴(こう)はどちらもサルです。百度百科「觜火猴」によると「玉帝麾下暗藏两大神猴」とあり、觜火猴と参水猿は道教の最高神「玉帝」に仕える両大神とされていました。これでようやくサルが神と関係づけられました。

玉帝(玉皇大帝)は「中国道教における事実上の最高神で、天界または宇宙の支配者であり、その下の地上・地底に住むあらゆるものの支配者でもある[1]。現在も庶民から篤く崇拝されており、民間信仰や、東南アジアなどの華僑の間では最高神として扱われる。」とあります(Wiki「玉皇大帝」より)。



この図の中央上部に玉帝が描かれています。玉帝の左側が觜火猴で、右側が参水猿でしょう。

そして、二十八宿のひとつである觜火猴に申宮が当てられていることから、十二支の原形を示した『日書』の一部の生肖が割り当てられていない(…申、環也。)の申(イナズマ)がサルと関係づけられたので、「申」を「サル」と呼ぶようになったのだと思います。サルは神の使いどころかサル大神として日本に入ってきたのでしょう。だからサルタヒコ大神が登場するのだと思います。

またもう一つの(…酉、水也。)についても同様に、十二星官の酉宮が二十八宿の昴日雞に当てられているので「酉」を、「雞」はニワトリですが、「トリ」と呼ぶようになったのだと思います。

つまり、最初に二十八宿に生肖が割り当てられており、十二支が二十八宿の十二星宮に割り当てられたことで、十二支にすべて生肖が当てられるようになったということでしょう。(2021.9.11 赤字追加)

いつごろからそうなったかが問題です。Wiki「二十八宿」によれば「考古学上、二十八宿の名称が整った形で発見されたのは、1978年、湖北省随県で発掘された戦国時代初期(紀元前5世紀後半)の曾侯乙墓(曾国の乙侯の墓)から出たものが最古である。そこで発見された漆箱の蓋には青竜・白虎と朱書きされた二十八宿の名称のある図があった[1]。」とあります。

ここで、Wiki「玉皇大帝」によれば、玉帝は最初から最高神ではなかったとあり、六朝時代(建康または建業に都をおいた三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称)、『上帝(昊天上帝、天帝とも)が古くから天の主催者として信奉されてきた。道教では「太元」を神格化した元始天尊、次に「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、その後これらに「老子」を神格化した道徳天尊(太上老君)を加えた三柱(「三清」)が最高神とみなされていった[2]。

「玉皇」という名称は古くは六朝の道士・陶弘景の『真霊位業図』の中にみられるが、その地位はあまり高くなく、(途中省略)玉皇大帝が本格的に最高神とされるようになったのは北宋である。』
とあります。北宋は960年から1127年の王朝です。しかし、中国版のWiki維基百科「玉皇上帝」によれば、『「玉皇」這個名稱比太上老君出現要晚一些,魏晉時期有「玉皇道君」與「高上玉帝」兩位大神。』つまり「玉皇大帝」という名前は、太上老君よりも後に登場し、魏晋朝では「玉皇道君」と「高上玉帝」という大神がいたとあります。ですから、両大神をまとめて玉皇大帝(玉帝)としたということですから、すでに三世紀ごろには偉大な神として登場していたということだと思います。

Wiki「二十八宿」「日本における最初の二十八宿図は、7世紀から8世紀頃に造られた高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で白虎などの四神の図と共に見つかっており[2][3][4][5][6][7]、中国の天文学体系がこの頃には渡来していたことを伺わせる。」とあります。

そして、申(猿)楽の祖と伝わる秦河勝は、生没年不詳ですが、七世紀、聖徳太子の部下として活躍した人物ですから、その時期にすでに「申」を「サル」と呼んでいたということです。ということは、大国主久々遅彦を分身のサルタヒコ大神として隠したのは、藤原不比等ではなく、秦河勝かも知れません。

何故、大国主命などの神が隠されなければならないのかですが、久々遅彦(狗古智卑狗)を狗奴国ヤマトの卑弥弓呼大王(ヒコミコ、崇神天皇)の命令で尾張王(オオタラシヒコオシロワケ、景行天皇)が殺害したことによって、日本の建国が達成されたわけですが、一方でヤマト王権にとって不都合な面もあったのでしょう。

つまり、落雷や地震・津波・疫病などの災害や、ヤマトの後ろ盾の呉が滅ぼされて、西晋に追討される恐れが生じたのは、大国主をはじめとする、建国の過程で殺された貴人(台与と卑弥呼)たちの祟りだとして怖れたからです。

ですから、大国主やオオモノヌシ、オオナムチ等々の数多くの別名を作り、サルタヒコや事代主、オオヤマツミなどの分身も数多く創作して、その真相を隠して鎮魂の祈祷などを行ったのだと推理しました。これはヤマト王権や朝廷に従う豪族やその部民もですから、朝廷の神祇祭祀だけでなく、民間信仰で大国主やサルタヒコなどの久々遅彦の分身が別々の神として信仰の対象になったと考えられます(注)。民間信仰は当時の先進的な文化を取り入れて活躍した秦氏などの渡来人の影響かも知れません。その後の神仏習合や修験道も根本は同じだと考えています。

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(注)日本書紀で無視された大国主命の神話は、古事記の編者とされる太安万侶の一族で、古事記を世に出した九世紀の多人長(おおのひとなが)が集めた可能性があります。多人長は朝廷で日本書紀を講義していた人物で、古事記の序文を書いた人物と見られています。古事記が日本人に知られるようになったのは江戸時代の本居宣長からですが、すでに民間信仰や説話などによって人々は建国の真相の一部が伝承されていたようです。明治以降に記紀に基づく国家神道が創設され国史が学校教育でされるようになり、多くの日本人は記紀の内容が日本の歴史だと思うようになっています。しかし、神話や古代天皇の事績などは考古学的には否定されるので、謎となっています。それを科学的に探求しようというのが刮目天の立場ですから、通説とは違うものになっていますが、弥生時代から古墳時代初頭のヤマト王権の成立過程は以下のようになっているのだと推理しました。

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最後までややこしい話にお付き合い、ありがとうございます。
今回は不慣れな道教とか占星術の話ですので、もしも間違って理解していたり、理解不足な点がありましたら、ご指摘ください。
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