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魏志倭人伝の渡海ルートは間違い?(@_@)

2022-05-18 13:08:07 | 古代史
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魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆にWAJINみならい様から今回もよく整理されたいいコメントを再度頂きました。どうも、ありがとうございました。回答が長くなったので、ブログ記事にしました。ただし、ご質問は先のブログのコメント欄に全文載せていますので、詳しくお知りになりたい場合はご参照ください。長いですが、お付き合いください(*^▽^*)

それでは、ひとつひとつ見て行きましょう。
1.先に貴殿説の疑問点を述べます。
a. 1日漕げば千里進めると記録したのは、信憑性はあるのでしょうか。海と陸を並走して距離を測るなどは、実現不可と思うのですが。
  この場合の里程は、長里ですか、短里ですか。
  長里なら日に430kmにもなります。短里なら、一寸千里法で直に測れば良いでしょう。
1日漕ぐ測量方法は、海流や風の影響も強く誤差を生じ非現実的です。
  1日漕いだら1000里とする新規格なら、山岳を挟む陸地は測れないことになります。


海洋技術の専門家の遠澤先生が「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」(成山堂書店)の中で、渡海千里は1日(昼間一杯)の櫂走の距離としていると主張されている説に従っただけです。

長里か短里かとのご質問ですが、魏の時代にあった里制は1里約434mだけです。短里制はなかったということです。魏志倭人伝は出発地と到着地の間の里数はあっても、それらの具体的な場所まで明記されていません。ですから、考古学の知見から書かれた国の出発・到着場所を推定するほかないですが、考古学から分かっている国の各区間の1里当たりの実際の距離が一定ではありません。

例えば伊都国(三雲南小路遺跡)から奴国(比恵・那珂遺跡が中心都市)の距離はGoogleMapで徒歩ルート23.3kmですが、魏志倭人伝には百里と書かれていますから、1里あたり約233mとなります。短里制を主張される方は1里当たり約76mですから3倍くらいになります。短里で百里(約7.6km)は今宿五郎江遺跡くらいまでですので、まだ伊都国内です。奴国の中心都市には全く届きません。



ですから、魏志倭人伝で短里を用いたという主張は、正しく書かれているはずだからという単なる思い込みの妄説なのだと分かります。

これを認めないで、考古学の成果が間違っているという議論は科学的ではありませんよ(「魏志倭人伝をシナ人が読んで邪馬台国が分かるの?(@_@)」参照)。

では、なぜそんなデタラメな里程が書かれたのか考えると、魏志倭人伝の他の部分も考察し、西晋の基礎を築づいた司馬懿の功績を称えるための政治的な意図で行程を過大な里数にしていると結論できるのです。詳しくは拙ブログ「魏志倭人伝の真実」などに詳述しているので、是非ご理解ください。これが分からないと話は堂々巡りになるだけですから。

b. 帯方郡から狗邪韓国の7日渡航は無理かもです、地乗り航法で1日千里は無理でしょう。黄海には黄海暖流が左巻きに流込んでおり、郡からは逆流につき地乗り航法となる。日40kmと多めの潮流としても狗邪韓国へは14日はかかるでしょう。

遠澤先生は専門家ですから海流や潮流を考慮して帯方郡から狗邪韓国まで大雑把に7日、7千余里だと推定しています(前掲書p.120)。



c. 御説では狗邪韓国から不弥国まで3日とありますが、対馬と壱岐は直行できなかったので、無理でしょう。

狗邪韓国から不弥国までを3日とは言ってません。九州の上陸地点末盧国までが三度の渡海で三千余里ですから3日というのが遠澤先生の推理です。対馬と壱岐間が直行できないという貴説は採っていません。後でまた説明します。

不弥国が確定していないので諸説ありますが、奴国(比恵・那珂遺跡群)から不弥国(ウミコク、水行の出発点は新宮町と考えています)まで百里16.4kmですから、これも短里制ではないと分かります。

d. 末盧国からの、500里や100里などは、どのように測ったのでしょうか。1里のロープを使う手がありますが、短里76.6mのロープを作ること自体難しい上に、川や山・曲折道の直線距離は測れません。
不弥国が新宮か宗像としても、末盧国から、伊都國・奴国の距離は合わないようですが、伊都國と奴国の場所が分からないです。


陸行は歩きです。中国では右足を出して左足が着地するまでの長さを1歩として(時代によって規定された長さは多少違う)、300歩で1里と決めていましたから、歩数を数えるのが最も簡単です。

e. 不弥国(宗像として)から豊津までは関門海峡廻りですか、又は仮遠賀湾経由で直方辺りから遡上する曳舟ですか。いずれにしろ2日では無理でしょう。
10倍説はよく聞きますが、戦略上の理由とは言え無理筋、何か根拠があると嬉しいです。
  関門海峡が安全に通れるようになったのは明治からで、陸続きだったところが浸食によってできた海峡。大型船は無理、小型船も岩礁が見え隠れする穴門を通る危険航路だったのですが、それでも通過できたのでしょうか。


不弥国から投馬国(中心地は京都郡みやこ町節丸字在馬・豊津付近)まで水行2日と推理しました。長野正孝「古代史の謎は海路で解ける」を参考にして、福間ー赤間、遠賀川河口ー関門海峡は潮流を利用して可能だと思います。だから魏志倭人伝の水行20日は実際の日数を10倍した過大な日数だと推理しています。卑弥呼のいた場所が宇佐市安心院町三女神社とわかったので、そこから難升米がどういうトリックをしたのかを推理したのです。



ただし、魏の船ではなく、丸木舟です。魏使は伊都国の男王(卑弥呼の政治を輔佐する男弟とした)=倭国王難升米に面会するだけで仕事は果たせます。鬼道で人々を惑わし、ほとんど人に会わない卑弥呼が女王という設定は、難升米と帯方郡太守が談合して、魏の朝廷の人々の注目を集めるためのフェイクですが、太陽神のお告げを伝える役目の巫女ですからその通りだと考えています(注1)。

また、行程記事の末盧国からの方角は、実際は東ですが、呉(会稽郡東冶県)の東方海上に東夷の大国があるとするために南としています。倭女王を魏に朝貢させた功績は魏で第一等のものとして、すべて司馬懿の功績だと主張する為なのです。

f. 安心院が邪馬台国ですか、魏にとっては舟は命、舟から離れたくなかったので、安心院までの陸行は曳舟とするのも一案かもしれません。
ただ、倭国連合は出雲の交易圏で、宇佐は瀬戸内海の交易圏かと思うのですが。単に卑弥呼の里ということだったのでしょうか。


倭国王が倭国大乱を鎮めるために、敵対する玄界灘を支配するムナカタ海人族を懐柔した時の条件として、太陽神を祀る姫巫女(通称ヒメゴ)のお告げを聞いて政治判断をするという条件があったと考えています。倭国大乱期は卑弥呼が居た宗像の王宮は海に面しているので物騒ですから宇佐市安心院町に疎開してたと推理しました。記紀神話で葦原中つ国の宇佐嶋に降臨した宗像三女神としていますが、その主神イチキシマヒメのことで、宇佐神宮の比売大神です。

安心院町の卑弥呼の宮室まで駅館川を倭人が丸木舟で遡行するのですが、川幅が広い箇所は櫂走だと推理しています。支流の川幅の狭い浅瀬になると人力で曳行でしょう。二番目の魏使張政は倭人の舟に乗って行き、卑弥呼の墓を見た可能性があります(注2)。

g. 水行10日陸行1月を帯方郡から邪馬台国までの日数とは言っておらず、なにも示していません。

これは水行10日陸行1月は帯方郡から邪馬台国までの日数のことだとする説に対する意見を述べた次第です。

h.「呉の東の海上」ではなく、隋書には「会稽の東にあり儋耳と相近し」とあるので、紹興市の真東の種子島でしょう。一寸千里法で観測すると同緯度になります。

范曄「後漢書」では会稽東冶とあり、邪馬台国は台湾の東方向です。中国正史で倭人の文字の初出は「漢書」地理志です。「楽浪郡の(南の)海上に倭人有り」と紹介されていたので、風俗も似ていることから海南島に近いとしたかったからだと推理しています。范曄は邪馬台国と正確に書いていますので、これが正しいと思います。倭国の地名や人名などは漢字を読み書きし、シナ語も話せる教養人の難升米が劉夏と談合して、漢字で書いて教えたものだというのが、伊都国と書いてその意味を理解していることから分かるのです(「【検証22】難升米という人物は?(その1)」参照)。邪馬台国もヤマコクに住む台(女王)の国という意味なのです。だから、邪馬壱国は版本の元となった写本の段階で書き換えられたと推理できます。原本に忠実に読むべきと主張される方がいますが、版本は原本ではないので、今となっては残っていない原本の内容を推理する以外にないのですから、この考えも妄説なのです。

なお、野上道男「『周髀算経』の一寸千里法記述における論理的破綻」によれば、「結論として「栄方陳子問答」の一寸千里法は、太陽の大きさや日影長を観測せず、しかも『淮南子』の方法を改竄開陳するときに、いくつかの誤りを犯している、と判断される。」とあります。日影長から緯度差は知ることができますが、実際に使われた証拠はあるのですか?

2.女王国の世界観

女王国は邪馬台国のことと談合によってそうしたのです。実際は難升米が軍事を掌握している人物でした。魏は倭女王を差し置いて難升米に正規軍旗「黄幢」を直接授けていることからも倭国王であったと分かります。卑弥呼はムナカタの姫巫女であって、統治者でも女王でもなかったのです。すべて司馬懿の功績を持ち上げるための演出だったのです。多くの研究者はこのことを見抜けないから、魏志倭人伝は正しく書かれているはずだとして、苦しい解釈に終始して邪馬台国問題が解決しなかったのです。ですから、編纂者の意図を読んで、考古学などの成果によって文献の信ぴょう性を評価し、真相を科学的に推理してすべてが分かったのです。この手法を拙ブログ「古代史の謎を推理する」に詳しく述べていますので、どうかご理解ください。

魏志倭人伝の性格から島嶼などの周囲の長さもかなりいい加減なものだと分かります。

侏儒國、裸國、黒齒國などについては魏使が実際に行ったのではなく、下の図に示しましたが、倭人などからの伝聞や漢書地理誌などの書いたものからの記事のはずです。



3.倭国連合の交易について

縄文時代からムナカタ海人族が宗像から半島南部、山陰・北陸、そして瀬戸内、太平洋沿岸、沖縄などで黒曜石や貝輪などの取引で活発に活動していました。紀元前10世紀ごろから江南出身の倭人が半島南部(韓国辺り)に水田稲作技術を持ち込み、半島の縄文人と交流していました。混血が始まっていたかもしれません。半島の北部は前12世紀殷(商)王朝末期に王族の箕子の一族が入って青銅器文化を持ち込みました。箕子朝鮮は前三世紀まで続きます。縄文人も倭人も箕子朝鮮と交流していたと考えられます。

「倭国大乱の後の、卑弥呼の時代には、狗邪韓国の西の勒島から壱岐に直行する、つまり対馬をパスする新ルートもあった。」とありますが、もしもその痕跡があるならば、恐らく海流によって漂着したのだと思います。当時の航海技術では、できるだけ島影を見ながら航海するのが基本ですから。魏志倭人伝に瀚海と書かれた対馬海峡についても同様です。できるだけ島影が目視できる季節や天候を選んで渡航するはずです。

4.私の自説(と言っても、皆さんの説を纏めただけですが)
(9)比定地区のルート案(3点)

①九州説1(投馬國と邪馬壹國には行かなかった説)
 往路 郡→勒島→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國 (奴国・不弥国も訪問無し)
 復路 伊都國→五島→対馬→狗邪韓國→郡
 この場合、日程はなく単に里程での説明、投馬國と邪馬壹國の日程は倭からの伝聞であろう。

②九州説2(投馬國Uターン説)
 (水行20日) 郡→狗邪韓國→対馬→投馬國(出雲)
 (水行10日陸行1月) 投馬國→(Uターン)→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國→(御笠川?遠賀川?曳舟)→邪馬壹國(甘木田川吉野ヶ里?)

  日程は倭からの伝聞の可能性があるので、数日は異なると見た方がいいかもです。

③近畿説(奈良)
 (水行20日) 郡→勒島→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國→投馬國(出雲)
 (水行10日陸行1月) 投馬國→宮津→(曳舟)→須磨→摂津→邪馬壹國(奈良?) (復路に五島→対馬→狗邪韓國に立寄り)


貴説ではいろいろと新しいルートの存在を主張していますが、室町ー江戸時代の朝鮮通信使も釜山ー対馬ー壱岐から九州に上陸して帰路も同じなのです(wiki「朝鮮通信使」によれば、一部対馬から直接に赤間関を目指すルートもあったとありますが)。航海技術は少しは進歩しているのかも知れませんが、魏志倭人伝の三世紀でも、季節と潮流などを見て航海しますので、貴説のようなそんな迂回するようなルートは採らないと考えています。

あなたは皆さんの意見でと言ってますが、貴説の根拠となる文献・資料を知りたかったのです。papaチャンネルにあるのでしたら時間を教えてください。でも、タイトル画面を見ただけで判断したら悪いかも知れませんが、その面白い説は、科学的な考察になっているのか疑問ですよ(*´Д`)

すでに最初のあなたのコメントへ回答したとおりですが(Re:魏志倭人伝)、あなたへの以下の質問を最後にしました。これについてご見解が得られていないので、分からないというご回答でよろしいのでしょうか?

Q.もしもあなたの説が正しいならば、そのようなコースを示唆する行程記事に何故しなかったのですか?誰の意図ですか?

魏志倭人伝が政治的に作られた文書だと言えますので、行程記事などはフェイクですが、実際はどうだったのかをいろいろと検討されることは必要だと思います。あなたの主張するような新たな発見ができるかもしれませんから。でも、従来の妄説を鵜呑みにしては間違いますよ。

参考資料 (気が向いたら参考して下さい)については上で述べた部分は、これ以上言及しませんが、参考にさせていただきます。どうも有難うございました( ^)o(^ )


(注1)唐古・鍵遺跡の土器に描かれた縄文系の巫女は下半身を露出していますから、トランス状態になるためだと考えられます。神が巫女に憑依するためですから、巫女は神の妻だと考えています(「卑弥呼の正体?(@_@)」参照)。伊勢神宮と賀茂神社に独身の皇女が斎王となる制度が奈良時代から南北朝時代までありましたから、女性天皇というのは藤原不比等のフェイクだと考えています。京都にある天皇家の菩提寺でも女性天皇は祀っていないと分かりました。女性は巫女ですから天皇の役割はできません。これは男女差別ではないのです。

(注2)玄界灘を支配するムナカタ族の族長は4世紀から6世紀まで有力氏族とされる和邇氏の祖の先代の赤坂比古であることが和邇坐赤坂比古神社から分かりました(「女王を共立した赤坂比古は?」参照)。卑弥呼の父親で、最初は安心院町宮ノ原遺跡で卑弥呼と暮らしていましたが、先に他界して直径約120mの卑弥呼の墓よりも少し小さめの円墳「奥城古墳」の被葬者だと推理しています。鳥栖市愛宕山神社を王宮として周辺を支配していたと考えています。

卑弥呼の死後ヤマト政権から三女神を祀るように命じられた水沼氏は赤坂比古の支族だと考えられます。宮ノ原遺跡の大平古墳から三角縁神獣鏡の破片が出土していますので、水沼氏がその被葬者だと推理しています(「本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)」参照)。



最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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8 コメント

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魏志倭人伝 (みならいWAJIN)
2022-05-18 23:31:51
すみません、一つ訂正があります。
短里の76.6mのロープは作れない は作れるの間違いです。
 まず70m位のロープで千里先まで1000回測ります。短ければ次に75m位で再度確かめます。徐々に76.6mに近づけ再トライします。マンガチックですが、可能性はありです。ただ、伊能先生が苦労したのは、ロープは伸びるし痛むし、最後は鎖、でも満足はしなかったようです。以上余談です。
Re:魏志倭人伝 (刮目天 一(はじめ))
2022-05-19 03:56:32
了解しました。日本地図の歴史を見ると、江戸後期19世紀初頭の伊能忠敬のやり方はありましたね。でもそれまでは平安時代9世紀の行基図のようなものしかなかったようですから、3世紀には測量技術はないですよね。中国でも似たようなものでしょうか。15世紀の初頭に混一疆理歴代国都之図に描かれた日本の位置は魏志倭人伝の影響を受けている感じですね(^_-)-☆
魏志倭人伝 (みならいWAJIN)
2022-05-22 19:51:03
 返信有難う御座います。混一疆理歴代国都之図ですね、よくできていますね、こんなもんでしょう。日本に関心がなかったか、スペースの都合か、上が北でなくても良かったのでしょう。
 伊能先生は、星食も利用したようですが、上手く行かなかったようですね。一寸千里法は南中の確認だけで、距離測定には使わなったようです。たぶん、影長一寸を千里と見立てる、奇妙な新規格がイヤだったのでしょう。

 大陸では一寸千里法で地図を作り、都市間を長里での実測値で表記したと推察します。地図が完成すると、短里は不要になり姿を消したのでしょう。屈折道の実測だけでは、方角が不正確なので、地図というより、ただの案内図です。

 大陸の地図は、すでにメカルト図法を取入れていたといいますが、一寸千里法で地図を作ると、同じように北が間延びする似た絵になります。交趾郡(ハノイ)と洛陽の距離は1.1万里と言われ、方角等も概ね合っています。これは洛陽から長江を下り、シナ海・香港を経由でハノイに到着するれば、ほぼ長里1.1万里になります。

そ れから、一寸千里法の精度は南北千里当たり1/10程度なので、1/1000を要求する伊能先生の基準に合わなかったのでしょう。さらに言うと先生は、一寸千里法が夏至日以外の毎日でも使えることに気がつかなかったかもしれません。

 余談ですが、機内五芒星という、元伊勢・伊吹山などを結ぶレイラインを、古代人はどのように認識したかを、一寸千里法と導線法で摸してみたら、確かに五角形になります。先人が一寸千里法を使ったかは分かりません、五芒星は近代人の創作かもしれません。
Re:魏志倭人伝 (刮目天 一(はじめ))
2022-05-22 23:08:08
何のはなししてましたっけ?
そうだ、そうだ、一寸千里法が三世紀の魏志倭人伝の行程記事で使われていたというあなたの主張の根拠は分からないということですね!(;一_一)

それからわたしの仮説への質問に対する回答も、理解したということで良いの
ですね?

その他の当方の意見に対しても、特に言及することはないということで良いですね( ^)o(^ )

あなたの新ルートについて質問した答えも頂いてませんが、これも分からないということなのですかね(^◇^)

それでは、また疑問点が出てきたらでいいですから、教えてください。有難うございました(*^▽^*)
 
魏志倭人伝 (みならいWAJIN)
2022-05-25 16:34:55
(1)一寸千里法が使われてた根拠 ですね。
回答
「1日漕いで千里」に疑いを持ちつつ、野上先生の一寸千里法説に共感したのがキッカケです。なんでも歴史書だけでは不足、今に残る現象の考察も必要としました。詳細は以下の参考資料をご覧願います。

 参考資料:伊能研究の野上先生2015の講演資料(古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置 h27-autumn_01.pdf)
       ほか(簡易日時計のシュミュレーション 41_230.pdf」)など。

(2)それからわたしの仮説への質問に対する回答も、理解したということで良いのですね?
回答
 歩く場所ごとに一里が233mとか164mに変わるのは、何かおかしい。1里が434mなら500里は217kmでしょう。多分、奴国の場所が違っていて、短里76mが適用できないのかも。
それに、1日漕いで千里(434km)は単なるスローガンなのでしょうか、一寸千里法があるのだから測ったと思いますよ。
不弥国(宗像として)から豊津まで行けたとして、やく90kmです。地乗り航法だと潮流を使うので日に20から30km程度、2日せは無理でしょう。引潮など日に2回しか無いし、潮待ち港で毎回丘揚げするし、2日では無理でしょう。

(3)もしもあなたの説が正しいならば、そのようなコースを示唆する行程記事に何故しなかったのですか?誰の意図ですか?
回答
私の説になにか問題ありでしょうか。魏志倭人伝の里程の文章は、観光ガイド風の紀行文であり、島の大きさ、方向、距離を描写したもので道順では無いし、不弥国までの距離を示しただけでしょう。邪馬壹國などは行ってないけど、倭人から聞いた日程だとも言えます。不弥国も行ったかどうか分からない、ただ距離などを書いただけかもです。

以上、お互い自説ですから、このままにしておきましょう。
一応これでおしまいです、今後とも宜しく願います。
Re:魏志倭人伝 (刮目天 一(はじめ))
2022-05-25 21:36:39
ご回答ありがとうございます。
(1)について野上論文を根拠にしているということですが、野上先生は『九章算術』の距離に関わる例題には、「1 里=405m~435m 程度の漢魏晋代の里の他に、1 里=67.5~72.5m 程度の(短)里が「但書きなしに」使われている.『三国志』にも短里と長里の混用がある.」と結んでおられます。しかし、九章算術の例題に1里が何mというものはありません。魏の時代に使われた1里が約434mという換算は現代の測量の結果から分かるもので、紀元前1世紀から紀元後2世紀に作られた九章算術に1里のメートル換算などあるはずありませんから。三国志は朝鮮半島から倭国にかけて魏で使用した里よりも短いものが使われていたとの主張ですが、そのような短里制が存在したなどという証拠はどこにもないということを拙ブログ記事で実証しています。ですから、野上先生は別の方の短里を使用していたと主張する説をそのまま受け入れただけの話だと思いますよ(^_-)-☆

(2)不弥国新宮町付近から豊津まで現在の海岸線に沿って測れば、おっしゃる通り約90km近いでしょうから2日では無理と考えるのは分かります。しかし、長野正孝氏によれば卑弥呼時代の北部九州の海岸線は今よりも内陸側に入り込んでおり、玄界灘よりも穏やかな内海を航路としていたことが福間・赤間・船越などの地名から分かるとしています(上掲書p.19 図1-1)。そうすると航路長は60km程度と考えて、潮流を利用すると2日というのは1日10~30kmということであれば実現可能とわたしは考えました。わたしは難升米が20日としたのは、2日をきりがよく10倍したのだろうと思ったのです。でも、実際は3日であっても、4日でも、それを20日と難升米が書いているのですから、10倍になっていないだけの話です。要するに邪馬台国の位置を呉の東海上で帯方郡から万二千里の場所に置きたいために過大な日数にしたと見ているから、ありそうなトリックを想像しただけなのです(^_-)-☆。

(3)魏志倭人伝に書かれたルートではないとあなたが主張しているからですよ。例えば、対馬を通らないならば、だれがどういう事情で、行程記事に対馬を登場させたのかを聞いています。往路と復路が異なるならばどっちの行程で代表させるのか迷いませんか?あなたの「私の説になにか問題ありでしょうか。云々」は誰も納得しないと思いますよ(;一_一)

互いに自説といっても客観的あるいは論理的に妥当な説かどうかを議論していたわけです。あなたがこれ以上議論したくないのは自由ですが、他の場面であなたが上の自説を主張すれば、学術的な論争として反論することはあるかも知れません。あなた個人に対する感情的な発言にならないように心掛けていますので、どうかご理解くださいね。また、わたしの説明に対して、いつでも疑問点をぶつけていただくと有り難いです。それによって研究が進みますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します(^_-)-☆。
魏志倭人伝 (みならいWAJIN)
2022-06-02 16:14:23
多忙というか、他を優先したので回答が遅れました。小出し回答とします。
(1)の件
 野上先生の「1 里=67.5~72.5m 程度の(短)里が「但書きなしに」使われている」は、これで結んでいる訳ではなく、他文献を紹介しただけです。
先生は別資料の「魏、倭、倭人伝、地理的定位 2015s_100012.pdf」で「緯度 30 ~40 度の範囲で 79~73m であり(短里と呼ぶ)」とされています。
短里は緯度によりkmが変わるのです。私としては他人に説明するのが面倒なので、落陽(34.75度)から北千里(35.44)の距離を76km程としており、北に二千里の場合は
これより長くなります。シミレーションしてみると2000里あたりが、距離のズレが見えてきます。
12000里の測量点は宮崎市付近(緯度31.9度)とされていますが、如何にしてこの場を探り当てたかが、疑問なのです。
私としては、一寸千里法で大陸の地図が描けるかの検証に、時間を割きたいと思います。検証用アプリを作っていますが、完成できるかは?です。
Re:魏志倭人伝 (刮目天 一(はじめ))
2022-06-02 16:43:11
野上先生の文献紹介、ありがとうございます。
「西晋の 280 年代に陳寿は『三国志』を著わした.この著者も彼が想定した読者も魏晋朝の文官であった.
『周髀算経』『九章算術』『海島算経』は彼らにとって実務の教科書であり、宇宙論など教養書でもあった.従って魏志倭人伝の里程記事の数値を解釈するにはこの三書の知識が前提となる.」とおっしゃっていますが、数値が正しく書かれていたという前提での発言でしょう。
しかし、魏志倭人伝、あるいは三国志で短里制が存在した証拠は見つかりません。
その他の状況証拠から、陳寿は西晋の宣帝、魏の実力者司馬懿の功績を称揚するのが目的で編纂したということです。また、同じく陳寿が用いた魏使の報告書の内容も司馬懿のために作られたと分かります。一番明確なのは、最初に魏への朝貢のために出かけた倭国王難升米が漢字で書いて教えたというのが証明されましたので、司馬懿の部下の帯方郡太守と談合によって報告書の行程記事の内容は決められていたということです。とても深い意味のある「伊都国」という国名を魏の役人が勝手に書く理由がないからです。ですから、目的のために行程記事が作られたことは紛れもない事実だと思います。また、何か発見しましたら教えてください。

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