象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

思考を放棄した世紀の祭典〜映画「東京2020オリンピック」が教えてくれるもの

2022年01月15日 13時16分32秒 | 東京オリンピック

 私は(皇室も含め)バカがどうも好きになれない。
 というより、(伝統にふんぞり返り)賢くなろうとすらしない人種が好きになれない。
 バカほど純粋無垢で可愛いという声もあるが、本当にそうだろうか?

 実を言えば、私がオリンピックに反対だったのは、フクシマ復興もコロナ渦による医療崩壊も半分は関係ない。これらは後で付けた言い分である。
 つまり、五輪アスリートたちのバカ面が一向に気に食わないのだ。
 五輪誘致が決まった時の関係者らのバカ喜びにも、心底腹が立った。無償ボランティアの”感動を共有したい”という台詞には呆れ果てちまった。
 勿論、アスリートの中にも一流国立大卒のインテリはいる。しかしそんな人種は、ゴマンといる中で1人か2人である。殆どは、(一見して)活字が苦手そうな”貧学”な人種に思える。

 勉強が苦手?なのを理由に、整った人相や人格や融和な人間性を武器にする。事実、ゴジラ松井も世界のイチローもマー君も、辛辣なNYメディアから見れば”野球しか出来ない??”に過ぎない。
 医師会会長も世界的権威の専門家もTV上で、いくら自らを賢く振る舞っても一旦バカの領域にハマると、そこからは中々抜けきれない。
 彼ら彼女らは本当に賢くなろうという意識があるのだろうか?


思考を止めたアスリートたち

 これと同じ事が我々だけでなく、五輪アスリートにも当てはまる。
 昔の五輪アスリート達はここまでバカだったろうか?(お小遣いをねだるスラム系のガキの如く)勝ったら勝ったで泣き喚くし、負けたら負けたで泣き喚く。これも五輪商業化とIOCの腐敗のお陰で、金メダルの難易度が下がった為だろうか。
 猫や犬みたいに、もう少し賢くなったらどうだ。そう思うのは私だけだろうか?事実、昔の猫は盛りの時期はよく鳴いてたもんだ。

 確かに、今のアスリートは恵まれてはいる。練習メニューはコーチやスタッフが用意し、考えてくれるし、日常の自己管理も身体のケアも同様である。
 つまり選手は何も考えず、彼らの指導やアドバイスに従うだけでいい。頭を空っぽにし、思考を止め、日々のルーティンを1つ1つこなす。後はコーチやスタッフを信じ、本番で自分のモテる力を最大限に発揮するだけである。
 つまり、五輪アスリートは思考を止める事でメダルを確保する。大人になれないのも当然である。
 そして、大人になれなかったのは選手たちだけではなかった。利権に塗れたIOCも目先の経済を追求した日本政府も、そしてIOCと政府の奴隷である組織委も、結局は大人にはなれなかった。

 1980年のモスクワ五輪のボイコット是非の説明会では、メダル候補のアスリート達は、自らの苦境と積み重なった憎悪を、涙ながらにぶちまけた。
 23競技の選手・コーチら約100人が集まり、TVカメラが取り囲む中、それぞれが吐露した思いは”抗議”や”怒り”というより”懇願”に近い。

 ”柔道を始める時、大きな夢を持ちました。一生懸命がんばって将来オリンピックに出るんだと・・・”
 前年度世界王者の山下泰裕は、真っ直ぐに前を向き、胸を張って堂々と訴えた。
 しかし、23歳にしてはやけに落ち着いてるようにも見えた。

 ”オリンピックの為に毎日毎日練習してきて、これで出れなかったら何の為にやってきたのか・・・”
 何とか絞り出す様に訴えた高田裕司だが、最後には涙で崩れた。前回モントリオール五輪レスリング金メダルの26歳の若者の訴えには、悔しさと無念が等身大に滲んでいた。


もう1人の怪物

 ここで選手へのインタビューが終われば、”アスリートが可愛そう”で済まされた筈だった。
 しかし、1人の怪物が立ちはだかる。
 彼だけが唯一、モスクワ五輪ボイコットに賛同する発言をした。
 彼もまた、レスリングの伝説の王者だった。
 ”モスクワには参加すべきではない。特にレスリングにはチェチェン族が多い。彼らは勝利の為なら何をしでかすか判らない。最悪、選手生命をも奪われかねない・・・”
 これこそが”安全・安心”を地で行く発言だった。彼には、危機意識が他の選手以上に遥かに優れていた。
 名前は伊達治一郎
 レスリング仲間から”怪物”と恐れられた、前回モントリオール五輪74キロ級の金メダリストである。

 当時、高校生の私は(皆がそうであった様に)、オリンピックがアメリカのそして政治の奴隷になるのを危惧した。それ以上に、瀬古や山下の勇姿をモスクワでも見たかった。
 しかし、伊達選手のこの言葉を聞いて、考えが一変した。
 ”選手の安全・安心が100%確立されてこそのオリンピック”だと教えられた。

 我々オリンピックを見る側は、好き勝手に応援し感動するが、それは選手の安全が確保できての話である。
 敵国であるという理由でメダルを剥奪されたり、恐喝や脅しを受けたり、歪な判定に悩まされたりすれば、それは平和の祭典ではなくなる。
 伊達選手はそれを言いたかったんだろう。”メダルを獲得する為だけに、全てを犠牲にすべきではない”と。
 勿論、伊達選手がモスクワ五輪に出場してたら、金メダルは当確だった。が、強すぎるが故に、選手生命の危機に晒されたかもしれない。


大人になれないアスリートたち

 結局、JOCは政府の圧力に押し切られる形でモスクワ五輪ボイコットを決めた。その日本政府もアメリカの圧力に屈した。
 一方で、西ドイツを除く西欧諸国の大半は、アメリカの圧力に屈せず参加したが、自国の国旗を掲げる事はなかった。

 国民がアホだと、日本政府もアホになる。
 政府がアホだと、その傘下である組織委もアホになる。組織委の隷属である五輪アスリートが大人になれないのも肯ける。
 しかし、今の彼ら彼女らには”声”がない。普段は鳴き喚くカナリアだが、いざという時は言語を失った動物に過ぎない。

 感動は五輪アスリートらがつくるものではなく、TVが作り配信するものだ。
 感動を支える舞台も演出も全てはTV局が用意する。NBCがオリンピックを実効支配するのも無理はない。
 感動は所詮、作られた安っぽい幻想に過ぎない。人類の生存戦略の視点で見れば、五輪もそれによる感動も、それらを作為的に生み出す巨大な幻想装置も最初から必要ではなかった。
 同じ様に、ロス五輪以降の祭典も五輪アスリートも必要なかったのだろうか。
 感動を押し付けられても、コロナワクチン同様にいい迷惑である。東京大会がもたらした筈の感動には副反応が強すぎたのだ。

 必要とされないオリンピックを誘致し開催した事で、これまた必要がないどころか人類の最大の脅威であるコロナ変異株を、コロナ大国に匹敵する程に繁殖させてしまう。
 コロナ感染者は、五輪開催をきっかけに急な指数カーブを描き、閉幕後の8月末には2万5千人を越え、(世界に誇る筈の)日本の医療を半壊させた。これは、多くの専門家の予想を大きく裏切る程の、壊滅的にも思える惨劇でもあった。
 そういう事が解ってながら、アスリート達はメダルの為に人生の全てを掛け、作られた感動を共有しようとする。いやそれどころか、感動を共有すれば、コロナパンデミックを打破出来ると信じている。
 感動で全てが回るのなら、経済が潤うのならこれほど単純で幼稚な資本主義もない。
 つまり、アスリートが大人になれないとは、そういう事である。


「東京2020オリンピック」

 日本列島に深刻な事態をもたらした第5波は、8月末をピークに約2ヶ月を掛けて(運良くというか偶然にも)収束した。
 そして今、オミクロン株の猛威により、新規感染者は(殆どゼロから僅か2週間ほどで)一気に2万人に到達しつつある。
 しかし、第六波に関しては(私はだが)少し楽観的だ。
 記事にもしたが、”ウイルスの自壊と進化のダイナミクス”の視点で眺めれば、弱毒化のまま一気に収束する様な気がしないでもない。勿論、注意と警戒は必要だが。

 感動は作られると言ったが、映画「東京2020オリンピック」が総監督の河瀬直美さんによって作られている。NHKでもその撮影裏が放送されてたが、悲しいかな何ら心に響くものはなかった。
 平成エンタメさんの”一連の記事”にもある様に、早くもNHKの一方的な背信行為?により、(監督も含め)「東京2020オリンピック」は炎上し沈没しかかってる。これが事実だとすれば、実に”悲しい”出来事ではある。

 沢木耕太郎氏は、今回の東京五輪を”とても寂しいオリンピック”と題した。
 事実、その通りになった。
 日本政府とNHKと一部のオリンピックフェチは、”感動を与えてくれてありがとう”とか”五輪開催は正解だった”と自画自賛ネタを撒き散らすが、日を追う毎にその寂しさは日本列島を包み込んでしまう。
 しかしせめて、河瀬さんには(コロナに負けない感動ではなく)この”寂しさ”を等身大の映像として、多角的にかつ深く鋭く表現してほしいものだ。
 市川崑監督が撮った「東京オリンピック1964」には、その記録映像の中に(大会を支えた男たちの)それぞれの”ドラマ”が、静かにふつふつと躍動していた。
 アスリートの生々しい鼓動と、戦後の高度成長を支える日本人の咆哮が(東京という舞台に凝縮され)、見事に表現されてたように思えたのだが・・・


最後に

 河瀬直子監督の目には、「1964」がどう映ってたのであろうか?そして今回の「2020」をどう描こうとしてるのか?
 五輪アスリートが思考を失いつつある様に、彼女が思考を放棄すれば、「2020年」は単なる記録映像の残骸で終わるだろう。
 しかし、古臭い権力に反旗を翻し、映像を極限にまで鋭く磨きこまれた”エッジ”に仕立て上げれば、寂しかった筈の東京オリンピックも(映像の中ではあるが)その”縁取り”くらいは、復活できるかもしれない。

 「1964の東京オリンピック」のレビューでは、"オリンピックはやってみて良かったようだ。一度はやってみるべきだろう。但し、二度やるのはバカだ"と菊村到氏が語ってたように、”2020年は日本の無力さと無能さを世界中に知らしめる大会にならなければいいが”と私は締め括った。
 そして今年の2021年、日本政府はIOCは組織は東京都は、同じ様な”バカ”をヤッてしまった。
 しかし、コロナに埋もれ、そのバカさも無能さもなかなか見えてこない。ただ、同じバカでも今回の「2020年TOKYO」は、”寂しい”バカであった様な気がする。
 ひょっとして、それだけが救いだったのかもしれない。



9 コメント

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Unknown (びこ)
2022-01-15 15:02:01
そうですね。その通りだと思います。

1964年の読経オリンピックは私もまだ子供だったけれど、感動しました。が、今回のオリンピックは誘致の段階から賛成できませんでした。案の定利権絡みで開催前から問題噴出でした。もうオリンピックは要らない。ノーモアオリンピックと叫びたい。

運動選手が運動しかできないのも、ノーモア運動選手ですね。米国なんかでは運動選手でも勉強と両立させている人は多いのではありませんか。

私は日本が特殊だと思います。

皇族も要らないとも言えますが、皇室は日本の歴史に絡んでいるから簡単には壊せないと思います。日本にはまだ私のような皇室フェチもいますし…。
Unknown (びこ)
2022-01-15 15:10:24
1964年の読経オリンピックは東京オリンピックの間違いです。スマホは何でこんな変換ミスをしたのだろう?とスマホのせいにする私。
ビコさん (象が転んだ)
2022-01-15 15:27:55
いえいえ私も
”皇室なんて・・・”と威勢のいい事言ってますが、これも亜種の皇室フェチなんでしょうか(笑)。
でも今のオリンピックなら五輪アスリートと共に要らないですよ。

それと、”読経”オリンピックは大受けでした。ほんと今年の東京大会は日本人は皆(コロナが拡散しない様にと)手を合わせてましたものね。
「TOKYO2020読経OLYMPIC」という事で、タイトルは決まりとしましょうか(合掌)。
こんばんは (けんすけ)
2022-01-15 17:04:05
全くもって同感です
私が言いたい事を綺麗に言っていただきました、嬉しく拝見しましたよ
復興五輪と飾られた言葉に喜ぶ東北の方々が可哀そうになりました
利用されただけなのに・・。
けんすけサン (象が転んだ)
2022-01-15 17:56:05
こちらこそ、お褒め頂いて恐縮です。
とにかく”寂しい”オリンピックに付きますよね。
盛り上がらなさそうで、盛り上がらない。政治と利権の為だけの祭典でした。
東北の人の震災にあった人の本音を映画では等身大に描いて欲しいですよね。
エッジと縁取り (UNICORN)
2022-01-15 20:36:06
うまくまとめたね。
ブラックジャックではハウスエッジを”胴元の優位性”と言うけど
エッジを優位と置き換えれば、今回の東京オリンピックの唯一の優位性は、大会を通じ静かに漂っていた”寂しさ”という理解でいいのかな。
如何に、この寂しさを上手にダイレクトに描けるのか。ここら辺が女流監督の腕の見せ所ってとこか。
UNICORNさん (象が転んだ)
2022-01-16 03:12:42
バレバレでしたか。
”静かに漂う寂しさ”なんですよね。
虚しさとしてもいいんですが、多分、期待は出来そうにもない気がします。
ブラックジャック同様に大逆転のカードがあればいいんですが・・・どうもバーストしそうですね。
思考停止した言葉 (平成エンタメ研究所)
2022-01-16 09:53:07
ご紹介ありがとうございます。

今回は特に毒強めですね。笑

思考をとめたアスリート。
コロナ禍で五輪を開催することに関して、「自分のパフォーマンスで皆を元気にしたい」としか言えない彼らは思考停止していますよね。
あるいは、彼らはコーチ、協会・団体、スポンサーを気にして、自由にものが言えないのか?
「個」が確立している海外の選手とは大きな違いです。
エンタメさん (象が転んだ)
2022-01-16 13:02:03
一連の記事、こちらこそとても参考になりました。
気持ちが伝わり過ぎて、思わず記事にしてしまいました。
ハンナアーレントではないですが、”思考を止めたら凡庸なオリンピックに成り下がった”典型の様な気がします。
全くで、政治家も含め、”個”というものが未だ確立してないんですよね。

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