東日本大震災から10年経ち、今年ようやく読んた本が「津波の霊たち―3.11 死と生の物語」です。

 

ようやく、というのも、私は震災を経験した当事者ではありませんが、いろいろな不条理に反応する厄介な生態を持つゆえ、東日本大震災には強い思いを持っていまして。

 

震災直後は正視できない映像や心が揺さぶられて読めない記事などもたくさんありましたが、毎年鎮魂のための太陽礼拝108回を行い、復興を含めた現地の状況変化を追いながら人々の気持ちに心を寄せてきました。

 

ザ・タイムズ紙日本版の記者による震災のルポルタージュを知った時も、まだ自分には読む準備ができていないのではないかと考えました。

感情が湧きあがってちゃんと受けとめられないのではないか。

 

そうして今年は震災が起こってから10年目となり、例年にも増して関連記事が増える中、読んでみようと思ったのです。

仙台に住む震災経験者のヨーガ仲間ユキちゃんは、まだ読めないと言っていました。その気持ちはよく解ります。

 

東日本大震災の地ではあちこちで、幽霊の目撃情報があるという話は聞いていました。

その直後でも、10年経つ今でも。

 

そういった現象に対しては、私の感覚ではあたりまえに起きることという考えです。

 

もう何年も前ですが、八甲田山の無人の別荘から119番がかかってきた、というニュースを目にした時、戦前の八甲田山での雪中行軍訓練で遭難した歩兵隊の将兵たちが掛けているんだろうなと思いました。

 

東日本大震災の後にも119番への通報、津波で流されて今は更地になっている住所への出動要請が何度もあったとのことです。

 

突如、まさに予期せぬ突風が吹いた間に死に至った魂が困惑するのは間違いないだろう。

自己を吹き飛ばされるような暴力と苦しみの中で起こった死がもたらす魂の行き場というのは、どこか。

 

いずれの状況からも、漂う魂が存在するのは私にとって理解しがたいことではありません。

 

息もできないような重い泥の塊だった津波に巻き込まれ、ただ翻弄されて息絶える状況は、圧倒的な暴力が起こったところでの死そのものです。

 

なぜあの津波は真っ黒だったのか。

 

破壊された船などから燃料が漏れ、海水と混ざったからなのか。その答えも、このルポルタージュにありました。

 

著者は東京在住20年を超すジャーナリストのリチャード・ロイド・パリー氏で、推薦文を寄せた福島県在住の玄侑宗久禅師のお言葉通り、綿密な取材に基づく類まれな仕事をされています。

 

パリー氏自身は幽霊の存在や超常現象を信じていないようですが、それは取材で聞いた話を信じないということではもちろんなく、重要なのは人々にとってはその経験が現実だということだと、国際文化会館によるインタビュー記事で語っています。

 

著書の中で語られるのは幽霊や除霊の例だけではありません。幽霊が出てくるバックグラウンドとしての東北の風土や巨大なトラウマとして残っている精神面への津波の傷跡などを深く掘り下げて考察しています。

 

そこに生きる人々に対しての寄り添う姿勢は思量深く尊敬に満ちていて、しかし客観的な視点は物語りを力強く伝えてくる。

 

彼は人が、人間が好きなんだなというのが私の印象です。

 

 

 

 

パリー氏は幽霊と超常現象の他にもうひとつの大きな柱として、74人の児童と10人の教員が犠牲となった宮城県石巻市の大川小学校を巡る人々と行政に関する、6年間の取材によるルポを伝えています。


津波によってこれほど多くの死者が出た小学校は他にはありません。事前の防災策や避難する時点での判断などが人災を引き起こしたと一部の保護者達が裁判を起こしたことで、私もその学校の名前は耳にしていました。

 

私がそのニュースを聞いて最初に感じた、微かな違和感。

自然災害によって引き起こされた死の責任を問う裁判への疑問は、津波の霊たちを読んで直ちに払しょくされました。

 

詳しい背景と震災後のことの成り行きを読んでいくうち、これはある地域のある人々の物語ではなく、日本という国の昔からの社会に存在する根深い問題のことなのだと分かったのです。

 

このルポルタージュを読む少し前に、「同調圧力」という劇作家の鴻上尚史氏と世間学などの研究者である佐藤直樹氏の対談集を読んでいました。

 

かたち(枠?)に収まらない者への陰湿に行われる疎外行為。同じでなければならない不思議な掟。

 

私も大きな違和感を感じる子供の運動会での、全員が一等賞。コロナ感染拡大によりビーチをパトロールするサーフィン自粛警察。匿名下で繰り広げられる壮絶な批判やいじめ。

 

それらの本質にあるものは、戦中にB29をやっつけましょうと、到底届かない竹槍で訓練をしていた頃から変わらずに続くもの、との二人の談議に暗澹とした気持ちになりましたが。

 

「同調圧力」では、世間があって社会が存在しにくい日本という話題の中、3.11では社会が出現したとも話されているのですが、ここではややこしくなるので書きません。

 

「津波の霊たち」でパリー氏が何度も書いている、声を上げない日本人たちとはまさに同調圧力下の息苦しさの中で生きる日本人たちの姿です。

 

もちろん、それがいつも悪い方向にばかりいくものではないのですが。

 

世界が称賛した、震災後の日本人たちの様子。略奪や殺し合いがあるわけでもなく(英国人のパリー氏は、これがイギリスの北東部であったら殺し合いが起きるかもしれないと書いている)、大きな災難を前に悲しみに耐えて淡々と前を向く人々。

 

平穏な心と自制心に満ちた日本の精神性。

パリー氏も最初は、この姿はまさに日本人の美と感じました。

 

それが美徳と精神文化ゆえのものだけではないと考えていくのは、6年間に渡る取材経過で繰り返し遭遇する日本の世間の掟、その元に黙る日本人たちの姿によるのだろうと思います。

 

偏向なく努め客観的なパリー氏のルポですが、後半では日本人の受容の精神、過剰なまでの我慢にはもううんざりしていたとあります。

そして怒れる者たち、声を上げる者たちを排斥しようとする日本の社会の中でそれをする人たち、この国を長い間抑圧してきた"静寂主義の崇拝″に屈せずに戦う人々に心を寄せています。

 

静寂主義の崇拝とは、同調圧力に支配された世界に育まれる心のある状態ではないか。

 

  鈴と、小鳥と、それから私、 
  みんなちがって、みんないい。

 

と、なかなか金子みすゞの詩のようにはいかない、日本の世間。

 

みんな同じでなければいけない、という染み込んだ考えがいろいろな場面で問題を生じさせていく過程が語られています。

 

ふたつのテーマで綴られる震災のルポルタージュですが、多くのことが伝わってきます。

彼の言うように、この震災で起きたあまたの出来事は極めて複層的で、その影響や意味が及ぶ範囲は計り知れないものでしょう。

 

エクソシスト(除霊者)としての活動を続けている死者と向き合う住職をはじめ、大津波に吞み込まれた庁舎から放り出され、幼稚園時代の先生の家へ流れ着いて生存した防災庁舎勤務の男性、島の住人たちを直ちに高台へ誘導した離島の高齢の漁師など、それぞれがとても魅力的な人物たちを登場させ、震災直後に仏教僧とキリスト教の牧師たちが巡礼した殺伐とした海岸や、海から流れ着いた遺体のエピソードにある美しい描写など、パリー氏はストーリーテラーでもあります。

 

元々は日本の事情を知らない海外読者に向けたものであり、日本語化に少し不安もあったという「津波の霊たち―3.11 死と生の物語」は読み応えのある、日本人にとっても気づきを促し多彩な思考体験を与えてくれる、素晴らしいルポルタージュです。

 

リチャード・ロイド・パリー氏への国際文化会館によるインタビュー記事はこちらから。

 

 

 

 

 

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