只今、ブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞り、具体的なお城の写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「駿府城」「掛川城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

駿府」(静岡県静岡市葵区

当地には、室町時代に駿河国の守護となった「今川氏」が「今川館」を築き栄華を誇っていました。

 

しかし、「今川義元」が1560年に「桶狭間の戦い」で「織田信長」に討たれ、その後、「武田氏」に攻められ領地は「武田氏」のモノとなりましたが、「武田勝頼」が織田・徳川軍に滅ぼされた後は、その遺領を「家康」が領することとなりました。

 

1582年に「武田氏」が滅亡すると、駿河国は完全に「家康」の領土となり、1585年には「今川館」のあった場所に「駿府城」を築城して新たな居城としました。

 

しかし1590年に「豊臣秀吉」が「小田原平定」で天下統一を果たすと、「家康」は「関八州(江戸等)」へ転封となり、その後には「秀吉」臣下の「中村一氏」が「豊臣氏直轄地」の代官として入ります。

 

江戸時代となり、「家康」が早々に将軍を退き将軍職を「徳川秀忠」に譲位した後、1607年に「家康」はここを「隠居城」として「天下普請」で大改築を行い、「家康」の十男「頼宣(よりのぶ)」に入城させるとともに、「家康」自身は、大御所として幕府を背面からバックアップしました。

 

「頼宣」が「和歌山城」へ移封後は、三代将軍「徳川家光」の弟である「忠長」が居城しましたが、「家光」に虐(いじ)められ改易となります。

 

「忠長」改易後は、「駿府城」は藩主のいないお城となり幕末まで「駿府城代」といったお城の管理役人が在住するのと、「駿府在番・勤番」という城代の補佐が置かれました。また、幕府直轄の天領でしたので、「駿河代官所」も置かれていました。

 

現在「駿府」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1996年に木造復元された「東御門」を構成する、「渡櫓門」と「高麗門」を繋ぐ「多門櫓」で、それらの門と共に右折れの桝形を形成しています。

 

「渡櫓門」の左に繋がる「多門櫓」 ↓

 

「多門櫓」は、西面と南面の二面あって、白漆喰壁に庇付きの素木格子の窓枠が付き、「櫓台」の石積み方法は「切込接・布積み」で綺麗に積まれています。城内側の窓は、「引戸窓」のようです。

 

「多門櫓」は、西面と南面の二面(櫓台は「切込接・布積み」) ↓

「渡櫓門」と北側の「多門櫓」(城内から) ↓

北側と西側の「多門櫓」 ↓

 

 

掛川」(静岡県掛川市

1469~87年頃に、駿河の守護大名だった「今川氏」が「朝比奈氏」に築かせたのが最初でそれは現在の「掛川古城」でした。

 

その後「掛川城」を築きますが「今川義元」が敗死すると、その息子「今川氏真」は「徳川家康」の攻撃を受けて「朝比奈泰朝(やすとも)」が守る「掛川城」に逃げ込みましたので、「家康」は攻め立てました。

 

結果「朝比奈氏」が開城したので、その後は「徳川氏」が城代を置いて拠点としますが、関東に移された後は「豊臣秀吉」の家臣「山内一豊」が入城します。そして、現在の縄張りの近世城郭に大修築を行いました。

 

関ケ原の合戦後は、「一豊」は東方として貢献したことで土佐一国を与えられ、その後に「掛川城」には「家康」の異父弟「(久松)松平定勝」が入城しますが、1617年に「桑名城」へ移封となるとその後1746年に「太田資俊(すけとし)」が入城するまでの約140年の間に13家20人の城主が入れ替わり立ち替わりと交代が有りました。

 

現在「掛川」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1994年に木造復元された「天守」の出入口用の櫓として「天守」に付随した「付櫓」です。入口側は窓は無いですが、反対側には2つの格子窓が付きます。

 

木造復元「天守」南側の付随する「付櫓」 ↓

木造復元「天守」南側の付随する「付櫓」の出入口とは反対方向の壁 ↓

木造復元「天守」南側の付随する「付櫓」 ↓

「付櫓」の屋根(「天守」から見下ろす) ↓

 

当「天守」は真正面から見ると、1階左・右(西・東)が入母屋屋根付きの「張り出し」を設けて「天守」自身を大きく見せるような出張りを施していますが、これらは「付櫓」ではありません。

 

1階左・右(西・東)が入母屋屋根付きの「張り出し」(南真正面から) ↓

木造復元「天守」東側の1階「張り出し」 ↓

 

 

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「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」(多聞櫓)に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

本日は、「金沢城」「富山城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

金沢」(石川県金沢市

加賀一向一揆の拠点の「尾山御坊」があった跡地に「織田信長」は城を築かせ「佐久間盛政」を置きました。豊臣政権下では「前田利家」が入ると、加賀、越中と能登の一部を領地として与えられ五大老の一角を占めました。

 

関ヶ原の戦いでは、「利家」の息子「利長」は東軍に付いて加賀での働きが認められ、加賀、越中、能登の三か国119.5万石(その後、富山藩、大聖寺藩に分与して102.5万石)を領有することになりますが、「徳川家康」から「利長」に不穏の動きありとの不興を買いましたので、母「まつ」を江戸へ人質として差し出し和解をしました。

 

そして、1605年に「利常」に家督を譲り隠居しますが、「利常」の妻「珠姫(たまひめ)」は二代将軍「徳川秀忠」の娘であり、息子の「光高」は「水戸徳川光圀」の姉の姫君を妻に迎え、更には、本郷の加賀藩上屋敷に建てられた溶姫御殿の正門が「東京大学の赤門」で有名ですが、13代藩主「前田斉泰」の正室「溶姫」も、11代将軍「徳川家斉」の娘でした。

 

こうして「徳川家」との繋がりを一層強固となるように努力し続けた結果、「前田家」を盤石な家柄として幕末・維新まで100万石を維持し続けることができる原動力になりました。

 

現在「金沢」の「平(一重)櫓」が見られるのは、お城の「搦手門」である重要文化財「石川門」を構成している「一の門(高麗門)」と「二の門(渡櫓門)」そして「多門櫓」によって枡形を形成している「多門櫓」部分です。

 

この「多門櫓」は北西から南西にかけて二面を構成していて「渡櫓門」と重要文化財「三の丸菱櫓」を繋ぐ役割を担っています。

 

重要文化財「石川門」を構成する「多門櫓」(右側の海鼠壁が見える櫓) ↓

 

内側には竪格子に漆喰を塗りこめた窓を設け、壁は5段の「海鼠壁」を施しています。また「一の門(高麗門)」の正面の「多門櫓台」は綺麗な「布積み・切込接」で積まれていますが、左手の「多門櫓台」は、「打込接」となっているので正面は積み直しが行われたものと思われます。

 

重要文化財「石川門」を構成する「二の門(渡櫓門)」から西へ延びる「多門櫓」 ↓

重要文化財「石川門」を構成する「多門櫓」(海鼠壁が美しい、「一の門」の正面) ↓

重要文化財「石川門」を構成する「多門櫓」(南西側の「多門櫓台」は「打込接」)↓

 

 

 

富山」(富山県富山市

1543年に「神保長職(ながもと)」の命を受けた「水越勝重」が築城したお城です。その後「神保氏」が「上杉氏」に押されて勢力を失うと1572年に「一向一揆勢」が城を奪います。

 

1576年に「上杉謙信」が「一向一揆勢」から城を奪い、家臣を城代として入れて越中を支配下に治めます。しかし、「謙信」が亡くなると、「神保氏」が「織田信長」を頼ったことから「上杉氏」は支配権を失い、「信長」は1581年に「佐々成政」を入城させて近世城郭へ大改修をしました。

 

「信長」死後、「成政」は「豊臣秀吉」と対立し、「富山城」を「秀吉勢」に取り囲まれて「成政」は降伏します。そして翌年1585年に「前田利家」の領地となります。

 

「利家」の子「利長」が隠居城として大規模改修をしましたが2年後に火災となり主要建物部分が焼失、「利長」は「高岡城」に移ります。そして、家臣を城代として入城させています。

 

1639年に加賀藩主「前田利常」が次男の「利次」に富山の所領を与えて「富山藩」が成立し、1640年に「富山城」が「越中前田家」の居城となり幕末・維新まで続きます。

 

現在「富山」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1954年にRC造りの模擬で建てられた「天守」に付随するRC造りの模擬「付櫓(多門櫓)」です。もう一つが、「天守」から北側に繋がる二重「多門櫓」から西側の「隅櫓」とを繋ぐ「続櫓(多門櫓)」は枡形を構成しています。

 

前者は「大手道」から「内堀」を越えて真正面に建つ模擬「天守」の東側に繋がる「多門櫓」で、内部は「郷土博物館」として使用されています。

 

摸擬「天守」に繋がる模擬「付櫓(多門櫓)」 ↓

摸擬「天守」に繋がる模擬「付櫓(多門櫓)」(左端、「千歳御門」前から) ↓

摸擬「隅櫓」に繋がる模擬「付櫓(多門櫓)」(枡形を形成) ↓

摸擬「隅櫓」と二重「多門櫓」の間を繋ぐ模擬「続櫓(多門櫓)」(「桝形」内から) ↓

摸擬「隅櫓」と二重「多門櫓」の間を繋ぐ模擬「続櫓(多門櫓)」(「本丸」跡から) ↓

 

 

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「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「松本城」「長岡城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

松本」(長野県松本市

1504年に「小笠原氏」支族の「島立氏」が「深志城」を築いたといわれています。1550年に「武田晴信」が「深志城」を落として北信濃制覇の拠点としますが、1582年に「織田軍」の侵攻で「武田氏」は「深志城」から撤退、替わって「木曽義昌」が入城します。

 

「本能寺の変」の動乱に乗じて、「信玄」に追われた「小笠原氏」の「小笠原貞慶」が再入城して「松本城」と改名しました。1590年に「小田原攻め」後、「徳川家康」の関東移封に伴い「小笠原氏」も下総へ移ると、「豊臣秀吉」は「徳川氏」から出奔した「石川数正」に入封させます。1593年には、その息子「康長」が天守建築に着手します。

 

「石川氏」の後、1613年に「小笠原秀政」が入城すると、譜代大名が順次入封し「戸田氏」「松平氏」「掘田氏」「水野氏」と変遷して、1726年に再び「戸田氏」が入封した後は、幕末・維新まで「戸田氏」が統治をします。

 

1872年に「天守」「櫓」が払い下げられましたが、「天守」は「市川量造」らの尽力で破却を免れました。

 

現在「松本城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、一つは国宝「天守群」を構成する国宝「月見櫓」です。この櫓は、3代将軍「徳川家光」が上洛の帰り道、松本に立ち寄るとの内意を受けて、当時の城主「松平直政」が将軍接待の為に1633年頃に急遽普請にかかったという櫓です。

 

国宝「月見櫓」(東面) ↓

国宝「月見櫓」(北面) ↓

国宝「月見櫓」(一番右側、南面) ↓

 

月見をする櫓で、北・東・南の「舞良戸(まいらど)」を外すと三方が吹き抜けとなります。周囲は赤い「高欄・廻縁」で天井は船底形をしていて他の建造物とは異なった開放的な造りとなっています。

 

国宝「月見櫓」の北・東・南側は「舞良戸(まいらど)」が嵌る ↓

国宝「月見櫓」の北・東・南側には「高欄」が巡る ↓

国宝「月見櫓」の天井は船底形 ↓

 

内部からは「天守」→「辰巳附櫓」を通って中に入りますが、地階にも出入口があって脇の「水門」から舟に乗って月を観賞したり舟遊びができるようにもなっています。

 

国宝「月見櫓」の地階への階段 ↓

国宝「月見櫓」の地階の出入口 ↓

国宝「月見櫓」を見上げる ↓

 

もう一つは、1960年にRC造りで復興された「黒門」の「渡櫓門」南側に付随する「続櫓」です。1989年に復興した「二の門(高麗門)」と「袖壁」によって形成される桝形内に対して、「横矢を掛ける」役割を担っています。

 

RC造りで復興された「黒門」の「渡櫓門」南側に付随する「続櫓」 ↓

RC造りで復興された「黒門」の「渡櫓門」南側に付随する「続櫓」 ↓

RC造りで復興された「黒門」の「渡櫓門」南側に付随する「続櫓」(東側から) ↓

RC造りで復興された「黒門」の「渡櫓門」南側に付随する「続櫓」(西側堀越しから) ↓

 

 

長岡」(新潟県長岡市

外様大名だった「堀直寄」によって築城されたお城でしたが、「牧野忠成」が「大坂夏の陣」で手柄を立てたことから 74,000石の長岡城主となり、「牧野家」は譜代大名としては珍しく、幕末・維新まで移封もなく統治し続けました。

 

幕末の九代藩主「牧野忠精(ただきよ)」は幕府の重職を担い、奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代を歴任し老中まで昇りつめましたが、その後の情勢を睨む家老「河井継之助」は、「忠精」が幕府の重職から手を引いて、幕府と新政府から距離を置いた中立を貫くように提案しました。

 

しかし、世の中の情勢はそれを許さず、必然的に「奥羽越列藩同盟」に引き込まれ、更には「戊辰戦争」の地域戦「北越戦争」ではお城が主戦場となって「長岡城」はほぼ全焼してしまいます。

 

「城跡」は全く無くなり、現在では城跡がJR「長岡駅」となり「本丸跡」碑が立つぐらいですが、ここから離れた「悠久山」に、RC造りの模擬「天守」が建てられ、内部は「長岡郷土資料館」として使用されています。

 

現在「長岡城(長岡郷土資料館)」の「平(一重)櫓」が見られるのは、悠久山に1968年に開館したRC造りの模擬「天守」から「角櫓」の間を繋ぐ「走り櫓」です。多門櫓形式のモノですが、当時このような櫓があったかどうかは不明ですので模擬となります。

 

摸擬「天守(長岡郷土資料館)」に繋がる「走り櫓」 ↓

摸擬「天守(長岡郷土資料館)」から模擬「角櫓」に繋がる模擬「走り櫓」 ↓

模擬「角櫓」に繋がる模擬「走り櫓」 ↓

 

 

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只今、ブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞り、具体的な写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

本日は、「水戸城」「大多喜城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

水戸」(茨城県水戸市

12世紀最後に「馬場資幹(しげもと)」が、現在の「本丸」跡に「馬場城」を築きますが、1426年に「佐竹家」配下であった「江戸通房」が占拠し「江戸家」が支配します。

 

「佐竹家」は、「豊臣秀吉」による「小田原平定」にいち早く反応し「秀吉」に近づいて自分の領土固めを行います。しかし「江戸家」は「佐竹家」による「水戸城」の明け渡しを拒否した為に「水戸城」を攻撃して追い出します。そして、本格的な城普請を行い、現在の姿に増築します。

 

関ヶ原の戦いでは東軍に組しなかった「佐竹家」は出羽秋田へ国替えとなり、「家康」の息子「新吉」「頼宣」を経て「徳川頼房」が入城します。その後幕末・維新迄、「徳川御三家」の一角ではあるものの、本家や他の二家とは違うスタンスで存続することとなります。

 

現在「水戸城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、2021年に木造復元された「二の丸角櫓」に付随する北側と東側の続櫓である「北多聞櫓」と「東多聞櫓」です。

 

城内側には一切窓が無く、城外に窓を設けています。

 

「二の丸角櫓」に付随する続櫓である「北多聞櫓」と「東多聞櫓」↓

「二の丸角櫓」に付随する北側と東側の続櫓である「北多聞櫓」と「東多聞櫓」(現地の写真より)↓

「二の丸角櫓」に付随する北側の続櫓である「北多聞櫓」(北西方向から)↓

「二の丸角櫓」に付随する北側の続櫓である「北多聞櫓」(西面)↓

「二の丸角櫓」に付随する東側の続櫓である「東多聞櫓」(東面から)↓

「二の丸角櫓」に付随する東側の続櫓である「東多聞櫓」(南東方向から)↓

 

大多喜」(千葉県夷隅郡大多喜町

1521年に「真理谷(まりや、武田)信清」が築城したお城でしたが、その後は「里見家」の持ち城になり、「徳川家康」が関八州に入ると、徳川四天王の一人「本多忠勝」が10万石で入城して近世城郭に改修します。

 

関ケ原合戦後に「本多忠勝」は「桑名城」へ移封となると次男の「忠朝(ただとも)」が「大多喜城」を与えられますが、「大坂夏の陣」で戦死しましたのでその後「阿部家」「青山家」が入城します。一時廃藩になった後に再び「阿部家」が入り、1703年からは「松平(大河内)家」が幕末まで当城に居城して領地を治めました。

 

最後の藩主であった「松平(大河内)正質(まさただ)」は、幕府の老中格であったので、幕府軍総督として「鳥羽伏見の戦い」に参戦しました。しかしながら、敗北して大喜多へ敗走し、老中格は勿論、その後新政府からも官位をはく奪されました。

 

現在「水戸城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1975年に天保期に模写された絵図を元に再建されたRC造りの復興「天守」に付随する「付櫓」です。

 

復興「天守」と同様の白漆喰で塗籠められて張り出しのようにも見えます。更にその一段下には「続櫓」が伴いますがこれは、現在内部は「県立中央博物館」として使用されている模擬の「続櫓」と思われます。

 

復興「天守」の「付櫓」↓

復興「天守」の「付櫓」に付随する模擬「続櫓」↓

 

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「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

本日は、「江戸城」「小田原城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

江戸」(東京都千代田区・中央区と港区の一部

「江戸城」は、江戸時代265年間にわたり、日本を統治した「徳川幕府」の所在地でありその最高トップである「将軍」の居住城でした。初代「徳川家康」から十四代「徳川家茂(いえもち)」までが「江戸城」で政務を執り起居したお城です。十五代将軍「徳川慶喜」だけが、「江戸城」で政務・起居をしていません。

 

城郭の範囲は広く、現在の千代田区全域+中央区の大半+港区の一部で世界でも稀な大城郭であったことから難攻不落で長期政権と平和が続いたとも言われています。

 

「徳川家康」が江戸幕府を1603年に開府しお城のシンボルである「慶長期天守」を築城します。「家康」死後の1622年に二代将軍「秀忠」は「元和度天守」に造り直し、更に、1638年に三代将軍「家光」は「寛永度天守」を完成させますが、「明暦の大火災」(1657年)で「天守」が焼失した後は再建されずに、以降「天守」はなくなります。

 

「江戸城」は火災が多く、その都度多くの城郭建造物が焼失し、また再建されるという繰り返しでした。

 

現在「江戸城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、「本丸」跡の西側に現存している「富士見多聞」で、別名「御休憩所前多門」と呼ばれています。長さは約32mで幅は約5mと結構大きな建造物で、「蓮池濠」から高さ19mもの高石垣上に建っています。

 

現存「富士見多門」(「蓮池濠」上)↓

 

「本丸」には嘗て15の「多聞」があったそうですが、現在はこの「多聞」のみ残っています。中には、鉄砲、弓矢、文書等が保管されていたようです。

 

現存「富士見多門」(「本丸」跡から)↓

現存「富士見多門」(「本丸」跡から)↓

現存「富士見多門」(「本丸」跡から)↓

 

 

「江戸城」にはもう2基の「平櫓(多門櫓)」があります。それは「二重橋」越しに見ることができる「伏見櫓」の東側と北側に位置する「多聞櫓」で各々には名称が付ていて、「二重橋」から見えている東側が「十四間多聞櫓」、全く見えない北側にあるのが「十六間多聞櫓」です。

 

白漆喰の中に並ぶ窓の上下には、「伏見櫓」と同様に「長押」を設けて格式を挙げています。

 

「伏見櫓」と「十四間多聞櫓」↓

「伏見櫓」の南側に「十四間多聞櫓」↓

「伏見櫓」の南側は「十四間多聞櫓」、北に延びる「十六間多聞櫓」は見えない

 

 

小田原」(神奈川県小田原市

「後北条氏五代」の始祖「伊勢宗瑞(北条早雲)」は、鎌倉公方「足利持氏」の麾下「大森家」から「小田原城」を奪い取って城主となります。その後、「上杉謙信」や「武田信玄」が「小田原城」を攻めますが、難攻不落でいずれも撤退します。

 

その後、「北条氏康」が三の丸を築き拡張し、「北条氏政」は総延長約9㎞もの「総構」を築いて万全の態勢の城郭とします。

 

そして「豊臣秀吉」の全国統一事業に最後まで抵抗した「氏政」は、「小田原城」を見下ろせる「石垣山」に建てられた「石垣山城」の迫力に押されて「秀吉」に屈して、開城した上で切腹することになります。

 

「後北条家」の滅亡後すぐに関東入国した「徳川家康」は「大久保忠世」を入城させます。しかし、二代目「忠隣(ただちか)」は、「本多家」親子との政争に敗れて改易され、「小田原城」は一時幕領となります。

 

その後、「家康」に対する貢献度が高かった「大久保家」は、「忠隣」の孫である「忠朝(ただとも)」の家系が10万3千石で「小田原城」に返り咲き、幕末・維新まで続きます。

 

現在「小田原城」の「平(一重)櫓」は2基あります。一つは、RC造復興「天守」南面に付随する「付櫓」で出入口になっています。南面に向かって右側は桁側、左側は妻側の屋根を見せていて、白漆喰の壁の窓上下には「天守」に併せた「長押」が付いています。

 

RC造復興「天守」南面に付随する「付櫓」↓

RC造復興「天守」南面に付随する「付櫓」↓

 

もう一つは、1971年にRC造りで復元された「常盤木(ときわぎ)門」の「渡櫓門」に付随して桝形を形成するL字型の「南多門櫓」です。現在この内部は「常盤木門SAMURAI館」として、甲冑や刀剣などの武具に特化した展示を行っています。

 

「常盤木門」の「渡櫓門」に付随して桝形を形成するL字型の「南多門櫓」↓

桝形を形成するL字型の「南多門櫓」↓

桝形を形成するL字型の「南多門櫓」↓

 

 

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本日「池田文庫」(大阪府池田市)で開催された「もっと知りたい 小林一三」の講座に行きました。

 

この講座は、阪急文化財団理事であり館長でもある「仙海義之」氏が講師をされ、「一三」に因んで毎月13日に開講され来年の3月まで続く講座です。

 

講座の案内 ↓

 

本日は第一回目でしたが、定員20名のところ多分満席だったと思います(一番前に座ったので後ろは見えず)。

 

私は、根っこからの「阪急沿線」在住者であり「阪急ファン」、転勤で二年間は他所に住んでいましたが、ずーと「阪急」に慣れ親しんだ者でしたので、この講座は垂涎の的でした。

 

白壁の塀中でまだ🌸が頑張って咲いている「池田文庫」は、以前は「阪急電車」や「宝塚歌劇」等の展示をしていた建物でしたが、近年旧「逸翁美術館」の別館へ移りました。

 

「池田文庫」 ↓

「池田文庫」 ↓

 

今日のテーマは「阪急電車・阪急百貨店・宝塚歌劇・東宝」で、「小林一三 略年譜」に沿って、映像を沢山見ながらの説明で、興味津々でした。

 

今日のテーマ ↓

「小林一三 略年譜」 ↓

 

プロジェクターに映し出される写真は、見たことがある写真や資料以外にも始めて見るモノも多く、「小林一三」が手掛けた、或いは「一三」の発想の豊かさから産み出されたモノの多さには驚きが多々ありました。

 

例えば、「箕面有馬電鉄(阪急電車の前身)」の「池田駅」に「室町住宅」を建てて販売したのは、ニュータウンの先駆けであり、販売方法は割賦販売を導入してローンの先駆けでもあったことや、電車の発電所から電気を引いてライフラインを完備するなど、日本で初めてのことだらけでした。

 

乗車客を増やすためには、箕面に動物園を開園したり、宝塚には宝塚新温泉を開業しプールを併設、プールから転じたその場所を「宝塚少女歌劇」の舞台にする等、発想の豊かさだけでなくダメであったら次の事に取り組むという柔軟性を持ち合わせていたようです。

 

これだけでなく、神戸線を開通させたときには、宣伝ポスターに「いつでも空いていて涼しい阪急電車」と自虐的にも思えるワードを使用して発信したりしています。

 

また、当時は呉服系の百貨店が主流であるのを逆手にとって、今でいう「デパチカ」に力を入れたり家族で食事ができる大食堂を作ったりと、電車の乗客増を狙った取り組みも行っています。

 

書き出すとキリがないので、このぐらいにしておきますが、「略年譜」の中に記載されている内容は「一三」の手腕の賜物ばかりだと思いました。

 

講師の「仙海」氏の説明も流れるような喋り口で、非常に聞きやすく、また時にはジョークっぽい所もあって1時間半があっという間に終わりました。

 

次回6月は「阪急電車の始まりと沿線の広がり」というテーマで、帰宅して早速WEBで申し込みをしました。

 

楽しみです!

 

 

 

 

 

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只今、ブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞り、具体的な写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「白河小峰城」「館山城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

白河小峰城」(福島県白河市

古来より重要な拠点であった「白河」は、「結城親朝(ちかとも)」が築城して、代々「白河結城家」が家督を相続します。しかし、「豊臣秀吉」による奥羽仕置によって、「白河結城家」は所領没収され、42万石で会津に入封した「蒲生氏郷」が統治します。

 

江戸時代に入った1627年に、外様大名ながら築城上手な「丹羽長重」を徳川将軍家が重用して、北の「伊達政宗」に対する抑えとして近世城郭に大修築させました。

 

当城の近世城郭化が終わると「丹羽家」は二本松に移され、その後は「譜代大名」や「御家門」が次から次へと交替して入城しました。

 

「榊原忠次」→「本多家」→「奥平家」→「松平直矩等の越前松平家」→「久松松平家」→「阿部家」と変遷して、1866年に「阿部正静(まさきよ)」が「棚倉城」へ移封となった後は幕府領として「二本松藩の預かり地」となり、最後は新政府軍に攻められます。

 

「戊辰戦争」では、「小峰白河城」は重要拠点であったことから、新政府軍と幕府との長期間(約100日)に亘る攻防戦が繰り広げられた結果、城郭建造物の大半が焼失してしまいました。

 

現在「白河小峰城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1991年に木造で復元された「御三階櫓」の出入り口がある西側に付随した「付櫓」と、「御三階櫓」の南側に建つ木造復元「前御門」の南側に建つ「多門櫓」です。

 

木造復元「御三階櫓」の出入り口がある西側に付随した「付櫓」↓

木造復元「御三階櫓」の出入り口がある西側に付随した「付櫓」↓

 

木造復元「前御門」の南側に建つ「多門櫓」(左側、本来はもっと長かった)↓

木造復元「前御門」の南側に建つ「多門櫓」(右側、「本丸」跡から)↓

木造復元「前御門」の南側に建つ「多門櫓」(右側、「本丸」跡から)↓

木造復元「前御門」の南側に建つ「多門櫓」(「清水門」跡から)↓

 

「多門櫓」は当時は「本丸」南側にも延びて「本丸」を取巻いていたようで、現在でもその跡地が見られます。

 

「多門櫓」台跡 ↓

絵図では「本丸」の南東隅を囲っていた ↓

 

また、「御三階櫓」の北側と東側には「張り出し」があって、一見「付櫓」のように見えますが、これは「御三階櫓」自身が張り出している部分のようです。

 

「御三階櫓」の北側の「張り出し」(左端) ↓

「御三階櫓」の東側の「張り出し」 ↓

 

館山」(千葉県館山市

「南総里見八犬伝」で有名な「里見家」が1580年頃に築城したお城で、当時は「天守」も建てられたようですが、1614年に「里見家」は改易されたので廃城となりました。

 

その後、18世紀後半に「稲葉家」が「館山城」の麓に「陣屋」を築き、幕末・維新まで当家が統治します。

 

現在の「館山城」模擬天守は、絵図等が残っていないので、「丸岡城」をモデルに三重四階、一階のみ下見板張りの望楼型複合天守として 1982年(昭和57年)に再現されています。

 

現在「館山城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、RC造り模擬「天守」に付随する「付櫓」で、内部は「天守」と共に「八犬伝博物館」となっています。写真が1枚しかありませんで申し訳けございません。

 

RC造り模擬「天守」に付随する「付櫓」 ↓

 

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昨日の好天気につられて、近所の「水月公園」(大阪府池田市)を周回し、ご近所を散策して花の写真を撮ってきました。

 

🌸は未だに満開の木が多く、こんなに長い間楽しめた年は近年無かったように思います。🌸はやはり青空に映えますね~

 

「青空」に🌸は映えます!  ↓

🌸満開 ↓

🌸満開 ↓

🌸満開 ↓

 

「水月公園」の中央の池は、太陽の光がさざ波に反射してキラキラと眩し気に輝いていました。

 

太陽の光がさざ波に反射してキラキラと ↓

 

満開の🌸群 ↓

後に見えるのが「斉芳亭」 ↓

 

「池田市」の友好都市である「蘇州市」から贈られた「斉芳亭」の周囲は、5月下旬ころになると満開になる「花しょうぶ」が緑の葉が元気よく育っていてそのシーズンが来るのが楽しみです。

 

「斉芳亭」の赤色の柱に感化?されたのか、「モミジ」の赤い新芽も目立っていました。

 

「蘇州市」から贈られた「斉芳亭」 ↓

 

出入口の「芝桜」もビッシリと花が咲き揃い花の共演となっています。

 

満開の「芝桜」 ↓

満開の「芝桜」 ↓

 

「水月公園」から出て住宅街を通っていくと、各家庭で植えられている各種の花や木々が、まさに春の訪れを待っていたかのように一斉に咲き乱れていて、それらを愛でながらのウオーキングは非常に楽しい時間となりました。

 

「パンジー」の寄せ植え ↓

「チューリップ」の寄せ植え(最も春を感じる花です) ↓

「ノースポール」の寄せ植え ↓

「マーガレット?」の寄せ植え ↓

「ツルバラのよう?」 ↓

「マンサク」も満開 ↓

「八重桜」も満開です(🌸と八重桜が同時開花は珍しいです) ↓

 

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一昨日からブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞り、具体的な写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「二本松城」「会津若松城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

二本松城」(福島県二本松市

戦国時代、「蘆名家」「伊達家」等の有力領主に攻め込まれて、先住の「二本松畠山家」は衰退していきます。

 

その後、「伊達家」→「上杉家」→「蒲生家」→「加藤家」と領主は変遷して、「加藤家」が改易となり幕府領となります。そして1643年に築城名手であった「丹羽光重」が入城してからは、総石垣造りの近世城郭に大改修しています。

 

その後「丹羽家」によって、幕末・維新まで統治が続きますが、戊辰戦争では戦場となり落城してしまいます。

 

現在「二本松城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、「郭内」から「三の丸」に入る「箕輪門」を構成する部分に「多門櫓」として置かれています。「箕輪門」の手前には模擬「二重櫓」が建てられ、門の奥に「多門櫓」があります。これらは、1982年に再興されています。

 

全体を「箕輪門」と呼ぶ(右が復興「多門櫓」で左が模擬「二重櫓」)↓

復興「多門櫓」(平櫓-一重櫓)↓

「多門櫓」(平櫓-一重櫓)↓

 

会津若松城」(福島県会津若松市

「蘆名(あしな)家」によって築かれた「黒川城」を「伊達政宗」が奪い、「豊臣秀吉」の全国統一後は、「豊臣秀吉」が「蒲生氏郷」を会津に入封させ新たに築城させたお城に「若松城」と名付けました。その後、「上杉景勝」が入城して、「徳川家康」の征伐軍に備えるために、お城を大改築しました。

 

関ケ原の合戦後は、「加藤家」が入城し「北出丸」を増築によって北からの防御の備えにしました。

 

1643年に、3代将軍「徳川家光」の異母弟「保科(ほしな)正之」が、将軍の命によって「高遠藩保科家」から呼び戻されました。そして「会津藩」23万石の大名として取り立てられ、その後「正之」の子孫は、「武家の棟梁である徳川家を支える」ことを家訓に掲げて「会津松平家」として幕末・維新まで存続します。

 

しかし、幕末に「京都守護職」を命じられた会津藩主9代目「松平容保(かたもり)」は、「京」の安全警護に尽力しましたが、新政府から“朝敵”として位置づけられる等、大変な時期を「京」で過ごし、結末は最後の将軍「徳川慶喜」とともに江戸へ逃げ帰り、更に会津若松へ帰城します。

 

最後まで徳川幕府を支えるべく「戊辰戦争」では、新政府軍からお城に大砲を撃ち込まれる等して落城してしまいます。

 

現在「会津若松城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、RC造りの外観復元「天守」に付随して、南に向かって「鉄門」まで延びるRC造りの「走長屋」と、「鉄門」から「干飯櫓」まで延びる木造復元の「南走長屋」です。

前者は1965年、後者は2011年に復元されました。

 

名称は「長屋」となっていますが、実質は「多門櫓」として「本丸」と「帯曲輪」とを区切る役割をさせています。「戊辰戦争」の時は、「会津藩」の本部を「鉄門」と「走長屋」の間に設けていたそうです。

 

RC造り外観復元「走長屋」(「天守」の手前)↓

RC造り外観復元「走長屋」(「帯曲輪」側から)↓

RC造り外観復元「走長屋」と「鉄門」(「本丸」側から)↓

RC造り外観復元「走長屋」と「鉄門」、木造復元「南走長屋」と「干飯櫓」(「天守」から見下ろす)↓

木造復元「南走長屋」と「干飯櫓」(「本丸」から)↓

木造復元「南走長屋」(「本丸」から)↓

RC造り外観復元「鉄門」、木造復元「南走長屋」と「干飯櫓」(「天守」から見下ろす)↓

木造復元「南走長屋」内↓

木造復元「南走長屋」内↓

 

 

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今回からブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞り、具体的な写真をお届けしていきます。

 

「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたり、「はじめに」を前回のブログで掲載しましたのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

山形城」(山形県山形市

当城は近世初頭には、大藩の「最上氏」が57万石を有していましたが、「最上騒動」で領地を収公され、その後に「鳥居家」は20万石で入城します。

 

続いて入城した「保科正之」は二代将軍「徳川秀忠」の三男であり20万石でしたが、その後も譜代大名が入城して10万石前後を維持していましたが、幕藩体制が確立してくると、左遷大名の城地となり、石高も5万石前後まで落とされてしまいます。

 

5万石前後でこれだけの大城郭を維持するのは大変だったと思います。多分、幕末には、傷んだ箇所も補修できずにそのままになっていたのではないでしょうか。

 

現在「山形城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、お城の玄関口である復元「東大手門一之門櫓門」に繋がる「北櫓」と「続櫓」です。

 

「北櫓」は単独の「平櫓」のようですが、「櫓門」に繋がる「続櫓」は一重の「多門櫓」になっています。

 

復元「北櫓」↓

左端に見えるのが復元「北櫓」、正面は「東大手門」↓

左が「東大手門 櫓門(一之門)」の「続櫓(多門櫓)」↓

右側に見えるのが、「東大手門 櫓門(一之門)」の「続櫓(多門櫓)」↓

 

 

仙台城」(宮城県仙台市

「関ヶ原の合戦」では、「徳川方」に属したことから、その功で順次加増を受けて1634年には62万石にまで上がり大大名となります。

 

「大手門」は、太平洋戦争で焼失してしまいましたが、「伊達政宗」が「名護屋城」の「大手門」を「豊臣秀吉」から譲り受けたという非常に立派な桃山形式の櫓門です。その脇には「大手門脇櫓」が建っていてそれも戦争で焼失しましたが、1963年にはRC造りで復元されています。

 

「大手門」礎石跡が発掘調査によって昨年一般公開されましたが、「政宗」没後400年にあたる「2036年」を目標に「大手門」の復元計画を立てているようで、既に復元している「大手門脇櫓」と共に見ることができるのは楽しみであります。

 

この「大手門脇櫓」は、二重櫓の西側と南側に「続櫓」が付随しています。各々が「平(一重)櫓」となっています。

 

復元RC造り「大手門脇櫓の西続櫓」↓

復元RC造り「大手門脇櫓の西続櫓」↓

復元RC造り「大手門脇櫓の西続櫓」(左)と「大手門脇櫓の南続櫓」(右)↓

 

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