本日の『「明智光秀」所縁(ゆかり)のお城』は、「明智城」(岐阜県可児市)です。

 

「光秀」の生誕地は史実ではハッキリしないで諸説あり、6か所が名乗りをあげていて、特にその中でも「あけち」と名前が付くのが、岐阜県可児市の「明智城」と岐阜県恵那市の「明知城」の二か所あります。他には「滋賀県多賀郡」「岐阜県瑞浪市」「岐阜県大垣市」等です。

 

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の初回には可児市の「明智城」が生誕地の「明智荘」と「光秀の産湯井戸跡」とともに紹介がされています。これは、今回の大河ドラマの時代考証が、静岡大学の歴史学者「小和田哲男」先生が担当されていて、小和田先生の説が可児市の方だからと思います。

 

「明智光秀生誕の地」の横断幕(名鉄「明智駅」から「光秀の産湯井戸跡」までの間に掲出)

「明智荘」の現代地図

 

この「明智城」の由来は、美濃源氏の流れをくむ「土岐頼兼」が14世紀の中頃に「明智」と改姓して当地にお城を築いたのが始まりとされています。そして、その後200年もの間、「明智家」代々のお城として続きました。

 

しかし、1556年に「稲葉山城」城主の「斎藤義龍」に攻められて、城代であった「明智光安」は籠城の末、「義龍」軍に攻められ自刃して落城します。そして「光安」は、「光秀」に対して「明智家」再興の為に当城から逃れるように指示し、「光秀」一家は朝倉方の方へ逃げました。

この辺りのお話は、「麒麟がくる」でも出てきたと思います。

 

さて「明智城」ですが、「長山」という山に築かれた山城ですが、そんなに高くはありません。山頂の「本丸」跡へは、「大手口」からか「搦手門」からの登城となります。

 

今回は「大手口」から案内していきます。「大手口」左手高台には「大手曲輪」跡、少し進んだ所が「大手門」跡で、模擬の「冠木門」が建っています。

城内の曲輪

大手口

「大手曲輪」跡

桔梗坂と模擬冠木門の大手門

 

「大手口」からの道は石が張り詰められ「桔梗坂」という名前が付けられ、その両脇の左土手上は「東出丸曲輪(一の曲輪)」、右土手上は「中ノ曲輪(二の曲輪)」と言い、「大手道」に沿って南北長く延びて、入城者を監視できるようになっています。

 

石畳に整備されている桔梗坂、両脇上には「東出丸曲輪(一の曲輪)」と「中ノ曲輪(二の曲輪)」

 「中ノ曲輪(二の曲輪)」の土手上

 

「大手道」を上りきった曲輪が「二の丸曲輪」で馬の背となった長い平べったい土地で、「馬場」とも言われた場所です。そこには模擬の「逆茂木」が並べられていて戦国時代の城的な風情を出しています。

 

「二の丸曲輪」跡と「馬場」跡 (「桔梗坂」を上り切った所)

模擬の逆茂木と柵

 

そこを真っすぐに進むと「西出丸曲輪」が大きな土塁になっています。そして戻った場所の北側に「本丸跡」が配備されていて、そこには「本丸跡碑」と刻まれた大きな石が置かれています。

「西出丸曲輪」跡

「本丸」跡

「本丸」跡に立つ「明智城址」碑

 

新たに創られた「展望台」からは、「明智荘」や、「斎藤正義」が築城し「織田信長」に仕えた「森蘭丸」が産まれた地である「美濃金山城跡」の山も見えます。 

「本丸」跡に新たに組まれた展望台から

展望台からのぞむ「明智荘」

展望台から見える「美濃金山城」跡

 

「本丸」跡脇からは、ドラマに合わせて整備された「十兵衛坂」があり、「台所曲輪」「水ノ手曲輪」へと下って行きます。この辺りは、湧き水がわき出ているのでジットリとした湿っぽい土地です。またこの水脈を守るべく造られたと思われる二重の「竪堀」も見られます。

 

新たに整備された「十兵衛坂」

「台所曲輪」跡

「水ノ手曲輪」跡

二重の「竪堀」

 

道を更に下っていくと、右手に上り口があり、左に折れる虎口を抜けると「西大手曲輪」となります。その上には、明智一族の供養塔と伝わる「六親眷属幽魂塔(ろくしんけんぞくゆうこんとう)」が祠の中でひっそりと立ちます。そしてその奥が「乾曲輪」となっていてその先は「見張り台」で、丁度その下に「搦手門」跡が位置します。

 

「西大手曲輪」跡への虎口

祠の中の「六親眷属幽魂塔(ろくしんけんぞくゆうこんとう、明智一族の供養塔)」

「西大手曲輪」跡から「乾曲輪」跡方向

「見張り台」跡(「搦手門」跡付近から見上げる)

「搦手門」跡

 

「明智城」から最寄り駅である名鉄広見線「明智駅」までの道の途中には桔梗紋付表示板や「麒麟がくる 岐阜可児 大河ドラマ館」の幟が至る所に立ちますので、駅からのルートは良く解ります。

 

名鉄広見線「明智駅」

 

お城と駅の途中にあるのが「明智光秀誕生の地」で、「光秀産湯の井戸跡」が色々な資料や古写真、幟で場所の提示があります。「光秀」が30歳頃まで過ごした家もこの辺りだったとか。昭和の初め頃までは、井戸跡も盛土になった場所で良くわかったようですが、その後宅地造成がされて、今やその址碑のみになっています。

 

「光秀産湯井戸」跡地

「光秀産湯井戸」跡地の古写真

「麒麟がくる」の幟

 

また前述の「大手口」から東に入った所には、「明智一族」と関わりの深いお寺「天龍寺」があります。こちらの売りは、「180cmもの高さの日本一大きな明智光秀の位牌」があるとのことで、本堂の少し開けられた扉の間から拝むことができます。また、この寺の裏手には、「明智氏歴代の墓所」ということで沢山の小さい墓石が並んでいます。

「天龍寺」山門

「日本一大きな明智光秀の位牌」

「 明智氏歴代の墓所」

 

私が訪城したのは、昨年(2020年)の1月早々でしたので、大河ドラマ「麒麟がくる」の放送に合わせて急ピッチで様々な表示や案内に力が入れられていたと感じました。

 

次回ブログでは、謎の30年間の中で「朝倉義景」に仕官し過ごしたであろうといわれている「一乗谷城」をお届けします。

 

 

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