近鉄の株主優待券があったので、それを使用して遠征を思い立ち、約25年前に訪城した「長島城」「高須陣屋」「今尾陣屋」へ、11月18日(木)に再訪することに決め計画を練りました。

 

ただ、「高須」と「今尾」をどのようなアクセスで廻るかがポイントでしたが、海津市のコミュニティバスを如何に巧く乗り継ぐかを時刻表を細かく探しながら見つけることが出来ました。

 

1日に数本しかないバスでしたが、見つけた時は凄く嬉しくて、その3城に行くことを決断しました。

 

近鉄の優待券は遠征する方がお得で、特急券を購入すれば特急乗車できますが、敢えて「近鉄大阪線」の急行と「近鉄名古屋線」の急行を乗り継いでの旅にしました。

 

「大阪難波駅」を7時6分に乗り、「上本町駅」で7時31分発の「中川行」急行に乗りかえました。

 

「中川駅」からは9時40分発の「名古屋行」急行です。クロスシート車両でしたので旅行気分になります。「四日市駅」で準急に乗換え「長島駅」に到着したのが10時56分でした。「大阪難波」からは3時間50分の電車の旅でした。

 

「名古屋行」急行(「中川駅)にて)

 

長島城」(三重県桑名市)は、1482年に「伊藤重晴」が築城してその地は「伊藤家」が支配しますが、1570年に「一向宗」が進出してくると近くの「願(證)誠寺」の住職「証意」が「長島城」を攻めて「一向一揆」の拠点とします。

 

一揆は約4年間続き、その間にも「織田信長」が侵攻するもなかなか落ちず、1574年に落城させ、「滝川一益」に統治させます。

 

「本能寺の変」後、「柴田勝家」側に付いた「一益」は「豊臣秀吉」によって追い出され、「織田信雄」を経て「豊臣秀次」に与えられます。

 

「関ヶ原の戦い」後は、「菅沼家」を経て一時廃藩となり、その後「久松松平家」が入城してお城の大修築を果たして近世城郭化します。

1702年に「久松松平家」の移封があり「増山家」が2万石で入り、以降幕末・維新まで続きます。

 

「久松松平家」が修築したお城は、「本丸」「二の丸」を西側から南側にかけて「内堀」が囲い、その周囲を「三の丸」が囲って更に「外堀」を設けています。東側は「長島川」を天然堀として活用しています。

 

また、城内には、二重櫓や平櫓、櫓門が数基置かれ、「大手門」は桝形で櫓門と高麗門で構成されて建っていました。

 

縄張図(現地にて掲出)

現在の長良川遊歩道案内図(左下が城跡)

 

しかし現在は、これらの殆どが失われていてその敷地は「長島中学校」「長島中部小学校」の敷地となっています。「長島中学校」では、校門を城門風にし、校舎も城郭風にアレンジした外形になっています。

 

最近、城跡に建つ学校を改築する時には、城跡の雰囲気を出そうとする行政の努力が見られることは嬉しいことです。

 

「長島城」跡 城門風の「長島中学校」の校門

「長島城」跡 城郭風の「長島中学校」の校舎

 

「長島中部小学校」の校庭隅に植わる「大松」は、「本丸」の南西隅に植わっていた松で樹齢300年以上もあり、当時を偲ばせてくれています。また、当時の石垣の一部ではないかと思われるものも有ります。

 

「長島城」跡 「長島中部小学校」内の樹齢300年に以上の「大松」(「本丸」跡南西隅にあたる場所とのこと)

「長島城」跡内 当時の石垣であれば嬉しいが(「長島中部小学校」内)

「長島城」跡内の「長島中部小学校」内に立つ何かの碑

「長島城」跡内の「長島中部小学校」(校門付近、城跡の雰囲気は残るが・・・)

 

東側を流れる当時の天然の堀「長島川」は、現在も流れていてその流域が整備されている所もあり、少し下流には「水辺のやすらぎパーク」として公園化されています。

 

「長島城」跡東側を流れる「長島川」

 

その川端に建つ「旧久我屋敷」は、藩主「増山家」時代の重職を担っていた「久我家」の旧宅で、明治12年築ではありますが江戸時代の雰囲気を伝えてくれます。

 

「水辺のやすらぎパーク」

「旧久我屋敷」

 

また、「大手門」桝形から「長島川」を渡る「大手橋」は「擬宝珠」が付けられていて、その城側の橋脚台下に当時の「落し積み(谷積み)石垣」が一部残っています。

 

「大手橋」、この道先が「大手門」跡

「大手橋」下に残る当時の「落し積み(谷積み)石垣」

 

次に「大手橋」から北方向にある「蓮生寺」まで行きました。「蓮生寺山門」は、「高麗門」形式の「大手門」が縮小されて移築されています。

 

移築現存の「大手門高麗門」(「蓮生寺山門」)

移築現存の「大手門高麗門」(「蓮生寺山門」)

移築現存の「大手門高麗門」(「蓮生寺山門」)

 

前回ここに訪れた時は、「阪神・淡路大震災」の1年後でしたがまだ余震が続いていた頃で、「蓮生寺」で写真を撮っているときにビューンビューンと電線が揺れる音とお寺の障子のガタガタ鳴る音で「地震だ!」と気付いたことを、思い出しました。

 

ここから、「長島一向一揆」の拠点となった「願證(証)寺」へ行ってみたくなり足を進めました。元のお寺は、木曽三川分流工事で長良川の流路に水没しているそうです。

 

山門の脇に建つ二階が赤壁の鐘楼らしき建物に興味が湧きググりましたが全く情報がありませんでした。

 

「願證(証)寺」

「願證(証)寺」の「鐘楼」

 

本堂の横には1975年に建立された「長島一向一揆殉教之碑」だけが、その面影を残す唯一のモノでした。

 

「願證(証)寺」内に立つ「長島一向一揆殉教之碑」

 

当寺の近くには、以前まで本堂に「長島城奥書院」が移築されていてその後老朽化で新しい本堂に建て替えされた「深行寺」があったので足を延しましたが、特にそのことに関する記述や写真掲出が無くガッカリしました。

 

以前本堂に「長島城奥書院」が移築されていた「深行寺」、現在の本堂は新築

 

さてランチタイムになり、「又木食堂」に行く予定にしていたので向かいました。この食堂の枯山水には「長島城庭園」の石を使用しているとの情報を得ていたので、是非見たいと思っていたからです。

 

「又木食堂」内の庭に置かれた「長島城庭園」等で使用されていた石

「又木食堂」内の庭に置かれた「長島城庭園」等で使用されていた石

 

来てみてビックリ、凄く立派な構えの入口で、当食堂は郷土画家「佐藤昌胤」の旧家を利用した市民情報交流施設となっていて、市民の方がかなりランチに来店されていました。

 

「又木食堂」の入口

 

そしてランチメニューは4種類ありなんと全て500円と超低価格、私は急いでいたので早くできるメニューを尋ねると「お造り定食」だということでそれを戴きました。

 

ウッディな内装で落ち着く空間、料理も美味しくいただきました。

 

「又木食堂」内

 

「長島駅」を12時28分に乗り次の「桑名駅」で「養老鉄道」で乗換えて、「高須」へ向かいます。

 

「近鉄長島駅」

 

次回ブログは「高須陣屋」をお届けします。

 

 

 

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