11月18日(木)に、近鉄の株主優待券があったので、それを使用して三重県・岐阜県へ遠征をしました。約25年前に訪城した「長島城」「高須陣屋」「今尾陣屋」に再訪です。

 

前回のブログでは「高須陣屋」を投稿しましたので、本日は「今尾陣屋」(岐阜県海津市)をお届けします。

 

「海津市歴史民俗資料館」からコミュニティバスに乗り約10分で「今尾」バス停に到着、15時に探索開始です。

 

帰りのバスまで約1時間ありますので、ここでは十分な時間と思います。

 

コミュニティバス「今尾」バス停

 

まずは、「陣屋」跡へ行く途中にある「西願寺」へ向かいました。当寺の山門に「今尾陣屋」の陣屋門が移築されています。

 

メイン道路から寺院へ入る道に曲がった途端に、正面に見えるのが山門です。これを見た瞬間非常にワクワクしました。

 

移築「陣屋門」(現在 「西願寺山門」)

 

というのも、門の両脇には番所のような建物が付随していて、しかもその建物の両サイド共に「唐破風」が付きその中央には大きな「蕪懸魚」がぶら下がります。そして下の大きな窓には格子が嵌められていて、普通の門とは少し様相が違う変り種門だからです。

 

移築「陣屋門」(現在 「西願寺山門」、両脇には「番所」の様な建物が付随)

移築「陣屋門」(現在 「西願寺山門」、門脇建物には「唐破風」が付き下には「格子戸」が嵌った窓)

移築「陣屋門」(現在 「西願寺山門」、「唐破風」内には大きな「懸魚」)

 

表から裏から、そして斜めからも写真を撮りました。25年前に見ているのですが、当時にはどうも思っていなかった門に対して、やはり長年色々な建造物を観察してきたことから得た知識などによって、興味をそそるようになっているのだと思います。

 

移築「陣屋門」(現在 「西願寺山門」、鉄板が貼られた「門扉」)

 

この山門から少し北に進んだ所には、住居の庭内に草の間から石碑が見えます。その石碑に書かれている文字は読めませんが、先人の情報によりますと「今尾当主」9代目の「竹腰正美(富)之碑」とのことで、どんな内容が刻まれているかは判りません。

 

「今尾当主」9代目の「竹腰正美(富)之碑」

 

「今尾陣屋」の城主と歴史についてここで触れておきます。

 

当地は「中島家」が築いたお城でしたが、「織田信長」に滅ぼされた後は「信長」の家臣が城主に、また「豊臣秀吉」政権時には「市橋長勝」等が城主となっています。

 

その後「竹腰正信」に城が与えられますが、「一国一城の令」で廃城となり、「今尾陣屋」が築かれます。

 

「尾張藩」の付家老の「竹腰家」として、「犬山城」の「成瀬家」ととも「尾張藩」を支え幕末まで続きました。明治政府になってからは独立した藩として認められるも、1671年に廃藩置県によってわずか4年で消滅します。

 

現在は、「今尾小学校」の敷地となり、校門脇に「陣屋の説明」と「縄張図」が掲出されています。

 

「今尾陣屋」の縄張り図(「今尾小学校」校門内に掲出)

 

丁度多くの生徒達が下校の最中でしたが、グランドで先生と生徒が何かの練習をしていたので、先生に声をかけて中に入らせてもらいました。

 

校門脇から体育館前までの間左手には、「土塁」と思われる土手が続きその中には石が混じったりしていました。25年前に訪れた時は、この「土塁」上に木々が沢山植わっていたので「土塁」は全く気が付かなかったのですが今回は目にすることが出来ました。

 

陣屋跡に建つ「今尾小学校」

陣屋跡の「土塁」(この上に木々が植わっていた)

陣屋跡の「土塁」(この上に木々が植わっていた、石塁か?)

陣屋跡の「今尾小学校」

25年前に撮った写真(校舎側から校門方向、右側「土塁」上には木々が鬱蒼と植わっていた)

 

校舎前の木々の茂みの中には、現在では珍しい「二宮金次郎」像と共に「史跡 今尾城跡」碑が立っていました。

 

「史跡 今尾城跡」碑

「二宮金次郎」像

 

小学校の周囲は溝で囲まれていましたが、多分「堀」跡ではないかと思います。「小学校」の裏側に廻りましたが、田圃ばかりで城跡の遺構らしきものは見つかりませんでした。

 

陣屋跡(小学校敷地)周囲の溝(堀跡か?)

陣屋跡(小学校敷地)周囲の溝(堀跡か?)

 

時間がまだありましたが、ブラブラと「今尾」バス停迄歩き、ドラッグストアでアイスクリームを買ってバス停のベンチで食べ、全ての行程終了して一息つけることが出来ました。

 

ここから「養老鉄道」の「石津駅」まで20分弱、「石津駅」を16時34分の列車で「桑名駅」へ向かいました。帰りの車両は何故か「旧東急電鉄」のモノでした。

 

「養老鉄道」路線図と「石津駅」時刻表

「養老鉄道」の車両

 

「桑名駅」17時3分発の急行で「中川駅」へ、ここからは「名張行」急行、更に「上本町行」急行に乗り継いで大阪方面へ向かいました。

 

夕食を食べる時間も、買う時間も無く、空いたお腹を持参していたお菓子で満たしていましたが、たまたま「八木駅」で特急通過による待ち時間の間に、丁度構内の「ファミリマート」横に止まっていたので、サンドイッチと缶コーヒーを買い、クロスシートの席で食べることが出来ました。

 

「鶴橋駅」には20時17分着、「JR環状線」に乗り継いで「大阪駅」へ、そして帰宅は21時25分位になりました。

 

25年前と比べると、城跡そのものは変わりませんが、その周辺の観光化が進んでいる所、説明書きが各所に立てられて分かり易く親切になっている所があり、私達お城巡りする者にとっては有難いな~と感じました。

 

ただ、「今尾陣屋」跡の小学校内の「土塁」上に植わっていた木々が伐採されていたのが残念でなりませんでした。

 

 

 

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