天守台シリーズ」第59弾は、「姫路城」です。

 

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

今までに投稿している「天守台シリーズ」はこちらからです!

 

姫路城」(兵庫県姫路市、戦国時代後期に「小寺則職」に仕えた「黒田家」が、砦から「姫路城」を築城したのが最初で、「黒田孝高」が城代となった時に、「織田信長」の命で中国攻めに任じられ、よしみのあった「羽柴秀吉」に城を献上しました。

 

「秀吉」によって近世城郭に拡張されましたが、関ケ原の戦い後1601年に「徳川家」の信頼の厚い「池田輝政」が入城して、西国大名の監視を目的とする一大拠点として、現在の「天守群」を中心に広大な城郭建築が行われ1610年に完成しました。

 

「姫路城 天守群」

 

その後、「本多忠政」が入城し、「三の丸」「西の丸」等が増築されますが、城主の変遷は目まぐるしく、「奥平松平家」、「結城松平家」3回、再び「本多家」、「榊原家」2回と入れ替わり、1749年に「酒井家」が入城してやっと落ち着きました。

 

「秀吉」の三重四階の天守は1581年に「姫山」に完成しましたが、その後の「池田輝政」の大改修によって、「天守台」は新しい「天守」の下に埋没されました。「昭和の大修理」の時に、「天守」地下からその石垣や礎石が見つかっています。

 

「輝政」の「大天守」の「天守台」は、15mもあり建物と合わすと46.5mの高さになります。「大坂城」の「天守台」の高さ13.3mを上回り最も高くなっています。

 

「姫路城 大天守」の「天守台」は遠くからでも目立つ(「大手門」付近から)

「姫路城 大天守」の15mある「天守台」

「姫路城 乾小天守」等の「小天守台」も高さがある

 

そして、「天守台」は、中央部を凹ませて穴蔵構造にして地階を設けています。そこは戦闘態勢時の籠城を想定した、食事を作るための「流し」や「厠」(便所)を備えています。

 

「姫路城 天守台」の穴蔵は地階で「流し」を装備

「姫路城 天守台」の穴蔵は地階で「厠」を装備

 

石垣の加工・積み方は、「打込接・乱積み」で「小天守」の天守台とともに同様になってます。

 

「姫路城 天守台」(北面)は「打込接・乱積み」

「姫路城 天守台」(南面)は「打込接・乱積み」

「姫路城 西小天守台」(左側)と「大天守台」(右側)の「算木積み」が良くわかる

「姫路城 西小天守台」の「算木積み」

「姫路城 西小天守台」(西面)と「ハの渡櫓台」(打込接・乱積み)

「姫路城 乾小天守台」(左側)から「ハの渡櫓台」「西小天守台」(手前側、打込接・乱積み)

「姫路城 東小天守台」(左側)から「ロの渡櫓台」「乾小天守台」(手前側、打込接・乱積み)

「姫路城 東小天守台」

「大天守」と「東小天守」(東面から)

「大天守」と「西小天守」「乾小天守」(西面から)

 

 

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