新春初お城廻り、「青春18きっぷ」による静岡県内の4城(横須賀城、掛川城、高天神城、諏訪原城)巡りのブログをお届けしています。

 

2日目の朝一番に「掛川城」を見てその後、「高天神城」(静岡県掛川市)へ向かいます。

 

後編はこちらからどうぞ↓

 

 

「高天神城の城郭構造絵図」(パンフレットに掲載)

 

実はホテルをチェックアウトする前の話ですが、私がトイレに入っている間に1本の電話がかかりましたが出ることができず、後ほどスマホを見るとフェイスブックのチャット電話とともにメールが入っていました。

 

思いがけないフェイスブックのお城愛好会の「城友」からの電話とメールでして、9時過ぎに「高天神城」に着くので一緒に廻りましょう、そして何時頃到着するかとのことでした。

 

丁度も私も「掛川駅北口」から「静鉄ジャストラインバス」8時30分発で最寄リバス停「土方」に9時6分着でしたのでその旨を返信しました。

 

「土方」バス停に着き、そこから「追手門」駐車場までの道を迷ってしまい途中まで車でお迎えいただき、初めての出会いでしたのでご挨拶を済ませて登城をスタートしました。

 

「城友」は、神奈川県在住で「高天神城」は3度目とのこと、しかも関東の土づくりのお城を多数訪城されていることもあり、縄張り図を見ることなく案内してくれましたので、大変助かりました。

 

まずは「高天神城」の歴史と城主を頭に入れてからの登城です。

 

当城は、駿河の守護職であった「今川氏」が遠江に勢力を伸ばす中で支城として築かれたようです。しかし、「今川義元」が桶狭間で敗死したことで「今川氏」が衰退、家臣だった城主の「小笠原長忠」は「徳川家康」の誘いに乗って「徳川方」となりました。

 

その後、「武田信玄」が勢力拡大をすべく遠江へ進軍してきましたが、「長忠」は籠城して城を死守したので攻めきれずに通過していきます。

 

「信玄」死後、1574年に「武田勝頼」が「高天神城」を攻略します。「長忠」は援軍も無く力尽きて開城し、「武田氏」の持ち城となります。

 

1575年に「武田勝頼」が「長篠の戦」で大敗したのを機に、「家康」は「高天神城」奪還作戦を取り、周囲に6砦(高天神六砦)を築く包囲網によって孤立化を進めました。

 

1581年には、「武田方」は弾薬が切れ援軍も無いままに全員出撃しましたが玉砕して果て、その後入城した「家康」によって焼き払われました。

 

お城の縄張りは、丁度真ん中の「井戸曲輪」跡を中心に「東峰」と「西峰」に分かれていて「東峰」は主に居住空間、「西峰」は西側からの攻勢に対する戦闘態勢を施した空間のようで「一城別郭(いちじょうべっかく)」のお城というそうです。

 

「高天神城」の縄張図(現地に掲出)

 

それでは「城友」による案内で「追手門」跡から登城です。かなりの山道かと構えていましたが比較的上り易く、まずは「東峰」へ向かいます。まず最初に「着到櫓」台があり、「追手門」の監視を担っていたものと思われます。

 

「追手門」跡

「着到櫓」跡

「三の丸」跡への階段

 

三の丸」跡へ着くとその周囲は「土塁」に囲われていて、また眺めも良好でここから「富士山」を望むことができました。「三の丸」は、別名「小笠原与左衛門曲輪」と名付けられ、彼が「三の丸」の大将として城兵250人を従え守備していたそうです。

 

「三の丸」跡

「三の丸」跡周囲の「土塁」

「三の丸」跡から見える「富士山」

 

その北側の段上が「御前曲輪」「本丸」の各跡が繋がって北へ延びています。「本丸(本曲輪)」跡は、「土塁」に囲われていて、掘立柱の建物と礎石上に建つ建物が有ったことが発掘調査で分かっているそうです。

 

「御前曲輪」跡から「三の丸」跡を見下ろす

「御前曲輪」跡

「本丸」跡

「本丸」跡周囲の「土塁」

 

「本丸」跡は、前述の「御前曲輪」や東崖下の「腰曲輪」や西側の「的場曲輪」によって固く守られていました。

 

更に、「本丸」跡と「御前曲輪」跡の間には「元宮」がありますが、これは現在「西の丸」跡に建つ「高天神社」が江戸時代半ばまで建っていた場所です。

 

急な道を下りると比較的平坦で細長い「腰曲輪」が「本丸」跡下から「御前曲輪」跡下まで取り囲んでいます。その途中の岩盤に格子の扉が嵌め込まれているのが「大河内政局(まさもと)」石窟と言われ、1574年の武田軍の攻撃による落城の際に、徳川方から武田方の軍門に下らなかったことから武田勢が「政局」をなんと9年間も幽閉した石牢です。

 

「腰曲輪」跡

「大河内政局」幽閉の石窟

 

的場曲輪」跡は、弓矢の練習をする曲輪からだそうで、ここから下って「井戸曲輪」跡へ向かう途中に、崖横に「鐘曲輪」と表示した看板が立っていましたが、「城友」が崖下にある削平地が曲輪であることを教えてくれました。

 

「的場曲輪」跡

「的場曲輪」とから下りて「井戸曲輪」跡へ向かう

 

鐘曲輪」跡とは、敵が来た時にここで鐘や太鼓によって城内に知らせる曲輪だったそうで、場所を教えてもらわなかったら素通りするところでした。

 

崖下に有る「鐘曲輪」跡の削平地

 

井戸曲輪」跡は、「東峰」と「西峰」の中間点、しかも「搦手口」からの道の到達点でもあり、曲輪内には「かな井戸」が掘られ山城の水補給場所となっていました。

 

「井戸曲輪」跡

「井戸曲輪」跡内の「かな井戸」

「縄張り図」(城内に掲出)

 

後編」は、「西峰」の各種仕掛けの数々をお届けしますので、ご期待ください!

 

 

 

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