5月末になりますが「二条城」(京都市中京区)に訪城しましたので、少し遅ればせながらですがお届けします。

 

何度か訪城していますので、今回はその中でも気に入った箇所の写真をピックアップしてみました。

 

9時半頃に入城しますと、コロナ禍も下火となっていたこともあり、「二条城」内は修学旅行生で一杯で、写真を撮るのは少々難儀しましたが、インバウンドの時に比べたらまだまだ空いていたと思います。

 

でも、学生の皆さんが修学旅行を再会できるようになり本当に良かったと思います。京都を充分に満喫して欲しいです。

 

さて、修学旅行生で混雑する「二の丸御殿」の観覧を後にして、「二の丸」跡南側から攻めました。

 

「東大手門」と「南東隅櫓」(いずれも重文)、「打込接・布積み」の石垣が綺麗!

「東大手門」の柱下の金貼り装飾(スペード形をしてたんだ!)と巨大饅頭金具

重文「番所」の屋根だったか? 天皇家の「菊の御紋」に殆どが替えられている中で「葵の紋」が!

重文「唐門」を横目で見ながら「築地塀」を西へ進みました

「築地塀」が途切れた所に、こんな所にも「塀重門」がありました

結構長い土塀、この内側に「二の丸庭園」「二の丸御殿」があります、この辺りは全く人気がありません

「桃山門」脇から見た「内堀」越しの「天守台」

「本丸」跡南面の石垣は、「打込接・布積み」です

重文「南仕切門」内の曲線極太の梁、鉄板貼りの門扉

 

「本丸」跡へ戻る途中から重文「本丸櫓門」を内堀越しに眺めました。

 

重文「本丸櫓門」、嘗ては右側に「溜蔵」が建ち「二階廊下」で繋がれていました

 

この「本丸櫓門」と「二の丸」側に建っていた「溜蔵」との間に「廊下橋」と二階に「二階廊下」があって繋がっていたそうですがその光景を思い浮かびます。

 

重文「本丸櫓門」(二階に廊下が突き出て手前の本丸側に廊下が続いていたのだろうか)

「本丸櫓門」脇の石段

 

江戸時代初期の「後水尾天皇」行幸時には、天皇がこの二階廊下を渡り「本丸御殿」から五重五階の「天守」に登ったとか。過去、百人位在位した天皇の中で唯一「天守」に登ったことがある「天皇」になりました。しかも行幸の間に2回上がったとか、「御所」の位置を確認したのでしょうか。

 

この「溜蔵」「廊下橋」「二階廊下」は、1930年まで健在だったようで、その後はそれらの部材が「二条城」内で保管管理されているらしいので、復元の可能性は大です。大いに期待したいものです。

 

さて「本丸御殿」は現在修築中でスッポリとカバーに覆われていますが、「本丸」跡内は見所が多いです。

 

「本丸御殿」前の「本丸庭園」

「天守台」への石段も半端ない、ここに五重五階の「伏見城天守」が移築されていた

「天守台」隅の「天端石」に穴が

「天守台」下の「雁木」の長さも凄い! 「本丸」跡周囲の石垣の裏側で東方向

「雁木」南側の石垣と「内堀」、「桃山門」が見えます

重文「南西隅櫓」と重文「南米蔵」の屋根

立派な「天守台」は「打込接・布積み」(北西方向から)

この裏に重文「西門」があるのですが内側からは立入禁止で見れません

「北仕切門」脇の石垣の裏は「土塁」

 

重文「北仕切門」は「南仕切門」と同形式でそこを潜ると「二の丸」跡の東エリアに入ります。

 

重文「東大手門」より少し小ぶりな「北大手門」は、行幸時に新築されたらしいですが、その後は、その門の北側にあった「京都所司代」との通用門となった為に、「東大手門」に装飾されたような金貼り等は外されてしまいました。

 

重文「北大手門」、煌びやかさがない

 

その南側には、長屋門と蔵が併設した重文「米蔵」があり、表裏の顔が違います。

 

表側は「長屋門」形式

裏側が「米蔵」形式

 

さて、12時近くのお昼時になり修学旅行生も引いた所で、国宝「二の丸御殿」へ入場しました。

 

写真は「玄関」まで、中は撮影禁止です。

 

国宝「二の丸御殿」の「遠侍」の大屋根には天皇家の「菊の御紋」

「玄関」上の「唐破風」内の彫刻も素晴らしい桃山形式

大きな「玄関」です。これ以上は撮影禁止!

外からは写真OK! 右から「遠侍」「式台」「大広間」の各家屋

「黒書院」

「白書院」

「白書院」の厠裏(将軍のウンチ状況を見るのかな?)

土塀の屋根の反りが中国風

 

 

 

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