11/21(月)〜22(火)の二日間、東海地方にある「若かりし頃の家康」所縁のお城巡りをしてきました。

 

大阪「難波駅」から、6時30分発の近鉄特急「アーバンライナー」で「名古屋駅」まで行き、「名古屋駅」からは名鉄特急で「豊橋駅」まで向かいました。

 

近鉄特急「アーバンライナー」(「近鉄名古屋駅」にて)

名鉄特急(「豊橋駅」にて)

 

いつも「名鉄名古屋駅」で思うのですが、一つのホームで南行は「名古屋本線」「西尾線」「河和線・知多新線」「常滑・空港線」の4路線の電車が次から次へ入線して来るとともに、停車位置も路線毎にそれぞれ少しずつずらして停車するテクニックには驚かされます。

 

「豊橋駅」からはJR「東海道本線」に乗り「新所原駅」で、初めての「天竜浜名湖鉄道」に乗り替えました。

 
「天竜浜名湖鉄道」

 

車両は一両ですが中はふんだんなイラスト入りディーゼル列車、狭い木々の中をすり抜けながら走っていくスリルはたまりません。そして「奥浜名湖」の初めて見る風景には癒されます。

 

「天竜浜名湖鉄道」の車両内のイラスト

「天竜浜名湖鉄道」の車両内のイラスト

「天竜浜名湖鉄道」の今時珍しい「硬券」

「奥浜名湖」の風景

 

「二俣城」の最寄り駅「二俣本町」で下車して5分程で「二俣城」(静岡県浜松市天竜区)の入口に立つ碑が迎えてくれます。

 

「二俣城跡入口」碑(後ろの台地が城跡)

 

二俣城」の歴史と城主について触れておきましょう。

 

当初の「二俣城」は現在の位置から少し北側にありましたが、16世紀半ばに「今川義元」が「桶狭間の戦い」で敗死すると「今川氏」の家臣が「徳川氏」の侵攻に備えて現在の「二俣城」に砦を築いたのが最初です。

 

しかし当城は、「徳川氏」から「武田氏」更に「徳川氏」と城主が替わりますが、「豊臣政権」下で、「徳川家康」は関東へ移封となり、その後「堀尾氏」が入城して、石垣の導入等大規模改修が行われました。

 

そして「関ヶ原の戦い」後、当城は廃城となります。

 

「二俣城」と言えば、「徳川家康」の長男「信康」が、「織田信長」から「武田氏」に通じているとの嫌疑をかけられて自刃を迫られ、1579年に21歳の若さで非業の死を遂げた城でもあります。

 

二俣城」の立地と縄張りですが、西側に流れる「天竜川」を背にした天然の要害に立地し、軍事的な要塞になっていました。

 

そして縄張りは、北側から「北曲輪」「本丸」「二之曲輪」「蔵屋敷」「南曲輪」がそれぞれ「堀切」で区切られた「連郭式縄張り」を形成していました。更に西側へは「西曲輪」「水の手曲輪」が延びていました。

 

現地に掲出の「縄張り図」

 

当時は、「二俣城」の南側には「二俣川」が流れていて、対岸には「鳥羽山城」が築かれていたので「別郭一城」のような関係になっていたようです。「鳥羽山城」については、次のブログでお届けします。

 

 

さて、標高90mの台地上に築かれているので、少し坂道を上がらなければなりませんでしたが、全く苦にはなりませんでした。

 

上り切った所には、石段の両脇に石垣の門構えが見えますが、そこが「大手口」に当たる「虎口」になっていて、その中は「二之曲輪」となっています。

 

私は、その石段を上がらずに、左手に折れて先に「蔵屋敷」跡に向かいました。「蔵屋敷」跡と「二之曲輪」跡の間は「堀切」というか「横堀」風になっていて堀底の歩行は割と容易い感じでした。

 

「蔵屋敷」跡と「二之曲輪」跡の間は「堀切」(「横堀」風)

 

「蔵屋敷」は名前の通り蔵が建ち並んでいた敷地でしょうか、西側に向かって「土塁」が形成されていきその先には「腰巻石垣」風になっています。

 

「蔵屋敷」跡(西から東方向)

「蔵屋敷」跡の「土塁」から西側「腰巻石垣」

「蔵屋敷」跡の西側「腰巻石垣」

 

南側には「虎口」跡が見られ、そこを出ると「堀切」を挟んで「南曲輪」跡になりますが、木々が覆い被さっているので全体の姿は全く判りませんでした。

 

「蔵屋敷」跡の「南側虎口」跡(「南曲輪」跡側から)

「南曲輪」跡(左側)と「蔵屋敷」跡の間の「堀切」

「南曲輪」跡は木々で見えない

 

先程上らなかった「大手口」の「虎口」跡の石段を上がると左側は「櫓台」跡だったようで、そこから南側と西側にかけて幅がある土塁が続き、それに沿って「切岸」が施され、先程歩いた「蔵屋敷」跡との間の「横堀」がかなり下に見えます。

 

「大手口」の「虎口」跡

「大手口」の「虎口」跡脇にある「櫓台」(「二之曲輪」内から)

「二之曲輪」西側の幅がある「土塁」上

「二之曲輪」土塁下の「切岸」と先程歩いた「蔵屋敷」跡との間の「横堀」

「二之曲輪」跡(「土塁」上から見下ろす)

 

「二之曲輪」跡をグルりと廻り、北側に位置し少し段上になった所が「本丸」跡です。「虎口」跡は、「本丸」跡の南東隅に低い石垣で桝形形成した門跡があり手前は「二之門」跡、左に折れ曲がった所には「一之門」跡の礎石が見られます。

 

「本丸」跡の南東隅に低い石垣で桝形形成した「二之門」跡

左に折れ曲がった所には「一之門」跡

「一之門」跡の「礎石」か?

 

「本丸」跡には、パンフレットやお城の本には必ず紹介される「野面積み」の「天守台」が横たわっています。北側には石段が有りますが、「天守台」上には特設の木の階段が設けられているので、当時はそこに「付櫓」が建ち、その中の階段で「天守」1階にあがれたのであろうと想像できます。

 

「天守台」

「天守台」

「天守台」

「天守台」

 

「天守台」上から見下ろす「本丸」跡は広く、丁度モミジの紅葉が始まったばかりで綺麗な光景です。「本丸」跡の西側は「土塁」が続きますが、先程の「桝形門」から東側にかけては石垣が続き、「喰い違い門」跡に至っています。

 

「本丸」跡(「天守台」から見下ろす)

「本丸」跡西側の「土塁」

 

「喰い違い門」跡は、外部からは「本丸」跡が容易に覗けなくなっている門構えで、外部に出た所には「馬出し」のスペースが少し残っています。

 

「喰い違い門」跡(「本丸」跡側から)

「喰い違い門」跡(「本丸」跡外側から)

「喰い違い門」跡を出た所に「馬出し」

 

「喰い違い門」跡を出た所にも「堀切」があり、現在は「北曲輪」跡へ石橋が架かっていて、「北曲輪」跡に建つ「旭ヶ丘神社」に渡ることが出来ます。

 

「石橋」の奥が「北曲輪」跡、下が「堀切」

 

その下の「堀切」は、かなり深く「竪堀」に繋がっているような感じです。

 

「石橋」の下は「堀切」

左側が「堀切」の続きで「竪堀」になっている

 

「北曲輪」跡の西側が坂道になっている場所は「腰曲輪」の跡で、「北曲輪」跡の北側にある小規模な曲輪との間にできた「堀切」の場所に出ます。

 

「帯曲輪」跡

 

ほぼ「二俣城」を見尽くし、私は「徳川信康」が自刃後葬られた廟所がある「清瀧(せいりゅう)寺」へ足を向けました。そこには、「井戸櫓」もあるとのことで期待しての訪問です。

 

「井戸櫓」は、復元されたものですが、1572年に「武田軍」が「城の水の手」を断つために、上流から筏を流して「井戸櫓」の脚柱に激突させて破壊したそうですが、現在はその真下に「井戸」があり井戸から汲み上げるようになっています。当時の状況が良く理解できていないのですが、当時はこの下に川が流れていたのでしょうか。

 

復元「井戸櫓」

復元「井戸櫓」

復元「井戸櫓」の真下には「井戸」

復元「井戸櫓」の上部

覗き込むと真下には「井戸」

 

「信康廟所」は「本堂」の裏側にあり、近くまでは入れないように鍵がかかっています。赤い門扉には「葵」の紋が付けられ、ひっそりとした感がありました。

 

「信康廟」への石段

奥に見える「信康廟所門」

「葵門」が付く「信康廟所門」

 

「徳川家康」は、自刃した2年後にここに訪れ、清水が湧いているのを見てこの寺名を「清瀧(せいりゅう)寺」として、ここに葬られた「信康」のおくり名を「清瀧寺殿」としたといいます。主君でもない「織田信長」の命にも拘わらず、「信長」には反論できず従うことしかできなかった「父親」としての無念さは幾ばくかのものであったでしょうか。

 

次のブログでは「鳥羽山城」をお届けします。

 

 

 

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