先日<速報>でお届けしましたが、1/19(木)に「龍王山城 北城・南城」(奈良県天理市)に登城してきました。

 

難波の歯医者に朝一行って、そのまま帰宅するのも勿体ないと思い、前日急に思い立ち登城することにしました。資料を色々と探し、電車の時間や登城に要する時間を調べ、「縄張り図」をコピ-して臨みました。

 

歯医者で歯の形を取るのに思わぬ時間をとったので、予定の列車に乗れずルート変更をして、JR「まほろば線」の「柳本駅」を11時40分過ぎに遅めのスタートとなりました。

 

龍王山城」について歴史と城主について触れておきます。

 

「十市(といち)氏」が城主で、室町・戦国時代を通して「筒井」「越智」「箸尾」「古市」の各氏と並ぶ五大豪族でした。「十市遠忠」の時代であった1532~55年間が、「十市氏」の極盛期で、長年争ってきた「筒井氏」とも和を結び発展を遂げます。

 

しかし「遠忠」が病死すると、「十市氏」は衰退します。次の「遠勝」の代には、「松永久秀」が大和に進出してきて「龍王山城」は「久秀」の手に落ちてます。しかし1577年に「織田信長」に反旗を翻した「久秀」は滅びると1578年に「信長」の命で破却されました。

 

龍王山城」の立地と縄張りでは、「南城」(587m)と「北城」(522m)の二か所に分かれますが、互いに補完し合い一つのお城を形造る「別城一郭」の構えを持っています。

 

「龍王山城北城略図」(現地にて掲出、但し赤文字の郭名は私が記載)

 

 

標高70mの「柳本駅」から、はるか東に聳える標高585mの「龍王山」に今から登ると思うと、「登れるのか!」という不安がまず頭をよぎりました。

 

「崇神天皇陵」の脇を東上する

聳える「龍王山」(国道辺りから)

 

ネットでアウトプットしたルートマップでは登城ルートは3ルートありますが、私は「龍王山展望コース 長岳寺ルート」を選択しました。国道169号線から「長岳寺」「不動石仏」経由し、先に「北城」に向かいました。

 

途中、登城路はアンジュレーションがあり、雨などで抉れた切通しや、岩盤道を登りに上って「不動石仏」を12時30分に通過でしたので駅から50分も歩いています。「長岳寺奥の院」には立ち寄らずに「北城」を直接目指しました。

 

岩が一杯の山道

どんどん上って行く山路

どんどん上って行く山路

雨などで抉れた切通し状の山道

 

雨などで抉れた切通し状の山道

「不動石仏」

 

「不動石仏」から約20分は歩いたでしょうか、「南城・龍王山山頂」との分かれ道である自動車道に出て、ひとまずホッとした所で、自動車道を下って行くので少し不安になりましたが、「北城」入口近くにある「馬池」跡と案内板が見えて安心しました。もう既に13時になっていました。

 

「不動石仏」以降の「九十九折れ道」

自動車道に出た「五叉路」

 

「馬池」跡は湧水池で、麓から兵器や物資を馬の背に乗せて急な山道を登ってきた馬に水を与えたのでこのような名が付いたとか。この脇から、城内に入る道がありましたが、自動車道をもう少し下りた所にある「城跡」碑の脇道から上がることにしました。

 

「馬池」跡

「龍王山城跡」碑

 

山道に入って少し上ると右手に「土塁」があり、その上は窪地になっているようでした。この「土塁」がある場所からすぐの所に「南虎口」跡との表示があり、喰い違い土塁になっていたようですが、現在は片方が失われているようです。そしてそこから少しあがると「1郭」が横たわり左右に道が分かれますが、その右側にも「土塁」が見られました。先程の「土塁」と対になっていて、窪みはひょっとすると「水堀」を備えていたのかもしれません。

 

「土塁」

「土塁」と窪地(案内板の左側)

「南虎口」跡

上の「土塁」

 

左側への道は、「1郭」と「太鼓ノ丸」郭との「堀切」を抜けるようになっていますが、後から抜けることにして、先に右手に「土塁」沿いに進みます。突当りには、高さがある「辰巳ノ櫓」郭が立ちはだかっているので、道は左へ折れて行きます。

 

右に「土塁」

正面が「辰巳ノ櫓」跡

 

左手には「北城本丸」跡が聳えていて、「北城本丸」跡と「辰巳ノ櫓」跡の間にも「堀切」が見られます。その「堀切」から「辰巳ノ櫓」跡の台上に上ると、南東に向けて延びているようです。

 

「北城本丸」跡と「辰巳ノ櫓」跡の間の「堀切」

「辰巳ノ櫓」跡

「北城本丸」跡と「辰巳ノ櫓」跡の間の「堀切」を「辰巳ノ櫓」跡上から見おろす

 

「辰巳ノ櫓」台跡から下りて、「北城本丸」跡下を少し細く東側から北側にかけて取巻いている「2郭」跡へ廻り込んでみました。「2郭」から見上げる「北城本丸」跡は急な「切岸」を施しているようです。

 

「2郭」跡

「2郭」から「北城本丸」を見上げる

 

「2郭」跡の北東側は、断崖絶壁の「大堀切」になっているようで、はるか下に「大堀切」の底が見えます。登城者によると、その底までロープがあって下りられるとのことでしたが、ロープは見つからず断念しましたが、「大堀切」の向こう側の土塁がかすかに見えました。登城者によりますと、「大堀切」が2つ並んでいるそうです。

 

「大堀切」の底を覗く

 

諦めて「本丸」跡に上るべく、もう一度「辰巳ノ櫓」跡下から「1郭」跡まで戻り、「北城本丸」跡への山道を上がりました。「北城本丸」跡の形は、南側が凹んでいるので、凹んだ所へ上り着きます。

 

「北城本丸」跡の北東部分

「北城本丸」跡の凹んだ所を上がる

「北城本丸」跡

 

「北城本丸」跡の広大な敷地面積を誇っていて、何らかの建物も建っていたのでしょうか、少し盛り上がった箇所には石が散乱していました。

 

「北城本丸」跡

「北城本丸」跡

「北城本丸」跡の盛り上がり箇所に散乱する石

 

また、北側の「切岸」下には「腰曲輪」跡が何段か見えますし、北西隅からは真下に小郭の「3郭」が見えますが、いずれも「北城本丸」跡から下りることは難しそうです。ここは、周囲を見下ろすとかなりの断崖絶壁の上に置かれた重要郭であることが分かります。

 

「北城本丸」跡北下の「腰曲輪」跡

「北城本丸」跡の北側真下に見える「3郭」

 

食事も忘れてひたすら登城してきたので時間は13時半になっていました。電車を乗る時間もギリギリだったので恒例の🍙も買えず、持参してきた「サーターアンダーギー」2個を食べ飢えを凌ぎました。美味しかったー!

 

簡単な昼食後、先程は右手に折れて、左手に行かなかった「1郭」跡と「太鼓ノ丸」跡の間の「堀切」を抜けて西側の道へ出ました。

 

「太鼓ノ丸」跡と「2郭」跡の間の「堀切」


この「堀切」を抜けて振り返ると各々の郭の高さ、角度が半端ないことが分かります。

 

「太鼓ノ丸」跡の「切岸」

 

北方向に進むと「時ノ丸」跡の中を通過しているようですが、郭の感じがしません。そして少し右に廻り込んだ所に、先程「北城本丸」跡から見下ろしていた「3郭」跡が現われ、その脇の両側に「土塁」に挟まれた「虎口」を入ると「4郭」跡が拡がっていました。

 

「時ノ丸」跡付近の岩壁

「3郭」跡

「4郭」跡の虎口

「4郭」跡の虎口から続く「土塁」

 

「4郭」跡は、西側から北側にかけて「土塁」が繋がっていて、北端部分では「石積み」が見られます。今まで全く「石積み」は見られなかったけれど、ここにきて「石積み」があるのは何故なのか判りませんでした。

 

「4郭」跡

周囲の「土塁」、一部石積みが見られます

「4郭」跡北端の「石積み」

 

「4郭」の段下にも郭が拡がっているようでうっすらと見えます。「縄張り図」によると、このうっすら見える「郭」跡の北側には、「西の大手の丸」「五人衆郭」「馬冷やし場」が並び、先程「2郭」から見下ろしていた「大堀切」があるようですが、行き方がわからずここで断念しました。

 

まだその下にうっすら見える郭

 

西側の道を南下して、この城の特徴でもある「竪堀」群を道から見下ろしました。10本近くの「畝状竪堀」群ですが、写真の撮るとあまり良く解らない見え方となってしましまいた。

 

この道の右下に「畝状竪堀」が並ぶ

「土塁」と「畝状竪堀」

「畝状竪堀」群の一つ(「土塁」と「竪堀」ですがわかりにくい)

 

「馬池」まで戻ったのが13時55分、そこから自動車道を上がり五叉路まで辿り着き、「南城」方向へ進みました。

 

次回のブログでは、「龍王山城 南城」をお届けします。

 

 

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