速報で投稿しましたように、5/3(金)に近江の「六角氏」関連の近江三城に出かける計画を立てて、「長光寺城」「箕作山城」「布施山城」(いずれも、滋賀県東近江市)を目指しました。

 

この中で最も登城したかったのが「長光寺城」です。というのも、「織田信長」が「浅井長政」「朝倉義景」に挟まれ「金ケ崎の退口」で辛うじて「京」へ戻るも、本拠地であった「岐阜」に戻る為には「近江」を通らなければならず、南下してくる「長政」に「六角承禎」が呼応して、籠城して応戦したのが「柴田勝家」だったからです。

 

これには更に次のようなエピソードも残ります。「承禎」は水の手を抑えた為、「勝家」は城内に残る僅かな水が入っていた水瓶を割って配下の武家を鼓舞して戦いに勝利したという話が残り当城を「瓶割山(かめわりやま)城」とも呼ばれています。

 

しかしながら、速報で触れましたように、「登城口」が立入禁止となりガードと施錠によって、一歩たりとも入れないようになっていたのです。他の登城ルートもスマホで探すも、この道しかなく折角登城口まで歩いてきたのに断念せざるを得なかったのです。

 

「長光寺城」がある山の遠景 ↓

「日吉神社」の鳥居右横の道を上がって行くのが登城路 ↓

 

仕方なく、「近江鉄道」の「平田駅」まで戻り、時刻表で時間効率が良い「布施山城」へ先に行くことに予定変更しました。「八日市駅」で「貴生川行」に乗換え「大学前駅」で下車しました。当日は、この沿線の「日野駅」で「日野祭」が開催されていることもあり、2両の車両は満員でした。

 

近江鉄道「八日市行」電車 ↓

 

「大学駅前」で下車するとすぐに「布施山城」(滋賀県東近江市布施町)がある標高240.9mの山が良く解りました。手前は広々とした芝生広場を持つ「布施公園」で、GWでもあって団体でバーベキューをしたり、家族連れが多く見られました。

 

真正面で見た「布施山城」遠景 ↓

 

この登城口をなかなか探すことができず右往左往しましたが、約20分後にやっと「灌漑用池」の西側すぐ近くにあるのを見つけました。

 

布施山城」の歴史と城主について触れておきます。城主は「六角氏」の家臣の「布施三河守家」です。「布施家」にはもう一つ「大森城」を拠点とする「布施淡路守家」があり、本家筋は「布施三河守家」でした。

 

1563年に「観音寺城」内で主君「六角義治」によって「後藤氏父子」が殺害されると、家臣間で「六角氏」に対する不満が噴出し、「六角義賢・義治」親子は「観音寺城」から追放され、「布施両家」は「浅井氏」と通じるようになります。

 

その後「六角氏親子」は、「蒲生氏」の調停で「観音寺城」に復帰し、1568年に「織田信長」が「足利義昭」を奉じて上洛軍を起こすると「布施三河守」は「布施山城」に籠城しますが、「観音寺城」が落城すると「布施山城」も攻め落とされました。

 

布施山城」の縄張りは、「主郭」と「副郭」の「二郭」というシンプルではありますが、各々の周囲は「土塁」が囲い、「主郭」へは「坂桝形」となっていて「虎口」は石で造られた「埋門」が構えていたようです。

 

「主郭」南側に「搦手門」を設けてその南側の斜面には「竪堀」や「畝状竪堀」を設けて特に南西からの守りを固めています。

 

縄張図(現地に掲出) ↓

 

さて、「登城口」を見つけた時は、胸を撫で下ろし当日初めての「登城」にワクワク感が募りました。というのも「長光寺城」へは登城できなかったことから鬱憤が溜まっていたからです。

 

ここに詳細な「布施山城」の説明書きと、この辺りは「古墳群」であったとの説明もありました。

 

登山ルート絵図 ↓

「登城口」 ↓

 

入ってすぐ右手には「布施山第一号古墳」の石棺口が見える盛土がありました。更に、「矢穴」が付いた大きな岩が左手に置かれていましたが、戦国時代には「矢穴」で石を割る技術が無かったでしょうから、この岩は後年のモノだと思われますが何故ここにあるのか?でした。

 

「布施山第一号古墳」の石棺口 ↓

「矢穴」が残る岩 ↓

 

途中かなり、きつい山道もあり、ロープがアシストしてくれるている所もありました。所々には「城跡迄〇〇mじゃ」という表示と武者恰好した人形が励ましてくれます。

 

きつい山道 ↓

きつい山道 ↓

きつい山道(ロープがアシスト) ↓

「城跡まで100mじゃ」人形 ↓

 

「城跡まで150mじゃ」辺りから眺望が望めるようになり、当日の好天に恵まれた青空によって非常に気持ちが良かったです。また、道沿いには「シダ類」のクルっと巻いた若芽が真直ぐに何本も立つ姿とそれがほどけてまだ真新しいシダの開いた葉は綺麗な薄緑をしていました。

 

「布施溜池」が右下に見える ↓

「シダ類」の若芽 ↓

 

約25分位で辿り着いたのが「副郭」跡の「虎口」です。「副郭」跡周囲は高さが無い「土塁」が取巻いています。

 

「副郭」跡の「虎口」 ↓

「副郭」跡周囲の「土塁」 ↓

「副郭」跡 ↓

 

「副郭」跡の南東から「土塁」に沿って「坂桝形」になって右へ折れますと「主郭」跡の「虎口」に出ます。「虎口」は当時は石積みで「天板」に大きな「岩」を用いた「埋見門」になっていたようです。当時の「埋見門」の想像復元絵図が掲出されていました。また、「天板」と思われる平板の岩が「虎口」の手前に転がっていました。

 

「土塁」に沿って上がる ↓

「坂桝形」になって右へ折れる ↓

「埋見門」跡 ↓

当時の「埋見門」の復元想像絵図(現地に掲出) ↓

「埋見門」の「天板」 ↓

 

「虎口」の両脇にも大きめの石が転がっていて、復元絵図のように積まれていた石が散乱したもののようでした。

 

積まれていた石が散乱 ↓

積まれていた石が散乱 ↓

積まれていた石が散乱 ↓

 

「主郭」跡の周囲も「土塁」で囲われていて、「副郭」跡の「土塁」よりは高さがありました。西側には大きな穴が空いていて「池跡」との表示がありましたが「井戸跡」のようです。

 

「主郭」跡 ↓

「主郭」跡周囲の「土塁」 ↓

「主郭」跡周囲の「土塁」 ↓

大きな穴は「池跡(井戸跡)」 ↓

「主郭」跡からの遠景 ↓

 

「主郭」跡の南端には「搦手門」跡があって両脇の「土塁」は薄かったのですが、大きめの石が立っているのは何かの目印なのでしょうか。

 

「搦手門」跡 ↓

「搦手門」跡付近に立つ石 ↓

 

そこから少し南へ下ると、「竪堀」がありました。また、「畝状竪堀」が見られるとの事でしたので、しゃがんで目を凝らすと、木々の根元には「竪土塁」と「竪堀」が幾筋かが落ちていくのが見られました。

 

「竪堀」 ↓

「畝状竪堀」 ↓

「畝状竪堀」 ↓

「畝状竪堀」 ↓

「畝状竪堀」 ↓

 

下山は、急な道を上がってきた分慎重に下りなければなりませんでした。

 

1時間に1本しか電車がないので「大学前駅」のベンチに座って待ちました。ここからの乗車客は私1人でした。

 

「大学前駅」 ↓

近江鉄道「米原行」(大学駅前) ↓

 

次は、「箕作山城」に登城する為に「米原行」電車で「河辺の森駅」で下車します。

 

 

 

   

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