ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

「姫路城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けしていますが、数多く見られますので4回に分けてお届けしていて、本日は4回目最後です。

 

4回目は、「西の丸」跡の西側断崖絶壁際に築かれている「百間廊下(長局)」の「平櫓(一重櫓)」を掲載します。

 

姫路城(4)」(兵庫県姫路市

「姫路城」の歴史と城主については、「姫路城(1)」でも記載しましたが、再度掲載しておきます。

 

古く、1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、1346年には「山名持豊」が本格的な城に改修しますが、「応仁・文明の乱」で「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。

 

「羽柴秀吉」が「織田信長」に命じられた中国攻めに際して、1580年に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、秀吉によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。

 

「秀吉」の全国統一時には、「姫路城」の城主が、「秀吉」の縁故である「木下家定」が城主になりました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」で、この時代に大改修を加えて、天守群は現在の姿になりました。

 

「池田家」が鳥取城へ移封となった後は、譜代大名の「本多忠政」が入り、「三の丸」や「西の丸」が造営されます。

 

この造営にあたっては、「徳川秀忠」の娘であり、「豊臣秀頼」の正妻であった「千姫」が、「大坂夏の陣」で助け出された後に「本多忠政」の息子「忠刻(ただとき)」に嫁いだ時の「化粧料」10万石で、「西の丸」と共に「化粧櫓」等が建築されたと言われています。

 

当城は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後も、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入れ替わり立ち替わり入城しました。

 

「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに→「越前松平家」が入りますが「松平直矩」が幼少であったので「村上城」へ移封→替わりに「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」が入城した後はやっと藩主が定着しました。    

 

現在「姫路」の「平(一重)櫓」は非常に多いので、前述の通り4回に分けてお届けしていて今回が最終です。

 

「西の丸」跡の「百間廊下(長局)」は、前述の歴史と城主の所でも記載したように、「徳川家康」の孫娘「千姫」が城主「本多忠政」の嫡男「忠刻」と結婚する際の化粧料で造営された「西の丸」内に築かれた西側の断崖絶壁に沿って建つ多門櫓群と二重櫓で構成されています。

 

防御面から見ると「土塀」とは違って、「多門櫓」であることから強力な防御施設として使用されていたと思います。

 

現在残る「西の丸 百間廊下(長局)」は、二重櫓「ワの櫓」から入り、次のような配列となっています。

 

「ワの櫓」(二重櫓)-「レの渡櫓」(一重櫓)-「ヲの櫓」(二重櫓)-「タの渡櫓」(一重櫓)-「ルの櫓」(二重櫓)-「ヨの渡櫓」(一重櫓)-「ヌの櫓」(二重櫓)-「カの渡櫓」(一重櫓)-「化粧櫓」(一重・二重櫓)

 

左が「西の丸」(「名城を歩く 姫路城」PHP) ↓

 

「天守」から見下ろした「西の丸 百間廊下」は、「西の丸」をシッカリと防御する堅固な建物群として見えると同時に、白壁の建物がクネクネと曲がる城郭建造物群の美を感じさせるモノでもあります。

 

「天守」から見下ろした「西の丸 百間廊下」(レの渡櫓) ↓

「天守」から見下ろした「西の丸 百間廊下」(レの渡櫓、タの渡櫓、ヨの渡櫓、カの渡櫓、化粧櫓) ↓

 

レの渡櫓」は「百間廊下」の中でも長い「渡櫓」で途中北東方向に曲がり、外部への出入口を設けています。更に2階へ上がって廊下が左折れした突き当りにある「ヲの櫓」に繋がります。

 

「レの渡櫓」(出入口がある) ↓

「レの渡櫓」途中の外部への出入口 ↓

「レの渡櫓」が二階へ上がります ↓

「レの渡櫓」の2階から左へ折れます ↓

「レの渡櫓」が「ルの櫓(二重櫓)」に繋がります ↓

「ワの櫓(二重櫓)」と「レの渡櫓」(「好古園」から望む) ↓

 

タの渡櫓」は最も短く「ルの櫓」に繋がりその櫓の2階へあがって、最も長い「ヨの渡櫓」に繋がっていきます。「ヨの渡櫓」は途中の接続部分で左へ折れ曲がり、更に左へ「く」の字型の逆に折れ曲って「ㇴの櫓」に繋がります。

 

手前から「タの渡櫓」「ルの櫓(二重櫓)」「ヨの渡櫓」 ↓

「タの渡櫓」内の天井 ↓

「タの渡櫓」内の女中部屋(ここは板扉が無い) ↓

「ルの櫓(二重櫓)」から「ヨの渡櫓」 ↓

「ヨの渡櫓」(左へ折れる) ↓

「ヨの渡櫓」(奥に見えるのは、「ヨの渡櫓」の接続部) ↓

「ヨの渡櫓」(左へ折れて「ヌの櫓(二重櫓)」へ) ↓

 

廊下途中の西側の壁には「狭間」や「石落とし」が設けられていて、西側の断崖絶壁をよじ登ってくる武者への対応もキッチリと施されています。

 

「廊下」途中にある「狭間」 ↓

「廊下」途中にある腰の高さの「石落とし」 ↓

「廊下」途中にある腰の高さの「石落とし」 ↓

「廊下」の「高窓」 ↓

「廊下」途中にある「大扉」 ↓

 

ヨの渡櫓」の1/3辺りから「カの渡櫓」内にかけては、「奥女中部屋」が数か所造られていて敷居もあって個室対応になっています。

 

「ヨの渡櫓」の内部、右側は「女中部屋」 ↓

「奥女中部屋」の敷居 ↓

 

「ヲの櫓(二重櫓)」から「カの渡櫓」は直線で「化粧櫓」に繋がります。

 

「ヲの櫓(二重櫓)」と「カの渡櫓」 ↓

「化粧櫓」と廊下とのつなぎ目 ↓

 

化粧櫓」は一部が一重櫓で南側が二重になった櫓です。内部は、18畳・15畳・6畳の3室あって、天井は「杉柾(すぎまさ)張り」(木目が平行に通った杉材)、壁面は全て黒い木枠に紙を貼ったものを使用して技巧をこらした住宅様式になっています。

 

「化粧櫓」(右が一重部分、左が二重部分) ↓

「化粧櫓」(天守より見下ろす) ↓

「化粧櫓」の天井は「杉柾(すぎまさ)張り」 ↓

「化粧櫓」内部の部屋 ↓

 

以前内部は、「千姫」らしき人形が置かれていましたが、現在は有料で中を閲覧できるようになっています。また南側の外には「武者だまり」を設けています。

 

以前の「化粧櫓」内の部屋 ↓

「化粧櫓」南側の「武者だまり」 ↓

 

以上で、「姫路城」の「平櫓(一重櫓)」は終了です。4回に亘ってご覧いただき有難うございました。

 

次回も引き続き各お城にある「平櫓(一重櫓)」をお届けしていきますので、どうぞご覧ください。

 

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