今年最初の記事にて言い忘れていました。

元旦の朝起きたら、寝違えたのか首が回らなかった。

二日目も回らなんだ。

 

だから何はてなマーク

 

 

では、年末に令和3年攻城納めとして阿波国へ攻め入りました。

まずはその1城目をお届けいたします。

 

徳島県美馬市美馬町

阿波・重清城(しげきよじょう)

 

重清城は暦応2年(1339)に小笠原長親(石見小笠原第16代当主)によって築かれたと伝わる。天正6年(1577)正月に城主の小笠原長政(阿波小笠原氏)は、白地城の城主であった大西覚養(阿波の国人領主。安房三好氏の親族衆)の弟で長曾我部氏に人質として送られていた大西頼包と中鳥城主の久米刑馬(中島城主)によって謀殺されてしまう。大西頼包は讃岐国へ逃れていた兄の大西覚養を長宗我部氏に降らせ、重清城に迎えた。

天正7年(1579)長曾我部軍が攻め寄せ、十河存保(三好長慶の弟・実休の次男。秀吉の九州征伐の祭、軍艦・仙石権兵衛の無謀な策により戦死)は5千人の兵をもってこれに応戦したが敗れ、重清城は落城したメラメラ

 

重清城は吉野川中流域北岸、河岸段丘上に位置します。県道12号を美馬町八幡辺りで北方向へ上がって行った所に位置します。虎口前には案内板と標柱が建っています。駐車場はおませんがこの前の道幅が広く、路駐本陣とさせていただきました。

 

読んでください。長曾我部氏とは三度に及ぶ争奪戦が繰り広げられたようです。

 

 

縄張図を拡大。周囲を土塁に囲まれた単郭の城です。東側は横堀、北から西は自然地形の深い谷となり、南側は民家を装備(現在は民家ですが往時は横堀が南面にも延長してたようです)。主郭中央には小笠原神社が鎮座してます。

 

もう道路からこの二重堀が見えて興奮状態 おーっ!スゲー うねうねしてるしビックリマーク

 

 

二重堀は後ほどゆっくり見るとして説明板のある虎口から城内へ。縄張図を見ると往時は虎口に二重堀を渡る土橋が架かってたようす。

 

主郭 下草は刈られてそこそこ整備はされてます。

 

 

主郭を囲む土塁(東面)側面にビックリマーク 土塁にはアチコチと補強されてたであろう石が見られる。

 

 

土塁には乗る。ガッツリと横矢が掛かってます。

 

 

土塁(南面)。土塁の外側は民家あるので、コチラ側の土塁には乗らないようにする。

 

 

南西の虎口跡と思われる場所。けっして鉄馬車を入庫するための虎口ではない。

 

 

主郭中央に鎮座する荒れに任された小笠原神社の祠。ネットで過去の画像を見ると、社が建っていたらしが倒壊していて、見るも無残な姿の画像ばかり。元阿波守護であり城主を祀ってあるのに地元の民には余程慕われてないとみえるえーん

 

阿波重清城 撮っしもど~ビックリマーク

 

 

西面の土塁は東面と比べてウスウスなのは外側が深い谷になってるので高くする必要がないんでしょう。

 

西側の虎口跡。

 

 

主郭北隅にある井戸

 

 

しっかり石組みされており、底にはが湛えられています。覗き込んでも落ちることはないのでご安心ください。

 

北から見る東面の迫力ある土塁。

 

 

土塁の上から見る土塁。左側の二重堀を見て・・・なんじゃこれ~!?

 

 

なんじゃこれ~!? の部分。障子堀みたいになってるんすけどはてなマーク これは遺構なのかはてなマーク

 

 

これが障子堀なら凄い事なんですが、敵は簡単に直進して来るぞ。

 

 

別角度で。

 

 

二重堀を北から見て行きます。これより後方は建設会社の土地になっており、手前の土橋状の道も後世の改変かと思われます。

 

往時より浅くなってると思いますが、ちゃんと草刈りされてネコでも分かる明瞭さ!

 

 

障子堀のとこ。この部分だけが疑問である。検索しても何も出てこない。

 

 

それでは素晴らしいクネクネの二重堀の画像でお楽しみください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、この城の規模からして大群の長曾我部軍に攻められたらひとたまりもなかったのではなかろうか? 説明板には吉野川北岸に阿波方五千人とあるので、場外で長曾我部軍を迎え撃ったのでしょう。長曾我部四国では強し!

 

単郭の小じんまり城ですが、二重堀・土塁が保存状態良く、予測通りおもろい城跡でした。

 

 

 

 

21/12/30

 

 


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