2022年の最後の遠征です。
近場やから遠征とは呼ばない?
近征でよろしいかな?
しょーもな
滋賀県東近江市大森
近江・大森城(おおもりじょう)
近くに大森神社てのがありまして、その神社駐車場を本陣にして大森城登り口まで600mという看板あるのでそれに従い徒歩にて進みます。
ジミに600m歩く。時折農作業の軽鉄馬車が通るので、舗装道から夜露でぬかるんでる土の方へ避ける。靴が汚れる
ジミに600m進むと登り口が見えてきます。
なにかと賑やかな登り口。
もっと詳しく知りたい方はQRコードを読み撮ってください。ただここで読み撮るとネタバレになるのでお気を付けください。べつにええけど
ご覧の様に近江守護六角氏の有力家臣・布施氏が標高 約233mの尾根上に築いた山城です。右上の周辺地図と縄張図がちょっとややこしく、上の周辺図は北が下で、縄張図は北が上です。まぎらわしい
現在は北の左の枠外にいます。北西の尾根から城内へと侵攻していきます。
城内にこの木の人形がぎょうさん現れます。胸の字をつなげるとなんや文章になるようですが、特に気にしとりません。
手の込みようが半端ない ケースの中に「登城記念印」通称・御城印、実名・登城記念符が入ってます。おひとり様1枚登城記念にどうぞ。
登城前に休憩できますが、夜露でイスが湿ってるのでご注意を。
有難く整備された斜面の階段を登る。
階段を登りきった場所は大堀切かっ と狂喜乱舞しかけたが、ぜんぜん縄張図外なので城の遺構かどうかは不明。
大堀切右側はど派手な土塁に見えるんですがねぇ
大堀切のようなとこの城址看板に従い左の斜面を上がります。
ド根性の木 かなり以前に倒れて根がむき出しですが、倒れた幹から新しい枝が垂直に出て、まだ生きてると書かれてます。倒木の生命力恐るべし。
それよりも堀切らしき場所から上がったこの場所、削平されてるしこの後に出てくる細尾根と繋がってることから出郭(出曲輪)とちゃいますかね きっとそうです
ド根性の出郭らしきピークから東へ進軍。
おおっクネクネ土橋 と、狂喜乱舞。ただこれも縄張図外となっています。駄菓子!これは削り込んで細尾根にしてるでしょ? ほとんど土塁状にした土橋ですわ。
その土橋の斜面にウネウネが見えるんです。中央が畝でその両脇が竪堀になってますよ。略して畝掘。略さないで畝状竪堀というわしの説で通す。
少し移動して中央に大竪堀。両脇が土塁。特に右のはごっつ土塁。
むっちゃ気になるので土橋を戻ってウネウネを横から見る。写真では分かり難いので、見たい方は現地でお確かめください。
土橋(細尾根)の終点、縄張図はここから描かれてます。その終点に少し窪みがあるのは堀切。その先の階段を上がれば城内ということです。
堀切の部分。縄張図では右の堀切底を行けば西虎口へ通じてるが、御覧の如し通行止となってます。
堀切の左側は竪堀がカーブを描いて落ちていく
少し角度をずらして見ると、右に堀切からの 竪堀、竪土塁、竪堀、ごっつ土塁。これを遺構と言わずに何と言おうか
堀切から細尾根土橋を振り返って撮る。もうこれはクネクネさせて横矢入れてると言わずに南斗!言おうか
堀切から城内へ登る。
登った所は曲輪(主郭より北にある土塁を巡らせた曲輪)の土塁上になる、その虎口。
登った所から正面に見えるすり鉢状の曲輪。
登って来た虎口を見返す。直進できぬよう屈折させてます。
登ったところの右方向。背を向けてる看板が櫓台。その向こうに西虎口があります。
まずは土塁を北方向に進みます。
土塁北端に位置する北櫓台 櫓の丸太ベンチで休憩するもよし。せんけど
櫓台看板下の武将名は大森城に関連する武将名が記されてます。出羽の大大名である最上義光が死去後にお家騒動(最上騒動)が起こり、元和8年(1622)最上氏はそれを理由に改易され、近江国大森に1万石にデラ下がっちまったんです 義次さんとはその大森陣屋時代の将のようです。最上家の系図を探してみたが義次さんは誰の系統が分からなかった。
北櫓台から八日市の風景。
土塁からの眺望。向こうの冠雪してるのは伊吹山かな?
北櫓台から進むと土塁手前に通路らしき凹が。
竪堀状になってる虎口。北虎口
少し下りてみた。人形がいた。
更に土塁を進む。土塁上で休憩もできる。せんけど
土塁の東側まで回り込んで来ました。
これ以上進むと主郭に突入してまう。主郭突入はまだ早いので取り合えず戻ります。
取り合えず土塁を振り返る。土塁の看板はぶっ倒れていたので、わしが立てかけかけた。
土塁東側からすり鉢状曲輪へ突入します。
主郭北側に位置する城内最大級の曲輪へと乱入しました。
曲輪からの切岸上は主郭部がございます。
とりあえずここで(後編)へ続いてしまいます。
ほな、後編でお会いしましょう。
22/12/28