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以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

 

《第Ⅱ期》 603-611

  • 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。

《第Ⅲ期》 612-622

  • 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。厩戸皇子、『維摩経義疏』の著述開始。
  • 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横大道」を開鑿。『維摩経義疏』を完成。
  • 614年 厩戸皇子、『法華経義疏』の著述開始。6月、犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。
  • 615年 『法華経義疏』を完成。
  • 620年 厩戸皇子、蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂(開始?)。
  • 622年2月 没。

 

 

 

【40】《第Ⅱ期》 607年~ ――河内の溜池

 

 

 フィールドワークを続けよう。

 

 607年の記事に「河内国」として、「戸苅(とかり)池」「依網(よさみ)池」の記載がある。まず「戸苅池」↓。小規模な溜池だ。「高市池」ほど小さくはないが、「肩岡池」よりは小さいかもしれない。地元の人が釣りをしていた。魚がいるということは、深さはある程度あるのだろう。

 

 谷地(やち)の谷口に堤防を築いて堰き止めている。奥の方にも谷地は続いており、現在、「黒須池」という、ここよりも小さな池がある。しかし、一般的に言って、飛鳥時代の溜池は当時まだ堤防が低く、水が溜まっているのは谷口近くだけで、谷地の奥は湿原のままだったようだ。創建時の「戸苅池」も、現在と同じくらいの大きさだったのではないか。

 

 現在の名称は「戸刈池」。『河内志』〔1735-36 刊行〕に「古市郡戸苅池。〔…〕在蔵内村。広三百畝。」とあって、現・羽曳野市蔵之内のこの池にまちがえないようだ。土地柄については、近鉄線「喜志」駅に近い。歩いてみると、意外な近さだ。気づかずに駅を通り過ぎてしまった。

 

 喜志(きし)は、渡来系「吉士(きし)」氏の勢力地だったという。「吉士」と聞いて思い出さないだろうか? ――「吉士磐金」‥‥半島の言語に堪能な官人で、「任那のミツギモノを持って来い」という・ヤマト王権の無茶な要求を携えて、新羅に何度も交渉に行っている。よく、文句も言わずに使いの役目をしたものだと思うが、朝廷と関わりの深い人だったにちがいない。摂政の厩戸皇子とも関わりがあっただろう。

 

 藤井寺市の「野中寺」(⇒(11)《第Ⅲ期》すり臼と仮面劇とミロク仏【27】)も、ここから近い。聖徳太子・「上宮王家」と関わりの深い場所だったと言えるだろう。

 

 

戸苅池」。大阪府羽曳野市蔵之内。

 

 

 「依網(よさみ)」は、もっと大阪市に近い低地‥‥天王寺から地下鉄御堂筋線で4駅目、「あびこ」駅の近くにある。江戸時代までは広大な溜池だったらしい。1704年の大和川付け替え工事(大阪城の北で淀川に合流していた大和川を、現在の流路に移動させた)で、池は新大和川に分断され、土砂の堆積と埋め立てで縮小していった。残っていた小池も、1970年代に消滅した。

 

 しかし、この池に関する研究論文によると、もとから、おそらく古代から、広大な貯水池だったと思われる。

 

 阪南高校のグランドに接して「大依羅(よさみ)神社」があり、神社の南側参道の鳥居の前に、「依網池址」の石碑が建っている↓。宅地と、新大和川の堤防のあいだが帯状の細長い空き地になっていて、雑草が茂っているが、そこも「依網池」の一部だったのだろう。訪れたのが正午近かったので、校舎全体がごったがえすような騒がしさだ。午前中の終業チャイムが鳴った。こんな場所を人が歩くのは、めずらしいのだろうか。ネットの向こうを歩いている変なおっさんを指さして、4階のベランダで何か叫んでいる。「よさみ池」などと言っても、知っている生徒はほとんどいないにちがいない。

 

 考証については、中世の絵図などもあり、古代からの史料が比較的豊富なので、ここが『日本書紀』の「依網池」であることに問題はない。『河内志』には「丹北郡池内池、在池内村、広三百余畝。或曰、依羅池。」とある。「三百余畝」は新大和川開鑿で縮小した後の面積。

 

 

依網池」跡の碑。大阪市住吉区庭井。大和川堤防から 100m。

 

大依羅神社、南参道。

 

 

 近くにある「太子ゆかりの寺」と言えば「四天王寺」だが、創建時の「四天王寺」は、現在の大阪城南濠に接する「難波宮跡」↓の位置にあった。ここからはかなり距離がある。むしろ、物部守屋の本拠地に建てられたという「大聖勝軍寺」のほうが、ここに近い(↑トップ画像「推古朝の溜池造成」参照)。八尾市の「大聖勝軍寺」が守屋の本拠で、没収された守屋の所領が「四天王寺」に「施入」された(⇒前回【38】参照)とすると、この「依網池」を含む広大な地域が、「上宮王家」の「屯倉」だったのかもしれない。

 

 

 「難波宮」跡。前期難波宮・朝堂院西回廊。

この難波宮跡から、6世紀末の軒丸瓦が出土しており、

593年に着工した「四天王寺」のものと推定されている。


 

 ↓大和川の堤防に上がってみた。遠方に国道28号「吾彦大橋」が見える。橋の左岸に、「狭山池」から流れてくる「西除川」が合流しており、「依網池」は、そのあたりまで広がっていた。大和川(新大和川)ができる前の「依網池」は、「西除川」の水を貯めていたらしい。

 

 

大和川。下流を望む。「依網池」は、遠方の橋の向うまで広がっていた。

 

 

 

【41】《第Ⅲ期》 613年~ ――「腋上池」

 

 

 『日本書紀』607年の記事にある溜池は、「依網池」と「菅原池」を除けば、みな比較的小規模だった。しかし、614年記事の3件の溜池は、より大規模である(可能性がある。――溜池の所在地について諸説あるので)。この間の土木技術の進歩と経験の蓄積を見ることができる。

 

 まず、「腋上池」。JR和歌山線に「腋上(わきがみ)」という駅があるが、「腋上池」のあった場所として推定されているのは、その手前の「玉手」駅・「御所(ごせ)」駅の南に広がる葛城・金剛山麓の盆地帯だ。唱えられている候補地は2つある。ひとつは、↓金剛山・裾野斜面の「井戸」集落。『大和志』に「葛上郡腋上池、在井戸村」とある。いま一つは、玉手駅南の低地にある「池之内」集落付近。『大日本地名辞書』の説だ。

 

 この葛城(かつらぎ)川沿いに南北に長い盆地は、古くは「葛城氏」の勢力圏だった。「葛城氏」は、『記紀』の伝承によれば、応神仁徳の時代にはヤマト王権のなかで大王家(天皇家)と並ぶ勢力を持ったが、れいの安康天皇暗殺事件にからんで失脚し、雄略に亡ぼされた。「葛城氏」は渡来人と関わりが深く、また、蘇我氏を葛城氏の末裔とする説もある。

 

 『日本書紀』推古32年〔624年〕十月条には、蘇我馬子が、「葛城県は、元(もと)臣が本居なり。故、其の県に因りて姓名を為せり。」と上奏して、葛城県を蘇我氏の「封県」として「常(ときは)に」もらいたいと願い出たが、推古に拒否されたとある。『上宮聖徳法王帝説』『聖徳太子伝暦』は、馬子を「葛木臣」「蘇我葛木臣」とも称している。『書紀』皇極元年是歳条には、蘇我蝦夷が蘇我氏の祖廟を「葛城の高宮」に建てた、とある。その場所は、『和名類聚抄』によれば葛城郡高宮郷であり、↓現在の「森脇・宮戸」のあたり。

 

 蘇我氏が葛城氏の末裔でないとしても、これらの記事から見て、7世紀に、この葛城盆地に勢力を持っていたことはまちがえないようだ。

 

 ところで、推古はなぜ「封県」を拒否したのか? この地域は、蘇我氏のみならず大王家にとっても重要な地であったからではないか。「井戸」から南西へ、金剛山の斜面を昇ったところに「高天(たかま)」という集落があり、「高天彦神社」がある。ここは、『古事記』神話の舞台「高天原(たかあまはら)」とされる。少なくとも平安時代以後は、「高天原」とはこの場所だと信じられてきた(⇒:かむながらのみち「高天原」)。

 

 

御所市の葛城川流域。「腋上池」の跡地探し。

 

 

 しかしいま、目的は、溜池の跡地の候補を調査することだ。机上の検討だけでなく、現地を踏んで足で知る地形、眼で知る景観も重要だ。まず、「井戸」へ行ってみよう。

 

 


遠方(御所幸町付近)から「井戸」方面を望む。

金剛山のテラス状斜面に集落が散らばる。


井戸」集落へ。葛城川沿いの「小殿」バス停で降りて登って行く。

勾配は、かなりきつい。「藤原池」の斜面よりも急だ。
 

 

 フィールドワークは、徒歩か自転車(原動機付以外)がよい。前回に訪れた「栗隈の大溝」は、駅から坂を下って行ったが、谷間の最低点に下りたあと、ゆるやかな坂を昇った微高地上に「大溝」(古川)はあった。じつは、行きには微高地の坂がわからなかった。平坦な低地を歩いていると思っていたのだ。同じ道を帰る時にはじめて、わずかな勾配があるのがわかった。これなど、自動車やオートバイで行ったら絶対に分からなかっただろう(地形図にも、10m未満の等高線は記されないのが普通だ)。微高地上と知ったことで、灌漑水路(ないし、灌漑をふくむ多目的)との想定が誤りでないことを確信した。

 

 「藤原池」でも思ったが、こういう勾配のきつい斜面は、溜池には不向きだろう。ある程度平らでなくては水は溜まらない。もちろん、絶対に溜池を作れないというわけではない。現に、小さな溜池は今でもある↓。

 

 

井戸」へ登る途中で見かけた溜池。田んぼを1枚つぶして浅い池にしている。
 

井戸」集落から御所方面を見下ろす。

 

 

 ↓「高木神社」。ここが「井戸」集落の中心部らしい。「井戸会館」という公民館が併設されている。「高木神」を祀る「高天彦神社」とつながり(分霊?)がある(⇒:かむながらのみち「高木神社」)。

 

 

 

 

 

 ↑この巨樹はムクノキだそうだ。2018年の写真と比べると元気になっているようで、ほっとした。

 

 集落の中をさらに登って行くと、「葛城古道」の道標↓がある。「名柄(長柄)」は、「葛城氏」の始祖・襲津彦(そつひこ)の居住地とされる場所。この道をまっすぐに登ってゆくと、「高天彦神社」に至る。「高天原」だ。

 

 

 

 

 「井戸」は、古い由緒があるということでは満点だろう。「葛城氏」したがって蘇我氏とも、『古事記』神話の主体である大王家とも、ゆかりが深い。しかし、溜池の場所としてはどうだろうか? 斜面と段差の多い地形は、「腋上池」の候補地としては疑問に思わざるをえない。

 

 

池之内」集落。

 

 

 

【42】613年~の溜池 ――「腋上池」の第2候補地

 

 

 つぎの候補地は「池之内」。池の「内」‥つまり、池の底だった場所に、池が干上がって耕地化されたあとで形成された集落ではないか? そんなことが考えられる。まわりは川沿いの広い平地で、水を貯めるには問題のない地形だ。平地の中央を、小さな川が北流している。地図には「満願寺川支流」とある。

 

 

池之内」付近から、南西方を望む。ソーラーパネルの手前に谷があり、

満願寺川支流」が右へ流れている。平野全体は、北(右・手前)に

向かって緩く傾斜している。

 

谷間(満願寺川支流)部分の拡大。

 

 

満願寺川支流」。↑上の緩傾斜地から流れ出ている。

 

 

 この「池之内」をふくむ「葛上郡桑原郷」は、『日本書紀』によると、西隣りの「高宮」(現・森脇・宮戸)とともに、渡来人の居住地だった(神功皇后摂政5年条:葛城襲津彦が捕虜として連れ帰った新羅人の子孫だとする)。

 

 また、すぐ北側の「御所実業高校」正門内には、「孝昭天皇・腋上池心宮・址」の石碑がある↓。最近まで、隣家の畑の中にあってフェンス越しにしか見られなかったが、現在は高校敷地内に移設されている。「腋上池心宮」という名称は、『日本書紀』編纂時か、遠くない以前に、ここが「腋上池」の傍だったことを示していないだろうか? 

 

 

 

  御所市玉手、「大月池」。「御所実業高校」の北に接する。

  ここは「腋上池」の一部だったか? 灌漑域の耕地だったか?

 

 

 以上から、「腋上池」の所在地は、「高天原」斜面の「井戸」集落よりも、葛城川低地の「池之内」付近の信憑性が高いと思われた。

 

 

 

【43】613年~の溜池 ――「畝傍池」

 

 

 「畝傍池」。ここだけは、ちょっとお手上げです。ネットで検索すると、橿原神宮境内にある「深田池」が『日本書紀』推古21年条の「畝傍池」だと、異口同音に書いてあるのに、根拠がまったく見当たらないのです。しかも、「奈良時代に建造された」などと矛盾することが書いてあったりするww

 

 家永他校注『日本書紀』の註には、「高市郡畝傍にあったのであろう」としか書いてありません。『大和志』『大日本地名辞書』『和名類聚抄』等にも、「畝傍池」についての言及はないようです。「高市郡畝傍町」は、1956年に橿原市に合併した町で、かなり広い範囲だったようですが、明治時代に畝傍村ほか 19か村の合併によって成立しています。「深田池」は現在、大半が橿原市西池尻町に属し、一部は同市畝傍町と久米町に属しています。これらは、明治の合併以前は、池尻村、畝傍村、久米村だったのかもしれません。池尻村所属は評価できます。地名になっているということは、古くから池があったことを示すからです。

 

 なるほど、深田池だとしても矛盾はないのですが、しかし、なぜ深田池だと言えるのか ?!

 

 畝傍山の周囲には、深田池のほかにも溜池はたくさんあるのに、なぜ深田池が「畝傍池」なのか?‥‥ 深田池の建造を「奈良時代」とする根拠は何なのか?‥‥ この2点の疑問が解消しません。

 

 なお、橿原神宮は、明治時代に新たに設けられた聖所で、東京の明治神宮と同じようなものですから、歴史的な根拠はありません。橿原神宮のHPにも、深田池の建造年代や『日本書紀』について、言及はありませんでした。

 

 ともかく、「深田池」説に異論はまったく無い(研究されていないから?)ので、深田池へ行ってみることにします。

 

 

 

 

 西側――堰堤のある側から境内に入りました。見たところ、大変広いですが、↑これはまだ3分の2です。遠くに見える木橋の向こうまで池がつづいています。

 

 堰堤は西側だけですから、‥起伏はゆるいですが、やはり谷地を堰き止めたダム式の溜池と言えます。

 

 

 

 

 ↑木橋の上から、先を撮しました。広いだけあって、鳥もたくさん飛んできます。各種の鷺、鴨、鵜、オシドリ、カイツブリなどがいるそうです。

 

 「上宮王家」、朝廷、蘇我氏との関わりは言うまでもないでしょう。ここは飛鳥に近いですから。いちばん近いスポットは、聖徳ゆかりの「葛木寺」だという説のある「和田廃寺」址〔↑トップ画像の地図参照〕。

 

 

 

【44】613年~の溜池 ――「和珥池」

 

 

 「和珥(わに)」の所在地は、説が二つあります。しかも、今度は離れています。「わに」という渡来人由来の地名は、近畿のあちこちにあるからだと思います。

 

 一説は、『大和志』の見解で、「添上郡和珥池、在池田村。一名光大寺池。広一千五百畝」とあります。そうすると、池田村、つまり現・奈良市池田町にある「広大寺池」が該当します。JR桜井線「帯解(おびとけ)」駅すぐです。

 

 いま一説は、『河内志』で、近鉄・喜志駅のそばにある「粟ヶ池」に比定します。上記《第Ⅱ期》の「戸苅池」からも近いです。

 

 つまり、江戸幕府の公式地誌『五畿内誌』の見解が、国同士で我田引水して争っているわけで、これを判定するのは、たいへん難しいですw。学者は、どちらかといえば「大和説」が多いようです。

 

 「広大寺池」のほうから行ってみましょう。

 

 

奈良市池田町「広大寺池」。

 

 

 この池も広いですね。右(西側)の一方のみに堰堤があります。したがって、やはり堰き止め型と言ってよいでしょう。ただ、ダム式の谷地堰き止めとは違って、堰堤は長く、池の奥行き(写真の左右)は狭いです。

 

 近くに「上宮王家」や朝廷(大王家)と地域とのかかわりを示すものが何もない〔帯解駅の東方に、飛鳥時代創建と推定される「横井廃寺」址がある。⇒:「大和の塔跡」〕。まぁその点は、「菅原池」(蛙股池)も同じですが。

 

 つぎに、河内の「粟ヶ池」。平地の・とても広い池です。南側堰堤が最近広幅に改められて公園になっているので、そこから撮ります。〔↓いちばん下の地図参照〕

 

 

粟ヶ池」。南側堰堤の岸から北方を望む。

 

 

 中央の道路橋が視界をさえぎっているので、橋の上まで行って、もう1枚撮ります↓。

 

 

粟ヶ池」。中央道路橋から、北側堰堤を望む。

 

 

 白い建物は市民会館。その左に北側の堰堤が見えます。この池は、四方を堰堤に囲まれているのです。しかも水深は浅くて 3~4m〔角川地名辞典〕。こういう池を「皿池」と云うそうです。谷の出口を堰き止めるのでなく、平地に堤防を築いて囲い、中に水を貯める方式です。「粟ヶ池」は、典型的な「皿池」だと言われてきました。

 

 ところが、最近の発掘調査で、建造・改修史の興味深い事情が明らかになってきました。ウィキペディアの記述が詳しく、参考になります。それによると、中央橋梁の橋げた下の確認調査で、「粟ヶ池」の底には、建造以前にあった開析谷が埋もれていることが明らかになりました。

 

 喜志駅から「粟ヶ池」にかけて歩き回ってみればわかりますが、このへんの道は坂が多く、地図に等高線のない複雑な起伏がみられます。「粟ヶ池」付近は、おおむね南に高く、北東に低いゆるやかな斜面をなしています。これは、石川左岸の河岸段丘で、段丘に刻まれた南北方向の開析谷が、「粟ヶ池」の中央を貫いて北側に開いている。その谷口を北側の堤防で塞いだのが、「粟ヶ池」の最初の建造だったと推定されます。つまり、「粟ヶ池」は、現在は「皿池」ですが、創建時には谷地を堰き止めたダム池だったことになります。

 

 この推定に深く関わるのが、近世史料『河内志』と『河内名所図会』の記事です。それらは、『日本書紀』の「和珥池(和爾池)」は「喜志村にあり」として「粟ヶ池」を載せるだけでなく、池の西にある「美具久留御魂(みぐくるみたま)神社」↓は「一名、和爾神社」とも称するとしています(古代史料[続日本後紀?]には、850年に「河内国和爾神」の神階を従五位に進めたとの記事がある)。「美具久留御魂神社」の参道は、「粟ヶ池」北堤を通っており、創建時の「粟ヶ池」すなわち「和珥池(和爾池)」の存立にかかわる神社であったことがわかるのです。

 

 

美具久留御魂神社」。富田林市宮町。

大国主命の荒御魂「美具久留御魂」(大蛇。洪水の神?)を鎮めるために

崇神天皇が創建したと社伝に云う。左殿に「天水分神」、

右殿に「国水分神」を祀り、水に関わる神であることはまちがえがない。

 

 

 周辺における古代「大溝」の発掘調査から、「粟ヶ池」の築造は奈良時代である可能性が高いとされていますが、奈良時代の遺物の出土は、その時点で「大溝」と貯水池が存在したことを示すものであって、創建がそれ以前に遡ることを否定するものではありません。『日本書紀』に記された創建時の「粟ヶ池(和珥池)」は、河岸段丘に刻まれた開析谷を、北側の谷口で堰き止めたダム池(谷池)で、堰堤の築造に関わった祭祀のあとが「美具久留御魂神社」であり、創建時の堰堤は、現在の「粟ヶ池」北堤の下に埋もれていると想像されます。

 

 その後、池が拡大し水位が上昇したことにより、13世紀には東西の堤防が築かれ、やがて四方を堰堤で囲まれた現在の「粟ヶ池」になったと考えられています。

 

 ただ、なにぶんにも、北堤の発掘調査がまだ行われていないので、「粟ヶ池」と「和珥池」の関係についても、解明されるのは将来のこととなります。

 

 「粟ヶ池」は、「上宮王家」・朝廷との関わりは「戸苅池」に同じ。渡来人「吉士氏」の勢力地であり、「野中寺」「叡福寺」など “太子勢力圏” の範囲内に位置します。

 

 さて、既述のように学者の間では「大和説」の支持が多く、「粟ヶ池」の発掘報告書も、「和珥池」については「大和説」に立っているほどです。しかし、以上のフィールドワークをしてみて、私はどちらかといえば、「河内説」のほうに信憑性があるのではないかと思いました。もしかして文献学者には、大和時代、飛鳥時代といえばヤマト・飛鳥が舞台、という先入観があるのではないでしょうか?

 

 ともかく、断定は困難です。「和珥池」については、「粟ヶ池」北堤の発掘調査が行われるまで、想像以上のことは言えないと思います。

 

 

 

 

 以上、『日本書紀』607年,614年記載の溜池をフィールドワークしてきましたが、当時建造された溜池は、もちろんこれらだけではありません。『書紀』に記されていない大きなため池で、発掘調査なども行われて解明が進んでいる河内の「狭山池」、大和の「磐余池」などがあります。

 

 「上宮王家」にかかわる範囲でも、『聖徳太子伝暦』には「山田池」「三立池」「鎌池」が記されています。「山田池」は枚方市、「鎌池」は吹田市にある同名の池がそれではないかと思われるのですが、この3池については、現在のところ不明というほかありません。

 

 『書紀』推古紀記載の池についても、仁徳天皇紀などにも重複して建造記事のあるものが多く、それらの建造年代の関係は一考の余地があります。

 

 次回は、これら『日本書紀』記載の溜池について、データをまとめて比較検討するとともに、「狭山池」「磐余池」の発掘調査から解明された最新の考古学的知見を参照したいと思います。

 

 

 

 

 

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