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東京 日本橋 1919年.


 

 






【19】夏目漱石『明暗』に見る「立場主義」(承前)

 

 「第2章」のつづき。安富さんの本からは道草になりますが、まず、大正時代の小説『明暗』に現れた「立場」の用例を分析してみます。


 

夏目漱石『明暗』の あらすじ
 

 東京の会社員・津田由雄は、京都にいる父の知己・岡本家で育てられていた岡本の姪・延子と知り合い、勤め先の上司・吉川の媒酌で結婚したが、新婚の夫婦ともに浪費がちだった。ために、由雄は、資産家である京都の父に無心をすることが多かった。しかし、吝嗇な父は、勤めに出て所帯を持った以上自分でやりくりをせよと言って難渋した。そこで、由雄の妹・秀子の夫であるがあいだに入って調停し、京都の父から由雄に毎月送金し、由雄は半年ごとの賞与で、それを幾分か返済するという案を、父子に約束させた。ところが、由雄は返済の約束を守らなかったので、父は、急な出費にかこつけて送金を断ってきた。
 

 折悪しく、津田由雄は、持病である痔の手術費用が必要になり、窮地に立たされた。
 

 父と兄のあいだで板挟みになった妹・秀子は、やむなく、費用を工面して津田の入院先の医院へ持参する。ところが、津田の妻・延子も、岡本から調達した小切手を持参し、秀子が病床の津田と怒鳴り合う形で、秀子と延子の衝突が起きる。
 

 津田夫妻は、上司・吉川の形式的な媒酌はありながらも、本人同士が惚れ合って結婚した夫婦だった。延子は津田に愛されようと努力するが、夫婦関係はどこかぎくしゃくしている。津田は、延子と知り合う前に、吉川夫人に紹介された清子という女性を愛しており、吉川夫人は、津田と清子を結婚させようとして、世話を焼いていた。ところが、清子は突然、関という実業家と結婚してしまったので、津田は、その後に知り合った延子と結婚した経緯があった。清子の結婚以来、津田は清子と会うことはなかったが、清子との過去を延子には隠していた。吉川夫人は、津田夫妻と関清子それぞれの、その後の事情を知悉している。
 

 津田は、延子と結婚しながらも、心のうちでは清子に未練を残していると察した吉川夫人は、津田の入院を奇貨として、津田を、清子に再会させることを画策する。清子が、流産後の療養のために滞在している温泉場を、津田に教え、見舞いの品を持たせて、単身で送り込む。
 

 津田は、手術後の療養名目で温泉場に向かうが、いっしょに行きたいと言う延子に、適当な理由をつけて断念させるのに苦労する。温泉旅館で清子を認めた津田は、吉川夫人から預かった見舞いの果物かごを差し入れて、面会を申し出る。翌朝、清子は津田を自室に招じ入れるが、内密な話におよぶ前に、小説は断簡(漱石の死去で中断)している。
 

 他方、津田には、いまは文筆家の叔父・藤井のもとに出入りして筆耕や使い走りをして生活している小林という旧友がいる。小林の妹・お金(きん)も藤井家で女中をしており、藤井家は、お金の嫁ぎ先の世話と婚姻費用の工面までしてやらねばならないほど、小林は貧困な「下層階級」である。小林は、ドストエフスキーを好み、貧乏画家の青年・と付き合いがあり、しかも普段、思想警察の密偵に尾行されている。小林は内地で食いつぶしたために、藤井の紹介で植民地朝鮮に渡る予定であり、そのために津田の古外套を貰いに行った留守宅で、延子に謎かけをして津田の「過去の女」の存在をほのめかす。ところが、津田は、そうした狡猾漢の小林を軽蔑しながらも彼と交友し、岡本が都合してくれた入院費 30円(現在価値 約12万円)を、無造作に小林に遣(や)ってしまう。うち 20円を小林は、津田の眼の前でに遣ってしまう。



 『明暗』が書かれたのは 1916年で、世界はロシア革命前夜、第1次大戦の真最中ですが、「世紀末」のふんいきというか、…登場人物たちはみな、どこか虚無的です。ドストエフスキーに心酔する小林だけでなく、津田夫妻はじめ「上流階級」に属する人びとの行動にも、退廃した世相は影をおとしています。
 

 登場人物のなかでは、津田夫妻とそれぞれの親族、藤井家、岡本家、吉川家はみな「上流階級」――おそらく士族――です。彼らには「家」の束縛と矜持があり、しかしその「家」は崩れかけています。その一方で、社会の「階級」格差は、くっきりとしており、新興「成金(なりきん)」の台頭にはまだ間があります。小林と青年画家・は、田舎出の「下層階級」と思われますが、「上流階級」に対する仇敵意識を醸成しつつあります。
 

 「立場」という語が、この小説には 17回出てきます。「立場」の出現頻度をヒストグラムにしてみると、↓つぎのようになります。

 



 

 見たところ、「立場」は万遍なく使われているのではなく、かたまって出現している場所があるようです。展開する場面に応じて、「立場」という語の使われやすさに濃淡があるのではないか――と考えられます。そこで、「立場」が集中しているグループを2つ、ピックアップしてみます:

 




 


【20】《A群》――「家」主義の弛緩から「立場」が出現

 

 まず、《A群》の最初の用例:

 

『「どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」
 「あるかも知れませんね」
 「ああ見えてなかなか淡泊でないからね」
 お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯
(うけが)わない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法(ぶさほう)な男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。
 「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」』

『明暗』§84. 
 
 

 ↑津田の妻・延子(お延)と小林の会話です。小林は、津田夫妻に対しては部外者、しかも津田家とは異なって「下層階級」。だから小林には、他人夫婦の、まして「上層階級」の夫婦の、威厳と名誉を侵してはならないという “掟” があります。それが、小林の「立場」です。ところが、小林は、「自分の立場を心得ない」「不作法な」言動を繰り返します。お延が知らない津田の秘密を、自分は知っていると嘯(うそぶ)いて、お延を脅迫する。秘密とは女性関係だと匂わせます。
 

 ここでの「立場」とは、親族と外部者との関係です。それに、階級格差が重なっています。たとえば、津田家には「お時」という女中がいますが、「お時」は、小林のような失礼なことを延子に言ったりはしません。もしも、旦那さんの女性関係を知ってしまったという場合には、黙っているか、あるいは、遠慮がちにそっと、延子に耳打ちするでしょう。小林のように、思わせぶって、ことさらにお延の疑心を掻き立てたり、自尊心を傷つけたりは絶対にしない。つまり、お時は「立場」を「心得」ているのです。
 

 ↓つぎの用例では、津田夫妻に対する、津田の妹・秀子の「立場」が問題になっています。

 

『こういう世帯染(しょたいじ)みた眼で兄夫婦〔お延、津田〕を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。〔…〕彼女はそれでもなるべく兄〔津田〕と衝突する機会を避けるようにしていた。ことに嫂(あによめ)に気下味(きまず)い事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生から慎(つつし)んでいた。しかし腹の中はむしろ反対であった。〔…〕兄がもしあれほど派手好(はでず)きな女〔お延〕と結婚しなかったならばという気が、始終(しじゅう)胸の底にあった。〔…〕
 お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。兄夫婦〔お延、津田〕から煙(けむ)たがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。第一には二人が厭(いや)がるからなお改めないのであった。自分の立場を,〔津田夫妻が〕厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭(いや)がられても兄のためだと思えば構(かま)わないという主張であった。第三は単に派手好なお延が嫌(きらい)だという一点に纏(まと)められてしまわなければならなかった。』

『明暗』§91. 
 
 

 「立場」という語が3回出てきますが、それぞれ意味がやや異なっています。
 

 堀秀子の場合には、夫婦2人で所帯を営んでいる津田夫妻とは異なって、夫・堀の母、弟、妹、その他の親類、および夫婦のあいだの2人の子供と同居している大所帯です。秀子は、妻である前に、母として、嫁として、毎日の家事に忙殺されていますから、結婚後4年、早くも所帯じみています。しぜん、秀子から見れば「派手好き」な延子に対しても、それを許している兄に対しても、秀子は批判したくなりますが、兄夫婦に対する妹の「立場」では、それにもおのずから限度があるのです。
 

 1つ目の用例――秀子が「よく承知しているつもりでい」る自分の「立場」とは、そういう意味での彼女の分限、つまり、親族関係上守るべき “掟” です。前出の §84 の小林とは違って、秀子は、兄、叔父(藤井家)、両親(京都の父)をもふくむ・大きな「家」の一員であり、「上流階級」に属します。それでも、兄らとは、たがいに所帯を持って独立している以上、実の兄妹間にも守るべき礼儀があるのです(たとえば、秀子は、兄夫婦の浪費は妻・延子のせいだと思っていても、延子に直接意見することは慎まなければならない。直接非難する相手は、兄でなければならないのです)。秀子自身は、そういう自分の「立場」を心得ているつもりでしたが、兄夫婦から見れば、妹の明け透けな言動は不愉快であり、夫婦の名誉感情を傷つけるものであったのです。
 

 2つ目の「立場」:――「立場を改める」という述語句は、ここをふくめて2回出てきます。その意味は、「本来の立場に立ち返る」という意味ではないかと思います。自分の「立場」が命ずる本来の “掟” を思い出して、自分の言動や態度を「改める」「正す」ということです。現在の言い方で言えば、「居住まいを正す」というニュアンスでしょう。
 

 3つ目の「立場」は、それらとは逆に、津田夫妻のほうから見た妹の立場、つまり、実妹として、夫婦の問題にある程度介入してくることが許される、――また介入できるだけの情報を握っている――親族関係上の位置です。そういう秀子の「立場」は、津田夫妻にとっては迷惑であり、不愉快に思われるのです。
 

 つまり、ここでは、小林の場合とは異なって、大きな「家」の中での小家族の「立場」が問題になっています。大きな「家」という枠が崩れてきて、その中にいる個人――といっても純然たる個人ではなく小家族――が自己主張を始めているのです。

 



 

『「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。事件以後何度となく彼女によって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。そうしてその立場を他(ひと)からも認めて貰いたかったのである。
 「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」
〔…〕
 学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を翻(ひる)がえさせたものは堀の力であった。津田から頼まれて、また無雑作にそれを引き受けた堀は、物価の騰貴、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、いろいろ都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説き落としたのである。その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分を割(さ)いて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。
 その案の成立と共に責任のできた彼〔堀〕はまた至極
(しごく)呑気な男であった。約束の履行などという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行の時期が来た時分には、もうそれを忘れていた。詰責(きっせき)に近い手紙を津田の父から受取った彼は、ほとんどこの事件を念頭においていなかっただけに、驚ろかされた。〔…〕津田の父はいつまで経っても彼〔堀〕を責任者扱いにした。〔…〕
 「そりゃ良人(うち)〔堀〕だって兄さんに頼まれて、口は利(き)いたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。〔…〕万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしが良人(うち)へ対して困るだけだわ」
 津田は少くとも表面上妹〔お秀〕の立場を認めるよりほかに道がなかった。しかし腹の中では彼女〔お秀〕に対して気の毒だという料簡がどこにも起らない
〔…〕彼女〔お秀〕は自分の前に甚(はなは)だ横着な兄〔津田〕を見た。その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。』

『明暗』§95-96. 

 

 ここに現れているのも、親族関係上の「立場」です。1つ目は、津田の、他の親族(父、妹夫婦、叔父、…)に対する「立場」。2つ目は、妹・秀子の、兄夫婦、父らに対する「立場」。ただし、大所高所からみた客観的な「立場」ではなく、それぞれの本人が、親族関係上自分はこういう立場だ、こういうことを主張する権利がある、と考えている・主観的な「立場」です。
 

 津田は、まだ所帯を持ったばかりであるし、「京都の父」には十分な資産があるのだから、子が親から生活費の援助を受けるのは当たり前だと思っています。彼の考えでは、それは世間の人びとの前でも正当に主張しうる彼の権利であり、「立場」なのです。
 

 ところが、妹・秀子は、そういう兄の「立場」とは真向(まっこう)から衝突する「立場」に立たされています。津田の希望に反して、吝嗇な性格の「京都の父」は、援助を出し惜しみしており、いつも争いが起きかねないふんいきが、父と兄のあいだにはあります。そこで、秀子の夫・堀は、津田に頼まれて両者の間に割って入り、調停案を出して合意に導いたのでした。ところが、津田のほうは、父と合意した約束を履行するつもりなど、最初からありませんでした。堀もまた、履行を促し確保する責任がある、というようなことはハナから考えていなかったのです。
 

 そこで、父と兄の不和が再燃すると、両者のあいだで板挟みになったのは、津田の実妹であり、調停者・堀の妻である秀子でした。それが、秀子の「立場」です。
 

 事態を客観的に眺めれば、津田に履行意志のないことを見抜くことなく、ただ机上で適当な調停案を作って提示したにも責任があります。「京都の父」は、津田を責める以上にを責めてきます。しかし、秀子の非難は、夫に向けられることはなく、もっぱら兄・津田に向けられます。なぜなら、大きな「家」の中では、各夫婦が連帯責任を負うべき単位になっている(そこに「家主義」の形骸が残っている)からです。「京都の父」がに向ける非難は、秀子にとっては、兄夫婦の勝手な行動によって自分たち堀家がこうむっている “被害” なのです。

 

 

 


【21】《B群》――「家」の延長:「会社」と「階級」

 

 つぎに、《B群》の用例に移ります。《B群》では、「立場」に関わる人の範囲が《A群》より広くなっています。津田「家」の外部の人びと――吉川家、岡本家などとの関係で、津田「家」内部の人間関係が問題になります。また、彼ら外部者の、津田に対する関係が問題になります。「家」を超えて、津田の勤務先の人間関係が関わってくるのです。

 

『〔津田が〕お延を鄭寧に取扱うのは、つまり〔延子の叔父〕岡本家の機嫌を取るのと同じ事で、その岡本と吉川〔津田の勤務先の上司〕とは、兄弟同様に親しい間柄である以上、彼の未来は、お延を大事にすればするほど確かになって来る道理であった。
 お延と仲善
(なかよ)く暮す事は、〔吉川〕夫人に対する義務の一端だと思い込んだ。喧嘩さえしなければ、自分の未来に間違はあるまいという鑑定さえ下した。
 こういう心得に万
(ばん)遺筭(いさん)のあるはずはないと初手(しょて)からきめてかかって吉川夫人に対している津田が、たとい遠廻しにでもお延を非難する相手〔吉川夫人〕の匂(にお)いを嗅ぎ出した以上、おやと思うのは当然であった。彼は夫人に気に入るように自分の立場を改める前に、まず確かめる必要があった。
「私がお延を大事にし過ぎるのが悪いとおっしゃるほかに、お延自身に何か欠点でもあるなら、御遠慮なく忠告していただきたいと思います」』

『明暗』§134. 

 

 吉川氏は、津田の勤務先の上司です。ですから、津田にとって、吉川夫人の「気に入るように」することは、処世術として至上命令です。夫人の意向が変われば、それに合わせて自分の行動も態度も改めなければならない。こうして、夫人の意向の支配は、津田の最もプライベートな領域――家庭での妻に対する態度や、他の女性との交際関係(浮気?)にまで及びます。この時代の日本には、社員のプライバシーなどというものはありませんでした。
 

 しかし逆に、古いほうから見ると、江戸時代の士族は、「家」という・がっしりした擁壁で保護されていました。上級権力といえども、臣下の「家」の内部にまで入り込むことはありませんでした。ところが、その「家」が崩れてくると、勤務先の上司の妻――といった部外者が、家庭内のことにまで口を出してくるようになった、とも言えます。
 

 江戸時代の「家」は「連帯責任を負わされている」かわりに、「家」がその「責任を果たしている限り、上級権力は介入しない」、そういういわば “不可侵性” があったのです。現代では、憲法13条に定められているように、「個人」が不可侵です(建前上は)。江戸時代には、「個人」ではなく「家」が不可侵だったのです。

 漱石の時代は、両方のあいだの過渡期です。不可侵な「家」は、徴兵制などによってすでに崩されていて、そこに、会社の上司の親族のような、一種の “上級権力” が介入して来ます。しかし、介入してくるのは純然たる個人ではなく、「家」の外形(「上司の妻」であるという)をまとった何者かです。介入されるほうも、「家」の外形を保ちながらそれを受けとめる。それぞれが、個人ではなく「立場」なのです。

 吉川夫人は、夫や、延子の親族である岡本家とは異なる・自分の「立場」を主張していますが、それはやはり「立場」であって、津田に対する「上司の妻である」ということを離れては存立しえない。彼女は、「個」としての女性の意識を持って行動しているわけではないのです。(だから、同じ女性である延子に加勢するのではなく、逆に、夫のほうに「同情」して、より世間体
(せけんてい)の良い「夫唱婦随」の関係に改めさせようとしています。)
 

 「立場を改める」という表現が使われています。が、この場合、津田は、本来の「立場」に立ち返るというよりも、上位者の意向に合わせて、どうにでも自分の態度を変えてしまおうとしています。その「立場」とは、夫の妻に対する関係ですが、まったくのプライベートな関係ではなく、吉川夫人や、吉川氏、岡本叔父といった・夫婦外の第三者に “見せる” ための関係、第三者の意向に左右されるような関係なのです。
 

 津田は、これまでは、吉川夫人らの意向に沿うように、妻を丁重に扱ってきました。外泊などしたことは一度もなく、「はで好き」の妻が望む宝石の指輪を買ってやり、家長として命令したり圧迫したりは決してしません。当時の日本では稀なほど、妻を大事にする夫だったのです。それというのも、津田は、「お延を鄭寧に取扱」えば、吉川家および「岡本家の機嫌をとるのと同じ事」になる、それが、「家」および勤務先での自分の上昇を保証すると信じてきたからです。夫婦仲を良く見せることは、延子の親代わりの岡本夫妻(延子は、叔父・岡本家で育てられました)、および媒酌人である吉川夫妻の、メンツを立てることにもなると考えたのです。
 

 ところが、いま、津田の前で、延子を非難するかのような、これまでとは 180° ちがう言動を始めた吉川夫人の態度は、津田にとって謎でした。もし、吉川夫人(および彼女の向こう側にいる吉川氏や岡本氏)の意向が変わってしまったのであれば、自分も合わせなければならない。彼らに合わせて、自分の妻に対する態度を「改める」――「立場を改め」なければならない。津田は、そう考えて、吉川夫人の真意を探ろうとしています。

 

『「あなたは延子さんをそれほど大事にしていらっしゃらないくせに、表ではいかにも大事にしているように、他(ひと)から思われよう思われようとかかっているじゃありませんか」
 
〔…〕
 津田は今日までこういう種類の言葉をまだ夫人の口から聴いた事がなかった。〔…〕
 「どうぞ御遠慮なく何でもみんな云って下さい。私の向後(こうご)の心得にもなる事ですから」
 
〔…〕
「あなたは良人(うち)や岡本の手前があるので、それであんなに延子さんを大事になさるんでしょう。〔…〕お望みなら、まだ露骨にだって云えますよ。あなたは表向(おもてむき)延子さんを大事にするような風をなさるのね、内側はそれほどでなくっても。そうでしょう」
 
〔…〕
 「あなたは私を良人(うち)といっしょに見ているんでしょう。それから良人と岡本をまたいっしょに見ているんでしょう。それが大間違よ。〔…〕私を良人や岡本といっしょにするのはおかしいじゃありませんか、この事件について。学問をした方にも似合わないのねあなたも、そんなところへ行くと」〔西洋の学問を学んで、個人主義を身につけたのではないのか? と揶揄している。〕
 津田はようやく夫人の立場〔夫とは異なる夫人自身の「立場」〕を知る事ができた。しかしその立場の位置及びそれが自分に対してどんな関係になっているのかまだ解らなかった。夫人は云った。
 「解り切ってるじゃありませんか。私だけはあなたと特別の関係があるんですもの」
 特別の関係という言葉のうちに、どんな内容が盛られているか、津田にはよく解った。
〔…〕
 夫人は一口に云い払った。
 「私はあなたの同情者よ」』

『明暗』§136. 

 

 吉川夫人は、夫とは異なる自分の「立場」を主張しています。

 夫や岡本夫妻は、津田が延子を大事に扱って、仲の良い夫婦に見えることに、満足しているかもしれない。しかし、自分はそうではない。なぜなら、自分は津田に「特別な関係」を持っており、それゆえに夫や岡本夫妻が知らないような、津田の内心の懊悩を知っているからだ。それゆえに自分は津田に助力することができる、と言うのです。

 夫人の言う「特別な関係」とは、津田が延子と知り合う前に愛していた女性(清子)を津田に紹介したのは夫人だった、という「関係」です。夫人は、現在も清子と連絡があり、その一方で、津田が結婚後も清子に対する「未練」の気持を引きずっていること、そのために延子との夫婦仲が、外見上良く見えても内実はぎくしゃくしていることを察しているのです。

 もちろん、「夫とは異なる自分の立場」とは言っても、夫人は、「個」としての女性の主張をしているわけではありません。彼女が立っているのは、親族関係の延長上の「立場」にすぎない。津田の会社の「上司の妻」として、津田の夫婦関係への介入を試みているのです。その関係は、津田の妹・秀子が親族関係の中で津田夫妻を非難するのと、なんら異なるものではないのです。

 このように、《A群》《B群》に現れた「立場」は、いずれも親族関係に関わるものでした。崩れかけた「家」の中から出現してきた、半ば独立した個人、しかし、「家」の母斑を色濃くまとった個人なのでした。


 



 

 最後に、《B群》よりも後にある 162章の用例を見ておきます。これまでの用例とは違って、「家」ではなく、「家」より大きなまとまりである「階級」に関わる「立場」が現れています。

 

『それが先刻大通りの角で、小林と立談(たちばなし)をしていた長髪の青年であるという事に気のついた時、津田はさらに驚ろかされた。〔…〕
  実を云うと、自働車の燭光(あかり)で照らされた時、彼の眸(ひとみ)の裏(うち)に映ったこの人の影像(イメジ)は津田にとって奇異なものであった。自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な点においてずいぶんな距離があった。〔…〕
 「小林はああいう人と交際(つきあ)ってるのかな」
 こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた後
(あと)なので、新来者に対する彼の態度も自(おの)ずから明白であった。彼は突然胡散臭(うさんくさ)い人間に挨拶をされたような顔をした。
 上へ反
(そ)っ繰り返った細い鍔(つば)の、ぐにゃぐにゃした帽子を脱(と)って手に持ったまま、小林の隣りへ腰をおろした青年の眼には異様の光りがあった。彼は津田に対して現に不安を感じているらしかった。それは一種の反感と、恐怖と、人馴(ひとな)れない野育ちの自尊心とが錯雑(さくざつ)して起す神経的な光りに見えた。津田はますます厭(いや)な気持になった。〔…〕
 「これは僕の友達だよ」
 小林は始めて青年を津田に紹介
(ひきあわ)せた。原という姓と芸術家という名称がようやく津田の耳に入った。』

『明暗』§162. 

 

 小林は、かつて、文筆家である津田の叔父・藤井の誘いを受けて地方から上京した文学青年でしたが、期待とは裏腹に、藤井の使い走りのような雑用しかさせてもらえず、毎日の食費にも事欠くありさまで、東京で「文士」として身を立てることなど到底不可能な現実がありました。そして今では、もはや内地では芽の出る希望がないので、植民地へ活路を求めて行こうとしているのです。
 

 小林の「友達」だという長髪の青年画家・もまた、芸術で身を立てる見込みなどはなく、つてのできた裕福な家を訪ねては、自分の描いた絵を買ってもらおうと奔走しているのです。
 

 小林の妹・お金(きん)もまた、藤井家で女中をしているほどで、小林は、津田家、藤井家などとは異なる「下層階級」に属していたと言えます。とその親族もまた、小林と同様であったでしょう。公式の身分で言えば、津田家などは「士族」、小林らは「平民」ですが、明治時代の 40年あまりの間に、没落する士族もあり、平民から成り上がる家もあって、全体として、収入・資産の格差による新たな「階級」編成ができつつありました。「第1次世界大戦」による好景気(ヨーロッパ諸国は工場生産が困難になったので、日本に輸出注文が殺到した)は、この傾向に拍車をかけ、新興「成金」が続出しますが、それは『明暗』以後に本格化する現象です。
 

 こうして、「階級」間格差は拡大し、そこへロシアなどから無政府主義、共産主義の思想が流入して、「下層階級」のなかには、小林のように「上流階級」に対して仇敵意識を燃やす者も増えたのです。また、原のように、外来の新しい文化をテコに、旧来の「家」と「階級」の抑圧から脱出しようとする青年も現れてきました。
 

 今年は「日本共産党」創立百周年だそうですが、百年前といえば 1922年。『明暗』の新聞掲載のわずか 6年後なのです。
 

 彼ら「下層階級」の反逆者を前にして、津田が自認する「仕合せ」な「立場」とは、のような正体不明の有象無象(うぞうむぞう)は知り合いのなかにいない・「上流階級」の一員としての平穏な境遇です。


 

 


【22】「家主義」から「立場主義」へ

 

 日本の近代文学史で夏目漱石と並ぶ小説の巨匠として、森鷗外がいます。鷗外漱石より5歳年上で、年齢ではほぼ同じ世代に属するのですが、作風はかなり異なっています。鷗外は、古い「家主義」の傾向が強いのに対し、漱石は、「家」の解体から現れてきた「立場主義」の勃興を、するどく感知していました。

 

『両者の差は、古い時代のイデオロギーである「家」を見ていたか、新しい時代の「立場」を見ていたか、にある〔…〕
 

 鷗外は、時代と共に失われていく「家」という磁場で書いていた、〔…〕
 

 一方、漱石が見ていたのは、「怒らなければならない社会状況」だ〔…〕この社会状況こそ、「立場」という新しい抑圧のシステムが形成したものだったのではないか。』

安冨歩『生きるための日本史』,2021,青灯社, pp.144-145. 

 

 鷗外の「家主義」は、たとえば短編小説『高瀬舟』に見られます。『高瀬舟』は、安楽死の問題を扱っていることで有名ですが、鷗外の筆の力点は、そこにはない。
 

 流行病で両親を亡くした職人・喜助は、弟と助け合って暮らしていたが、弟も不治の病いの床に伏した。弟は、自分の病気で兄に苦労をかけることを苦にして、のどを切って自死をはかったが死にきれず、血だらけで苦しんでいるところへ喜助が帰宅した。のどに刺さった剃刀を抜いて死なせてほしい、楽にしてほしいと懇願する弟の苦痛を見かねて、喜助は頼まれるがままに弟を殺害し、流刑に処せられる。しかし、流刑地に護送される高瀬舟の上で、看守の同心は、喜助の表情が晴れやかで眼に輝きがあることに驚く。そして、喜助の語る事件の一部始終に耳を傾ける。

 

『主人公の喜助は、病身の弟を一家の長として引き受けていたのであり、彼を養い、彼を庇護(ひご)する無限責任の延長として弟の自刹を助けたのだといえる。肉親であればこそその行為は彼にとって恐るべき苦痛であったが、そこまでの責任をとりうる者も、また一家の長である彼のほかにはなかった〔…〕彼にとって、自刹幇助は公的な社会の次元では明白な罪なのであって、ただ家族という私的な世界でのみ、ほかに逃げ道のない正義として感じられたにすぎないだろう。にもかかわらず、彼にとってはこの私的な世界が十分な重みを持っていて、そのまえには公的な裁きもさして恐るるにたりないものに見えたということにちがいない。〔…〕喜助の果たした責任はひとつの世界を統治する行為であり、その意識されない自恃の感情が、彼に独特の落着きと名状しがたい威厳とをあたえていたのである。

山崎正和,『鷗外 闘う家長』,1976,河出書房新社, pp.126-127. 

 

 つまり、山崎氏によれば、『高瀬舟』のエピソードの要点は、「家」という「ひとつの世界」を統治する責任を引き受けた者の、完結した正義の感情にあるということなのです。それは、「家」の外の公的な世界では罪になるとしても、公的な世界の裁きは、いささかもこの「家長」の私的正義の感情をゆるがすことがない。ここに私たちは、明治以前の人びとにとって「家」というものが確固たる住処(すみか)であったこと、鷗外の生活感情の中には、そうした堅牢な「家」がなお保存されていたことを知るのです。
 

 安富さんは「イデオロギー」と言っていますが、山崎氏によれば、それは「家父長の動物的本能に近」いものなのです〔p.129.〕。それは、儒教的イデオロギーとは異なるものです。「家主義」「家のイデオロギー」と言うよりも、「家のエートス」「生活感情」と言ったほうが正確ではないかと思います。

 

 
『栗山大膳』 1936年,日活。    
 


 鷗外の 1914年の作品『栗山大膳』には、藩という大きな「家」との一体性に殉ずべく、藩政をくつがえす策謀をめぐらすひとりの家臣の苦闘が描かれます。

 

『江戸幕府が三代将軍の時代になっても、〔筑前黒田藩の家臣〕栗山大膳にとって、黒田家はいまだ純粋に政治的な「体制」ではなく、むしろ戦国期からそのままつづいた家庭的な愛情の対象であった。藩主の忠之は年齢も大膳より十歳あまり若く、大膳は藩主に対して精神的にも庇護者としてのぞむ立場にあった。しかし、時間はいつかこの関係をゆがめることになり、やがて忠之は子飼いの寵臣として若い十太夫をとりたて、藩政の運営も次第に大膳の関与を遠ざけるかたちで進めようとした。当然、家中(かちゅう)の綱紀(こうき)が急速に乱れるのを見かねた大膳は、藩主を諫めようと試みてかえってうとんぜられ、君臣の関係はまもなく最悪の状態にまで突き進んでしまう。』

山崎正和,『鷗外 闘う家長』,1976,河出書房新社, p.128. 

 

 「今一歩進んだら忠之が利章〔大膳〕に切腹を命ずるだらうと云ふ處まで、主從の爭は募つて」いたのです。そこで大膳は一計を案ずるのですが、それは藩全体を驚愕させるにたる大胆な奇策でした。大膳は、‥‥

 

『幕府にたいして藩主・忠之に逆心があるとの偽りの訴えを起し、その取調の場所をかりて、彼は家中(かちゅう)の不正を一挙に明かるみに出そうという計画を立てる。幸いに計画は成功し、佞臣(ねいしん)・十太夫は追放され、黒田家も安泰のうちに綱紀を正し、大膳自身は盛岡・南部家に預けられることで事態は落着する。〔…〕この栗山大膳の特異な行動に作者自身の深い共感がこめられていることは一目瞭然であろう。

山崎正和,『鷗外 闘う家長』,1976,河出書房新社, p.128. 
 


 「奇策」に至るまでの過程で、大膳の地位は黒田藩の家中(かちゅう)で急激に無力化していきます。ところが、これに対して大膳自身は「いささかも被害者意識を」もつことがなく、むしろ主家に対して「強烈な庇護者意識」(子を守る父の意識)を持ちつづけているのです。どんなに疎んぜられても、大膳のパターナルな “善意” は不動です。したがって、彼には「感情的な恨みも反抗心も認められない」。彼は「藩主を見かぎる」でもなく、かといって「その意向に服従」するでもなく、ほとんど高圧的な態度で「藩主を教導しようと試みるのである。」

 

『一方、彼は自分の危険な企てに毫末(ごうまつ)の躊(ためら)いも覚えず、藩主に対して、あたかも幼児の尻を平手で打つような仕打ちを冷静にやってのける。恐るべき優越意識と無私の愛情の結合である〔…〕彼は前の藩主・黒田長政の遺言を聞いた家臣であり、忠之とともにその柩を前後から擔(にな)って野辺送りをしたという確実な記憶がある。そこから生まれる黒田家への一体感と自負の意識は、いわゆる儒教的な「忠節」の観念というより、むしろ年老いた家父長の動物的な本能に近かったという方が正確であろう。

山崎正和,『鷗外 闘う家長』,1976,河出書房新社, p.129. 

 

 栗山大膳に見られるのは、自己が所属する藩という「家」への一体感と、無私の庇護者意識であり、これは、家臣というより「家長」の意識にほかならないのです。儒教的な主従観念を転倒させかねない・このような意識は、現実の家長である藩主に対して、優越心にみちた「無私の愛情」を注いではばかりません。いわば、大膳にとっては、亡くなった前藩主こそが “永遠の家長” であり、自分と年下の藩主とは、永遠に「家長の2人の子」なのです。その前藩主亡きあとは、自分が現藩主・忠之の “兄” として、無限の庇護責任を負いつづけなければならない。それは、いかなる統治の法によっても覆されることのない、大膳の「動物的な本能」でありエートスなのです。


 別の言い方をすれば、大膳にとっては、藩主との関係でも、藩全体に対しても、自他の区別はありません。彼の行動を近代的意識によって見れば、「自分勝手」「老害」とでも言うほかないのですが、「家」が確固としていた時代の「家長」とはそういうものであり、「家」とは、そういうものであったのです。自他の区別がない以上、藩という「家」から区別されるような個人というものも存在しません。つまり、大膳には、自分の「立場」というものは存在しない。不当に遇されても、被害者の意識(立場意識)など生じようがないのです。
 

 『高瀬舟』『栗山大膳』、いずれも「立場」の出現回数はゼロです。




 

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