哲学者西田幾多郎氏の言う「善の意味」を考える と言う投稿に対しての長いコメントに対しての返信(2)です。

 

 >例えばナチスが行ったホロコーストは無理矢理にナチスの民族主義思想から言ってしまえば、「みんなのため」とならざるを得ない。ですが実際はどうでしょう。殺人工場で焼き殺された幾百万の人間の骨の山という悪魔の所業の前にして善の一欠片があると言えるのか?<

 

この問題はドイツ人が他民族を虐殺すると言う問題ですので別の考えで考えなければなりません。善は本来、仲間内の問題でなければ機能しないのです。これについては「公(みんな)の為とは?」を参照してください。

 

 

>ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公は「優性人種が人類を発展に導き、そのためになら残虐な行動をする権利だってある」という理想を抱きながらあのような醜悪な事件を巻き起こしたが、これが問題として映るのはほかでもなく人間の思想と感情の驚くべき懸隔があるからでしょう。<

 

常に正しい答えを得るためには「何が一番みんなの為になるのか?」と”みんな”で考えなければならないのです。自分一人で「これが正しい」と決めてはなりません。「自分の考えこそが正しい」、それが許されるのは今の世の中が相対主義だからです。相対主義とは「正しいは人それぞれでいいのだ、自分の考えが正しいでいいのだ」と言うものであり、この考えこそが老人殺しの植松聖などを生むのです。

みんなに関する問題において常に正しい行為はみんなで知恵を出し合って一番みんなの為になる答えを見つけなければなりません。これが本当の民主主義なのです。私の見つけた絶対善こそが本当の民主主義を示しているのです。

 

 

>仮に「良心」という言葉が明確に定義ができたとする。そうなると理論上人間の良心を判定するとされる、嘘発見機が閻魔が持っている照魔鏡のようなものが作ることができますが、そうなるとしたらどうなるでしょう。<

 

良心(善なる心)の定義とは「みんなの為になる心」です。本来私たちは生得的に善なる心を持っていますが、それと同時に人間には理性もあるのです。この理性こそが悪を働くのです。人間が私欲、つまり悪い理性がある限り完全なウソ発見器など作れないと思います。

 

 

>またもし人間にとっての「自由」が「なんの縛りがない状態」というような、人間ではない原子の自由運動のようなで片付けられるほど簡単な物なら、哲学者もいらないでしょう。<

 

自由の本質、自由のイデアは「束縛が無く開放された状態」で間違いはないと思います。しかし自由のイデアの意味が分かってもあまり役には立ちません。やはり「正しい自由」でなければならないのです。「正しい」とは本来、社会的なものなのです。ですから社会においてはただの「自由」ではなく「正しい自由」つまり「みんなの為になる自由(束縛が無く開放された状態)」が必要となるのです。ですからプラトンは善のイデアはイデアの中のイデアである、と言っているのです。愛のイデアや自由のイデア、平等のイデアなどの意味が分かったとしてもそれだけではあまり役に立たないのです。やはり善、正しいのイデアが分かってこそ他のイデアも意味が通じるのです。愛も「みんなの為になる愛」が正しい意味なのです。自由もただの「自由」ではなく「みんなの為になる自由」でなければならないのです。平等も「みんなの為になる平等」こそが正しい意味と言えるのです。ですから善のイデア、つまり絶対善を知ることが最も重要なのです。

 

 

>ですが論理だけで世界全体を説明できるという考えはどうやらまちがっているらしいことが、最近自分でもわかってきたのでそのことは言っておきます。<

 

私は論理的なもので世界すべてが説明できるなんて言っていません。ただ、あらゆる社会的問題において常に正しいと言える答えは絶対善である「みんなの為」になる、適う、合致している答えであると言っているだけなのです。

善とは善い、と言う事でありそれは「これが善い」と選択することなのです。社会的問題において「これが善い」と結論、答えを出すことなのです。その答えを出すその根拠が絶対善である「みんなの為」なのです。

絶対善はあるのです。悪が一切ないものが確かにあるのです。それが「みんなの為」であり、その「みんなの為」になる、適うものは全て正しいと言っているにすぎないのです。

 

何度も言いますが、絶対とはあらゆる、一切の条件であっても変化しないものを言うのです。絶対善は悪が絶えているのですからいかなる場合であっても悪に変わる事はありません。また悪が一切ない「みんなの為」に合致していれば当然にすべて善い、正しいと言えるのです。

私の言う事に矛盾があると言うならば「みんなの為」であって正しくないものを一つでも示せばいいのです。また「みんなの為=みんなの安心・幸せ」と言う事です。ですからみんなが安心して幸せに暮らせていることに何か悪と言えるものがあるならばそれを示せばいいのです。しかしそんなものは絶対にないでしょう。何故ならば私たちは何か選択すべき問題が起きれば「みんなの為」を絶対の根拠として「これが善い」と選択するのですから。

私は常に論理的に説明していると思っています。論理的ではないと思うならばその矛盾点を指摘してほしいのです。私の絶対善は論理的、道理的に導かれた事実判断であり、それを論理的ではない価値判断で否定することなどできないのです。

 

 

最後に、私は他の人と議論することによって絶対善を深いものにしてきました。しかし時に誹謗中傷的なコメントが多かったのでコメントを承認制にしているのです。また私の絶対善を否定できるとするならばその矛盾を指摘するしかないのです。そしてその矛盾が明らかになれば私の言う絶対善は間違いであったと素直に認めます。そして最後に、皆さんの真摯な質問であればいつでも歓迎いたします。