第二次世界大戦
1939年、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。密約によりポーランドはドイツとロシアで二分されました。
ドイツ軍の侵攻と強制移住 1941年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻、独ソ戦が開始されると、バルバロッサ作戦の下、ドイツ軍が破竹の進撃を続け、11月にはウクライナ全土はドイツ軍の手に落ちた。枢軸国に加わったルーマニアは南西部からウクライナに侵攻し、オデッサを占領した。スターリンはドイツ軍の進撃をくい止めるため、ウクライナの焦土化を図り、東ウクライナの工場地帯の住民約380万人(1000万人との説もある)と850の工場設備をウラル山脈を越えた遠隔地に強制的に移住させた。(中略)
ドイツ軍の占領 ウクライナを占領したドイツ軍はその地を穀物供給地として重視しただけでなく、人的資源をかり集め、オストアルバイター(東方労働者)と称してドイツ本土に移送し、強制的な労働に従事させた。またユダヤ人絶滅政策による過酷な摘発を行い、85~90万が強制収容所に連行された。1943年1月のスターリングラードの戦いで形勢が逆転、ドイツ軍の後退が始まり、ソ連軍がウクライナに進撃し、同年9月までに全ウクライナを占領した。ウクライナ人の中にナチス=ドイツに協力してソ連からの独立を実現しようとした者もいた。ウクライナ民族主義者のステパン=バンデラは、ウクライナ人部隊を組織してドイツ軍のソ連侵攻に参加した。バンデラはリヴィウで独立宣言を発したがドイツはそれを認めず、バンデラらはゲシュタポに逮捕、拘禁されてしまった。
(修飾・強調引用者)引用:ウクライナ
フミ:第二次世界大戦。
今更ブログで解説することもないでしょう🙂
ダジボーグ:ここは重要だな。調べなさい。
フミ:えっ😲どこをですか?
ダジボーグ:一つは強制疎開。
もう一つはウクライナの民族主義者だ。
フミ:強制疎開ですか。
なにか話したいことでもあるのかな
次回でウクライナの民族主義者を取り扱います。
ソ連の東方への疎開計画
ソ連では、戦争の場合に生産力を避難させるための公式の計画はありませんでした。しかし、いくつかの情報源によると、1927年に始まり、英国との外交関係が崩壊した後 、ソ連では、労働防衛評議会(STO)が、内戦の繰り返しを防ぐために設計された避難措置を含む防衛計画を策定しました。戦闘地帯に人口が存在することで、軍隊の移動が困難になり、エピデミックの蔓延と軍人の士気喪失に貢献した。
引用:大祖国戦争中のソ連での避難-ウィキペディア。
フミ:第二次世界大戦のだいぶ前から、第一次大戦での教訓により、ソ連の官僚機構が、避難計画をある程度策定していました。
ダジボーグ:戦争というものはこういうことなんだよ。
大量の物資の移動計画だ。それはモンゴル時代から変わっていない。
直接の教訓は第一世界大戦だろうが、精神的にはモンゴル時代からずっとそうだったからだ。
なのに君の国はそのあたり全然準備ができてなさそうだな。
1941年の後方地域での生産力の移転は、極めて困難な状況にもかかわらず、ほぼ予定時間通りに順調に進んだ。鉄道輸送人民委員会(NKPS)の報告によると、1941年後半に2,593の工業会社(うち大企業は1,523)が前線から東に移動させられた。1200万人から1800万人が避難し、国内避難民を含めると、1942年7月から9月にかけては2500万人に達した。しかし、この数値は包括的なものとは言えないと思います。
(修飾・強調引用者)引用:"Русские сделали невозможное". Как проходила крупнейшая эвакуация в истории - Мнения ТАСС
企業の疎開
(修飾・強調引用者)引用:後部での生活と仕事| 勝利の教訓
企業の疎開は2段階で行われました。1941年、ベラルーシ、ウクライナ、バルト三国、モスクワ、レニングラードから。1942年、ソ連のヨーロッパ地域の南部から。
疎開の数は非常に多かったため、1941年7月には、ソ連の貨物車両のほぼ半分が疎開に使用されました。1941年には、1,523の大企業がロシア東方に移動されました。ウラルに667、西シベリアに244、東シベリアに78、中央アジアとカザフスタンに308、ヴォルガ地域に226です。
フミ:調べてみるとすごいです。
工業以外にも、原材料、貴重な書籍、美術品、家畜、あらゆるものがソ連の東方へ疎開しました
ダジボーグ:再度言うが、戦いは移動なのだ。
そのあたりのことを日本人は忘れているのではないかね。
戦いに大切なのは、政治でも、人道でもない。移動計画なのだ。
ダジボーグ:モンゴルが強かったのは、彼らの騎馬による攻撃力というよりも、彼らの洗練された移動方法によるところが大きい。
馬は維持費が掛かるが、それらを維持するノウハウ、つまり一連の計画能力が高かったのだ。
モンゴル軍。
ダジボーグ:彼らの情け容赦ない略奪は、彼ら自身の補給の為でもあった。
歴史の文章では「降伏したら許された」、「抵抗したから皆殺しにされた」と書かれているが、それは頭だけが良い歴史家が考えたことだよ。
彼らは常に全体を考えて、自らの部族を維持できるだけの略奪を行ったのだ。
『キエフ包囲戦,1240年12月.エショフ・アレキサンダー』
ダジボーグ:そしてモンゴルを打ち破ったルーシ人は、それに勝つ方法を学んだのだ。
資源を蓄え、粘り、相手に資源を与えないこと。
その辺の感覚がないようだな。
お前に欠けている、三つのアドバイスを授けよう。
- お前の個人的なことだが、最近食糧危機に備えて備蓄しているようだ。しかし、調達ルートこそが大切なのだ。備蓄は備えであり、それだけでは不十分だ
- ロシアが西側との経済戦争で勝つ大きな理由がこれだ。資源の調達ルートを理解し確保しているのだ。一方、西側は金ばかり見ている。お金では飢えはしのげない。資源がなければ何も作れない。
- 計画性だ。計画的に遂行しなければ、危機には生き残ることができない。今の生活とて、常に物資が流れてくるから維持されているのだ。危機とはこの物資の流れの急激な変化であり、これに対応するには危機状況における計画なのだ。
フミ:ははぁ。なるほど、考えたこともありませんでした
フミ:・・・今回、歴史を紹介して、こうやって一連のアドバイスをもらってようやくわかりました。この一連の記事を書くことを求められていた理由は、こうやって歴史を学びつつ、これからに必要な教えを学べということだったんですね。
ダジボーグ:最初から、そう言っているではないか。
フミ:😔そうですね
今回のチャネリング相手:太陽神ダジボーグ
スラブ神話の神慈悲深い太陽神。万物の創造主スヴァローグの子。
その名は文字通り『与える神』(Dazh[命令型]+bog[幸福、反映])を意味している。黄金の翼をもつ4頭の白馬が引く戦車で空を横切り、『火の盾』で陽光を創り出した。彼はまた豊穣神でもあったから、人々は自らを誇り高く「ダジボーグの孫」と呼んだ。
追記:タイトルと順番が間違っていたので後日、訂正します。
いきなり近世からWW2に行ってしまいました。
追記2:これまで時代ごとにやっていましたが、今回は近世→ファシズム→第二次世界大戦のソ連疎開とダジボーグと話したいことを先に述べ、その後、ウクライナの民族主義の歴史(1900年~1991年)をまとめて取り上げる変則な構成になりました。