ステパン・バンデラ1 生まれから学生時代 | 宇宙の叡智を降ろすブログ

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ウクライナ民族主義者として二人目に取り上げるのはステパン・バンデラ、またステーパン・バンーデラ(宇Степан  Бандера、英Stepan Bandera)です。

 

 

出典:Stepan Bandera - Wikipedia

ステパン・バンデラ。

 

 

一人目が未読の場合は『イェベン・コノバレッツ前編』からお読みください。

 

 

 

彼の評価は真っ二つに分かれています。

西部ウクライナ、民族主義者達にとってバンデラはウクライナ独立の最大の英雄で、ソ連崩壊後、西ウクライナの各都市のレーニン像は引きずり倒され、今ではその場所にバンデラの銅像が立っています。

 

 

 

2003~07年製造のバンデラの銅像。

出典:Памятник Степану Бандере во Львове

 

 

一方、東部ウクライナ、ロシア、ポーランドは、バンデラを戦争犯罪人ナチス協力者と呼びます。実際彼の組織OUNは、多くのユダヤ人とポーランド人虐殺に加担しました

 

 

バンデラの横断幕を掲げてデモする民族主義者達。

出典:Война после войны – газета «ИНФОРМБИРЖА news»

 

 

果たしてバンデラはどのような人物で、当時のウクライナはどのような時代だったのでしょうか?

 

 

 

 

バンデラ幼少期

ステパン・バンデラは1909年1月1日、ガリツィア州カルスカ郡スタリ・ウグリニフ村(リヴァウから南東120キロ)に生まれました。

 

 

父アンドリーギリシャ・カトリック教会の司祭で村の教区司祭でした。母ミロスラヴァはギリシャ・カトリック教会の家の出でした。コノバレッツと同様に、バンデラは、ギリシア・カトリック教会、ウクライナ人の知的階級出身でした。

 

 

父アンドリー。

ギリシア・カトリック教会の司祭で、西ウクライナ共和国に参加。

出典:アンドリーイ・バンデーラ - Wikipedia

 

 

母ミロスラヴィ。ギリシア・カトリック教会の家系の出。

1922年、結核で亡くなった。

出典:Myroslava Volodymyrivna Bandera

 

 

バンデラ家には8人の子供がいて、生まれた順に、長女マーサ、長男バンデラ、次男アレクサンドル、次女ウラジーミル、三男ヴァシリー、三女オクサナ、四男ボグダン、赤ん坊で亡くなった四女ミロスラヴァでした。

 

 

スタリ・ウグリニフのバンデラ家。

大きな家だが、家のない人々と共同で住んでいた。

出典:Staryi Uhryniv - Wikiwand

 

 

1914-1917年、バンデラ5歳から8歳の頃、第一次世界大戦によりオーストリア軍とロシア軍の戦いがスタリ・ウグリニフ村で4度行われ、大砲で家が部分的に破壊されました。

 

 

 

 

ガリツィア地方

(文字引用者)出典:Historical maps around Ukraine

 

 

ここで当時のガリツィア地方について説明します。(ほぼコノバレットの記事で書いたのと同じです)

 

 

ガリツィアは、古く10世紀は『ルーシ』の一部でしたが、その後タタールの侵攻後に、ポーランドに支配されました。その支配は400年以上続きました。

1772年、最初のボーランド分割により、1772年からはオーストリア・ハンガリー領になりました。オーストリア支配で100年以上経過し、ポーランド人優位は変わらなかったものの、ロシア帝国支配下の東部ウクライナに比べれてば、ウクライナ人への教育や権利は守られ、ウクライナ人の民族意識が盛り上がった。またオーストリアは、聖職者の教育に力を注ぎ、教育階級のほとんどを聖職者が占め、聖職者がウクライナの知的階級と政治を形成していきます。コノバレッツ家と同じくバンデラ家もそのような家の出でした。

 

 

それでも地主・領主達のポーランド人が支配層その下に商人ユダヤ人農村中心のウクライナ人が一番下の階層でした。ポーランド人とウクライナ人の対立はガリツィアの日常でした。

 

 

ガリツィア地方の比率

  • ポーランド人25%(都市中心、地主)
  • ユダヤ人12%(都市中心、商人など)
  • ウクライナ人60%(農村中心、貧しい)

 

このガリツィア地域は、ロシア(ソ連を含む)には1939年まで一度も占領されなかったという点で他のウクライナ地域と異なります。こうした歴史背景から、ガリツィア地方は、”自称”ウクライナ文明の中心地、ウクライナ民族主義の中心地として、他のウクライナ地域とは違う意識を持つようになりました民族主義者達は大抵このガリツィア出身、これから取り上げる3人の男もいずれもガリツィア出身です。(今だからこそ知っておきたいウクライナのすべて | 【翻訳商社】ノーヴァネクサス)(ウクライナ人民共和国 - Wikipedia

 

 

第一次大戦の結果、消滅していたポーランドが復活します。そして再びガリツィア地方をポーランド支配に置こうとしましたこれにバンデラの父達ウクライナ人はクーデターを起こし抵抗します。

 

 

 

 

父の戦い(ポーランド・ウクライナ戦争)

1918年、バンデラ少年は、父達が、近隣の村人と共にクーデター軍を組織するのを目撃します。ガリツィア地方は西ウクライナ人民共和国の設立を宣言東部はウクライナ人民共和国を宣言してソ連と戦争中)。バンデラ父は、その西ウクライナ人民共和国の議会に参加。その後、従軍司祭として西ウクライナ軍と共に行動します。バンデラ一家は父についてズブルチ(以前の記事に書いたズブルチの偶像の場所)に一時引っ越します。ガリツィア - Wikipedia西ウクライナ人民共和国 - Wikipedia

 

 

西ウクライナ軍はポーランド軍をいったんは撃退したもの、その後は敗走

結局家族は故郷のスタリ・ウーリニの村に戻ってきます。

 

 

『リヴァウの鷹たち』ヴォイチェフ・コサック(ポーランド人画家)

 

 

父は東部ウクライナに逃れ(西ウクライナ共和国の亡命政府と共に?)そこで赤軍、白軍、発疹チフスと戦いました

西ウクライナ共和国も、東のウクライナ人民共和国も敗れて、たった3年間で消滅してしまいました。ウクライナはポーランドとソ連に分割して占領されてしまいます

戦争が終わった1920 年の夏、父はガリツィアに戻ってきました。最初は、ポーランド当局の迫害の為に身を隠していましたが、秋には、以前と同様のスタリ・ウグリニフ教区の司祭に戻ることができました。

 

 

戦いを目撃したバンデラに与えた影響は大きいです

大戦中は学校は閉鎖され、バンデラは家庭教師から教育を受けていました。おそらくかなりの愛国教育を受けたでしょう。

 

 

 

 

バンデラ学生時代

1919年秋、10歳のバンデラは農場を持つ祖父母を頼りに、故郷の村から80キロ、リヴァウから南に70キロに位置するストレー市に移りました。そこでバンデラと兄弟達は祖父から住宅と経済的援助を受けて、ウクライナの公立校に通い中等教育を受けます。

 

 

ガリツィア地方を支配するポーランド当局は、ポーランド化を進めていて、ウクライナ公立校の独立性を剥奪し、学校・図書館を閉鎖したり、ポーランド所轄に移していました

そのため一部のウクライナ人教師は、隠れてウクライナ民族主義教育を実施していました若者達は愛国教育を受け、そして学生グループに所属します。この学生グループは、コノバレッツが組織したウクライナ軍事組織(UVO)と結びついていきました

学生時代のバンデラは秘密の学生運動サークルに所属し、スローガンの配布、地下出版物、通信サービスなどの活動を精力的におこないました。

 

 

プラスト(ウクライナのボーイスカウト)の制服を着たバンデラ、1923年。

出典:Young Stepan Bandera in the Plast uniform, 1923

 

 

1928 年 9 月、バンデラは州都リヴィウに移り、高等工科学校の農学科に入学します。しかしバンデラは勉強を放り出して、ますます学生運動にのめり込んでいきます。(後にバンデラは逮捕されたので、卒業しませんでした)

 

 

 

 

バンデラの思想

バンデラは、幼い頃からカトリックの影響からか、ウクライナ独立の理想のために精神を鍛えるべく、しばしば氷水で身を浸し、長時間寒さの中に立っていました。その影響から関節のリュウマチに苦しみます。(個人的には精神的な怒りが原因だと思いますが)

 

 

また命を奪えるのか試すために、片手で子猫を絞め殺そうとしました。バンデラは誰でしたか。 ステパーンバンデラの本当の伝記

 

 

子供時代は、クーデターを起こして戦った父の影響を受け、学生時代はナショナリズム、民族主義を学び、暴力的な反ユダヤ主義、反共産主義、反ハンガリー主義、反ポーランド主義を身につけました。

 

 

バンデラは、ウクライナ全土から非ウクライナ人を追い払うことを誓う怒りと復讐の化身でした。彼は熱烈な国家社会主義者、つまりナチスシンパであり、何よりも国家が優先されるべきだと考えていました。

 

 

 

ステパン・バンデラ2 テロ組織OUNとナチス協力』につづく。

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