イエスの全て | また、晴れた日に君と。

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△龍と狼とのスピリチュアル探求の暮らし△

生きてるよ生きてるよ!(挨拶)

 

 

すみません、連絡貰ったり、お友達のブログ見に行けなかったり。


社長の奥さんからの邪気&生霊でめばちこ張りに目が腫れたり、今数年で一番痛い帯状疱疹が出来ていますが(年間どれだけなるんだよ(笑))なんとかやっています。

 

 

前のブログで、人の念によって「渡部死ぬんじゃないかと思った」って書いたけど、4月の終わりから5月に掛けて、2回続けて堕ち神様って言っていいのかな?千と千尋の神隠しに出てくるオクサレ様みたいになった神様を浄化する事になったりして

 

 

負の力が今までより強い時期なのかもしれないなぁって思いました。

 

 

世界(地理的な意味じゃなく)は、人間の意識があらわれた場所なので、人々の意識をとても下げる結果になったコロナっていうのは、病気的な意味だけじゃなく、とても厄介な存在だったのだなぁと感じて居ます。

 

 

そんな状態の世界ですけれど、何から書いていいか解らない程、霊的な出来事もたくさんありました。また書いておけたらいいなと思って居ます。

 

 

天伴さんが以前から愛についてお書きになって居ますけれど、マスタージーザスことイエス様も、5/5のぞろ目日に微笑みながら「私の全てをあげよう」というちょいと罪な男のような言葉を用いて、私にエネルギーを分け与えて下さいまして、戴いたものを訪ねると「愛」だと言って居ました。

 

 

(天伴さんが愛についてお書きになるようになったのも、予見だと思って居ます。)

↓天伴さんのブログ

 

 

 

おそらくは、キリスト意識だとか、無条件の愛だとか言われる、霊的にイエスが担って居るようなもの、人間にとってとても大事なものを、イエスは「愛」という言葉で括って伝えたのだと思います。

 

 

その一連のやり取りの中で、「存在としての究極的なもの」という言葉にならない言葉のようなものを受けました。(感じたという方がいいのかな?)

 

 

愛って日本語としては、向ける相手や、その時の状況によって、意味合いが分かれるものかとは思うのですが、けれどやっぱり存在としての究極的なものというか、最後に残るものっていう、イエスとのやり取りで受けた感じのものだと思うんですね。

 

 

そしてその人として最後に残るもの、損得を超越したものが、個人個人のもつ、人の波動を分かつようにも思います。

 

 

とは言え、水邑はブログ初めてからの経験上、簡単にスピリチュアルについて「愛だよ」「愛なんだよ」と安く言う人間は全く信用していないんですけれどもね。

 

 

それではまた~バイバイ

 

 

おしてくださると助かります歩くオーエスオーエス

 
 
スヤァ(会社で寝てた人)

ふとん1ふとん2ふとん3

 

追伸、お仕事も可能です。今承れる分は来週水曜以降になります😊