人生でよくある災難。
意味がないものが多いと思いませんか?
ぼくは最近マルウェアにコンピューターをやられて、てんやわんやしました。
なにか学びがあるわけでもないし、意味のない時間の浪費です。
そういうことって、ちらほらありませんか?

人生における人間たちのトラブルや感情ドラマにたいして価値はありません。
ですから、そういったものを手放しなさいといわれるわけです。
けれども、なぜ感情ドラマや意味のない時間の浪費トラブルが起こるのでしょう?
それは退屈しのぎだからです。

わたしたちは一生懸命、生きている間、なにかをしていたいのです。
ずっと、doing doingばかりで、「ただ在る」というbeingを蔑ろにしています。
このdoingの癖は、マスターになっても結構残っています。

何かでマインドを埋めていたいのです。
それが、意味のないトラブルを引き寄せます。

恋愛は、最もマインドを埋めてくれます。退屈しません。
スムーズにいくことはほとんどなく、ドキドキハラハラ、ドロドロの感情ドラマを伴います。
これも退屈しのぎといえます。

わたしたちは、退屈が嫌いで、なにもしないということが逆に不安になります。
マスターになると、なにもしないということが達人の域になります。
なにもせずとも退屈せずにいられます。
だからよく人里離れた場所で暮らします。

ぼくはまだなんだかんだと退屈ですね。
ずっと退屈病でしたから。
いくつもの新規事業や新しいアイディアを考えたりするのですが、
結局その場の退屈しのぎで、本当に情熱があるわけではなく、尻すぼみになります。
どこかで退屈を解消してくれることが起こることを待ちますが、大きく発展せずに終わります。
そんな退屈病を抱えていました。

退屈病の観点から見ると、慢性金欠というのも、退屈からの創造といえます。
金欠だからなにかをやろうとする、行動化しようとするわけです。
逆に言えば、行動化のために金欠状態を引き寄せるわけです。

恋愛も、厄介な相手や厄介な状況にいつもはまる人がいますが、
それは恋愛が一番退屈しのぎになっているからです。
感情が揺さぶられ、頭の中が恋愛ばかりになることで、生きている心地を感じているのです。

人生における、崇高な目標、絶え間なる努力も、広大な視点からみれば退屈しのぎです。
夢を追いかけている人や努力している人を悪くいっているわけではありません。
人は経験するために生まれて来ているのですから。

マスターになるとは、人類を救うためでもなければ、奇跡を起こすためでもありません。
そういったものから離れます。人間的な価値基準から離れていきます。
どんどんとなにもしなくなります。

そんな人生つまらないだろうな、と人はいうでしょう。
しかし、感性が高まって、大いなる愛で全てを包み、流れ込んでくるあらゆることを受け入れるようになると、とても幸せで充実するのです。

目に見える功績や、歴史に名を残す偉業は必要なく、
ただ在るだけで幸福であり、ただ在るだけで、多くの人を癒やすのです。