モンテ・ヘルマン Monte_Hellman

 

デヴィッド・ロウリー監督『さらば愛しきアウトロー』(2018年)は昨今溢れ返るいよいよ土俵際の老人たちが自らの過去を遡る旅に出たり、長年の生活圏に闖入する新参者に憤慨しつつもやがて新たな時代の予感にゆっくりと瞑目したりととどのつまり心地のいい落とし所で終わる映画とはひと廻りもふた廻りも心構えの違うところを見せます。ロバート・レッドフォードは老境にあっても銀行強盗を繰り返す性懲りない主人公ですが彼に襲われた銀行に駆けつける捜査陣に被害にあった面々は不思議な戸惑いを見せます。何というか彼らは楽しい余韻に浸っているかのようでそんな自分に信じられないのとそうこうするうちにもまた微笑みが浮かび上がってくるのを抑えられません。上品に語りかけられ、銃こそコートの内側に忍ばせてはいますが声を荒らげることなく微笑みに促されて、他の客、他の行員どころか下手をすると対応する自分すらいま銀行強盗が行われているなんて思えず、労いの言葉と感謝のユーモアさえ掛けられて彼を見送っているのです。世にはびこる老人映画が偏屈だがそんな仏頂面の下には実は剥き立ての柔らかい感情があるというひとりの人間を(まるで葡萄の実でも出すみたいに)無遠慮にひと皮剥いて(そしてそのことで安心をするのはこの老人たちでも何でもなく映画を見ている私たちなのであって)まさに善人面であるのに比して、礼儀正しくあること、他人を気遣うこと、ひとを傷つけないこと、ユーモアを大切にすること、その上で自分のしたいことを貫くこと、失敗もまたよし、諦めないこと、そしてそのすべてを楽しむこと... 本作では主人公の老人こそが私たちに教えているわけです、未来にあるべき私たちの生き方を。さてそんな本作が今回手向け歌を送るモンテ・ヘルマンと交差するのは物語の終盤、それまで盗みとともに脱獄も人生の愉悦であった主人公は恋人に諌められて大人しく刑期を全うすると出所後に平凡だが年齢相応の日々に落ち着いて 恋人とふたりして出掛ける映画館で映し出されるのが2カットばかりですがモンテ・ヘルマン監督『断絶』(1971年)です。

 

 

 

デヴィッド・ロウリー さらば愛しきアウトロー ロバート・レッドフォード

 

デヴィッド・ロウリー さらば愛しきアウトロー ロバート・レッドフォード

 

デヴィッド・ロウリー さらば愛しきアウトロー シシー・スペイセク ロバート・レッドフォード

 

デヴィッド・ロウリー さらば愛しきアウトロー 

 

 

その瞬間本作がまざまざと立ち上がってきます。冒頭から70年代映画のあじわいを見事に模倣してみせて疾駆するアメ車のフロントガラスからはるかな立体交差をパトカーが滑稽なほど急ぎながら過ぎっていくなんて胸踊りますが、ここに来て本作はモンテ・ヘルマンの主人公たちに連なるのだという監督のこの告白にじりじりとした喜びが湧き上がります。アメリカを横断しながら公道の抜きつ抜かれつに終わりのない生きざまを託す『断絶』の主人公たちにせよ、相手の喉笛へ長針を蹴り立てる闘鶏にどっぷり溺れて望んでいた家庭的な幸福を自ら踏みにじる『コックファイター』(1974年)の主人公にせよ、速さが見せる幻を追いながらそれが幻であることもわかっていて、決して到達できないからこそそれから離れられないのがモンテ・ヘルマンの男たちです。本作のロバート・レッドフォードもまた映画館を出るや目の前を通り過ぎる現金輸送車から目が離せなくなってそれがゆっくりと走っていく先にふたたび銀行強盗に興じるわが身を思い浮かべます。それはいつも自分から女たちに声を掛けては彼女たちのいまを揺さぶり未来を夢見させるくせにいざその小さな家に閉じ込められるとなると独り身の甘い感傷に逃げ出さずにはいない70年代的主人公のさまでもあって... 本作に息づいてヘルマンの横顔が浮かんできます。先の二作の他に『旋風の中に馬を進めろ』(1966年)も『銃撃』(1966年)も麗しいヘルマンの映画ですがここはぐっと遡ってデビュー作である『魔の谷』(1959年)を見てみましょう。のどかなゲレンデにそう善人でもない面構えを殊勝に雁首揃えてスキーの指導に聞き入る男たちは明日にも雪山を渡ってスキーの腕前にも似合わない奥深い山小屋まで走破に出ようというのです。言わずもがな夜には悪党の顔に戻って語らうのは近くの鉱山に爆弾を仕掛けて騒ぎにひとが出払った鉱山会社から金塊を頂こうという(やや計画の杜撰さが気に掛かる)悪巧みで実際それをやってのけると何喰わぬ顔で山小屋行きに参加です。彼らがそんな寒いだけの行軍に乗り出すのも山小屋の近くで逃亡用の飛行機と落ち合うためですが、ここからこの映画が大きくそり返っていって雪のさなかに次々と一行が襲われると譫言に浮かび上がるのは蜘蛛のお化けのような怪物でして、いやはや強奪事件の顛末はそっちのけでとんだ怪奇物に雪崩込みます。

 

 

 

 

 

 

お気づきでしょうがなかなか時流と予算の釣り合うところを見るに敏いロジャー・コーマン一族の製作でまさに予算なりの出来栄えですが、一味の頭目は経営の順調な花火会社で成功しながら強盗を止められず、彼の情婦は惰性の毎日に若さがすり減っていくのを日に日に酒量で紛らせていて、そんな女を見放すどころか女の色目ひとつにも異様な嫉妬を燃やす男の何か不能めいた愛に、着いた山小屋で給仕に勤しむ先住民の大女と相思相愛になる手下など人物の屈曲が折り重なって、ここを金塊の行方と絡めて掘り下げた方がはるかに映画の出来具合は上首尾でしょうに怪物にそれを掻っ攫わさせるところがコーマンなのでしょう。それにしても1959年から半世紀以上になるモンテ・ヘルマンの映画人生に監督作はそう多くはありません。その掉尾となる『果てなき路』(2010年)はかつてアラン・ロブ=グリエの『快楽の館』の映画化に意欲を見せたヘルマンだけに(『モンテ・ヘルマン語る』河出書房新社 2012.1)入り組んだ仕掛けが施されていて、映画は狭い個室に向かい合う男女のインタビューから始まります。男の手許には本作と同名の手焼きのDVDがあってそれを再生するノートパソコンの画面にキャメラが近づいていって映画の画面とぴたりと重なると再生される映像がひとつの物語として動き出します。しかしそれは完結したひとつの物語ではなく実は撮影中の映画の場面であり視点が広がるとわらわらと撮影現場の喧騒に包まれてそのまま映画が作られていくさまを追っていきます。映画製作を主題とする映画というのは珍しくはありませんが本作がきりきりと物語を絞り上げてくるのは主人公が映画を製作する物語がそれとして完結せず外側に更にモンテ・ヘルマンたちの撮影が取り巻いていて(飽くまで主人たちの物語が撮られたものであることを前景化して)世界を入れ子状にフィクションをフィクション化していることです。先述の通り主人公たちが製作している映画が『果てなき路』であり念の入ったことにオープニングロールの監督名は主人公になっていて(つまり本作のオープニングロールを作中の映画のオープニングロールが代行して)内と外が手袋を捲るように反転し続けます。主人公はある地方で実際に起こった男女三人の死亡事件を映画化しようとしていますが事件は未解決である上に関係した三人の男女が点々と(ある者は殺されある者は自殺して)死んでいる経緯も謎めいて解釈が錯綜します。真相を探る保険調査員が身を窶して撮影クルーに潜り込んでいて不意打ちに解釈のひとつを打ち返しては彼とて知りようのない真相が波となってフィクション(のフィクションであることの確信)に打ち寄せていきます。やがて彼が近づくのはヒロインのイメージを激しく喚起して素人を承知で起用された主演女優で生前にヒロインと関係していたことをひた隠すその裏側へと手を伸ばそうというのです。そこに何があるのか、映画は中断したまま新たな男女三人の事件を引き起こします。死という不在に(生者の体で)近づこうとすることがフィクションの源泉だとするとその豊かな死の向こうはまさに原題のまま<Road to Nowhere>、辿り着く場所はありません。しかし映画はその道であれということこそ速度に幻を追ったモンテ・ヘルマンが私たちに示したことだと思います。

 

 

 

 

モンテ・ヘルマン 果てなき路 

 

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