ライフ&キャリアの制作現場

くらし、仕事、生き方のリセット、リメイク、リスタートのヒントになるような、なるべく本音でリアルな話にしたいと思います。

156.好きこそ物の上手なれ

2024-03-03 22:03:07 | 仕事 キャリア ライフキャリア
 令和4年から自主企画・開催している演芸会。一回目は、新春1月開催予定を4月に延期して「陽春ちょい自慢大会」。2回目は、昨年1月に予定通り「新春ちょい自慢大会」として開催。そして、今年は、1回目2回目の出演者の芸が「ちょいではなくてまじ」だったという観覧者の声を反映して、「立春まじ自慢大会」として、立春の日に開催した。
   
 これまで披露された芸は、落語、紙切り、粘土細工、インクアート、津軽三味線、書、など。他の仕事をしながら趣味としてやっている人、それで起業を目指している人、好きなことを仕事にして展開しつつある人など。皆、知人や知人の紹介から快く出演してくれた身近な人達。
     
 企画した当初は、世間の過剰な自主規制の雰囲気を和らげるような楽しめる場づくりができればとの思いだったが、思っていた以上に参加してくれた皆さんの評判が良くて、2回目3回目につながった。ちょっとだけお金をかけて舞台設営もした。
                
 出演者の皆さんも、自分の芸を披露する機会がなかなかなくてうずうずしていたのだろう。数か月前から仕事の合間に練習したという会社員、「100回の練習より1回の本番がありがたい!」と言ってくれたペア、作品を披露して製作を体験させてくれたリタイア世代の方、企画の主旨に共感して大サービスしてくれたプロ(はだし)の方など。普段の顔と違った一面や芸の意外性もあって、皆楽しませてくれた。手づくりの場には、和やかな時間が流れた。
  
 出演者の技と熱意は観覧者の感動と刺激と癒しにもなったと、終わった時の皆さんの表情や声から感じられた。やはり、同じ空間でリアルタイムで顔を合わせて表現する方が伝わるものは大きい。

 好きこそ物の上手なれ。それを続けることが、その人の印象が人の中に残ったり、交友関係が広がるきっかけになったり、あるいは本人の心の糧になったりすれば、「芸は身を助ける」ことになっているのかもしれない。
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155.疾風に勁草を知る

2024-02-23 01:40:03 | 仕事 キャリア ライフキャリア
「疾風に勁草を知る」激しく風が吹いた時にこそ、折れない強い草がわかる。困難に直面した時に初めてその人の本当の強さや価値がわかる。という意味。

 4年前の2月、その頃徐々に怪しくなっていた雲行きが、学校が一斉臨時休校になった時から、急に嵐のようになったことを思い出す。丁度4年前の投稿(127.エチケット)では、私自身が世間の状況の変化に戸惑いを感じ始めていたことがわかる。

 あれから4年。何度も疾風が吹き、その都度第〇波だと騒ぎ立てる者がいて、行動や移動や営業にも制限が加えられ、世の中が大きく変わったと言われた。心身の健康を損なったり、仕事を無くしたり、人間関係が壊れたりしてつらい思いをした人も少なくない。一方で、メディアやSNSの中では、金儲けまがいのことをしている者、ヒステリックな扇動や他者攻撃によって自己顕示欲を満たしているような者などもいた。社会にも過剰な同調圧力や閉塞感が広がり、いわゆる安全(客観)と安心(主観)が混同されていった。何度も瀬戸際だとか土壇場とか叫ばれるたびに、警戒感は疲弊感に変わって行った。

 今、社会は落ち着きを取り戻したと言われ、急落した株価は史上最高値を更新した。しかし、景気が回復しつつあるとはいえ、世間の空気はあまり浮かれた感じがしない。堅実であることは良いことだが、何か全体的な明るい雰囲気は乏しい気がする。この雰囲気の一因は、経済格差と言われるものだけではなく、まだ街中や職場でもマスクが“覆面”になっている人が少なくないこともあるように思う。個人の判断で着脱自由とは言え、表情が見えない相手と活発なコミュニケーションは難しいし、コミュニケーションが活発でなければ明るい雰囲気は生まれにくいだろう。

 何度も疾風が吹く中で、ただ安全な場所に身をひそめるだけでなく、人々の暮らしや社会を支えてきた人もいる。一部の医療従事者だけでなく、エッセンシャルワーカーと言われる人たちだ。もちろん、家族や自身のために働いていた多くの人も含めて。そのような人達を“勁草”に例えるなら、共通している点は、状況にひるまず、あなどらず、淡々とできることをしていたことではないかと思う。地に根を張るところまではいかなくても、浮足立つことなく、地に足をつけていたように思う。

 周囲の人やメディアに登場する人物も含めていろいろな人の強さや弱さ、良くも悪くも意外な一面が見えたこともあった。振り返ってみると、自分自身の強さや弱さもわかった。ストレスフルな状況の中で揺れながらも、なるべく人とのコミュニケーションの場を作り、楽観的に捉えて、できない理由探しでなくできることを探してやり続けていたから、今があると思っている。もちろん周囲の人の支えもあったことはありがたかったと思う。
 騒動が始まった頃、ある有識者が言っていた言葉が思い出される。「自分の周囲の人々や社会に対する一定の信頼感が回復すれば、騒動は“終息”するだろう。」というような内容だったと思う。
 
 疾風に勁草を知ることは、これからもあるだろう。自分も身を低くしていても吹き飛ばされることがあるかもしれない。心ならずも吹き飛ばされたとしても、新たな場所で立ち直ることもできるだろう。ただ、あの店(前回ブログ)が昨年秋に多くの人に惜しまれて幕を閉じたことは心惜しい。63年間も枯れることのない勁草だったのに。
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154.またまた、あの店のことが心配だ

2021-09-03 23:11:23 | 仕事 キャリア ライフキャリア
 今、またまた、まだまだ、飲食店の時短営業と酒類提供禁止がされている。いちいち腹を立てたところで仕方ないと割り切ってはいるが、こう何度も同じことが繰り返されると、不安、うんざり、あきれを通り越して、感覚がマヒして来る。

 今までリーダーは、県民が多かれ少なかれ不安や不満や不自由を感じている中で、「正念場だ」「瀬戸際だ」「踏ん張り所だ」「難敵に打ち勝つためだ」「命を守るためだ」と勇ましい言葉と切迫感をもって県民に”理解と協力”をお願いしてきた。波が来ればそのたびに、「未知の変異株の脅威だ」「夜の店クラスターのせいだ」「市中感染蔓延だ」「家庭内感染がいかに危険か」「県外からの持ち込みだ」「帰省は中止せよ」などと記者会見で悲壮感を漂わせながら訴えてきた。そんなこの1年半余りだった。

 もちろん対策は必要であるし、成果の出ている面もあるだろう。リーダー、担当職員、医療、保健所などの関係者は苦悩と苦労を重ねているのはわかる。他に打つ手がなくもう手詰まりなのかもしれない。しかし、こう同じことの繰り返しでは、本当にこれでいいのかという気がしてくる。対策を取らざるを得ない原因や責任は他に、例えば飲食店にあるかのように言うが、行政としてやるべきこと全てに本当にリーダーシップを発揮してきたのかと疑問に思う。例えば、医療ひっ迫に対応して医療体制の拡充や再拡大したときの予防策を打ってきたのか。対応病床数や人員はあまり増えていないのではないか。簡単にはいかないとの弁明もあるようだが、そもそも、重症者数の推移を重視するのではなかったのか。昨年までは難しい面もあったのかもしれないが、法が改正されて自治体の指導力が強化されたのではないのか。

 自治体レベルでできることはまだ少ないのかもしれないし、国の方針が決まらないと動けないこともあるだろう。一方、それぞれの自治体で事情は違うだろうが、独自の対策を打ち出して感染を低く抑えている自治体もある。
 もういい加減に発想や対応を見直して腹を据えて経済・社会活動の正常化を図らないと、冬になってもしまた数が増えると、先手を打つと言いながら同じことを繰り返すのではないか。宣言も措置も各自治体から国に求めるものだから、数字しか見ない専門家の判断を待つのでなく、早く宣言や措置を解除できるように部下を動かし国を巻き込むようなリーダーシップを発揮するとか、本気で丁寧に直接実情を県民市民に説明し呼びかけた方が良いのではないか。一部の医師や学者の言うように、ゼロにするのは無理だから正しく恐れて共存するという方針に転換できないのか。

 顕微鏡の中をいくら覗いていても人の気持ちは見えてこない。記者会見場で同じパターンの状況説明を繰り返していても、人の気持ちはついてこない。
 今さらながら、専門家や医師会の中から、保身のためか言い訳のような方針転換や緩和の兆しも出てきたが、「仏の顔も3度まで」はもうとっくに過ぎている。多くの働く人が、もっと普通に遠慮なく声を掛け合い汗を流せる、そして自分の仕事が自由にできる環境を早く取り戻してほしい。黙って従い耐えているのは飲食店主だけではない。多くの人々は、生きて行くために淡々と、黙々と、平然と働くことに努めている。多くの県民市民はもう十分にやるべきことはやってきていると思う。

 国政も大きく動き始めた。地域の状況も、一部メディアの扇動をよそに、全体としては落ち着きつつあるのかもしれないが、一層好転するよう、理不尽なしわ寄せがフラットになるよう、そして人々の気分が明るくなるよう、そんなリーダーシップの発揮を願うしかない。

 何かまた大げさな記事になった。早く行きつけの店で、何事もなかったかのように、「ごちそうさま」と言って帰りたい。
(関連ブログ)↓
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153.ごちそうさま

2021-07-12 23:32:10 | 仕事 キャリア ライフキャリア
 女性は、そっと箸をそろえて置くと、軽く手を合わせて頭を少し前に傾けて「ごちそうさま」とつぶやきました。その女性の服装から、出張で県外からやって来て、仕事の帰りにこの小さな居酒屋のカウンターで夕食をとっている様子でしたた。そして、食べ終わった皿を手に取り興味深げに見ていました。耳に入って来た店主との短い会話から、おととしまでは出張のたびにこの店に来ていたようでした。「久しぶりにお魚、おいしかったです。お皿も素敵ですね。」「ありがとうございます。」店主は両手で代金を受け取りながら、マスクの上の目が嬉しそうでした。
 
 その女性から一席あけて向こう側には、70代くらいのご高齢のご夫婦が並んでいました。「久しぶりに街に出たよ。まだ、人は少ないね。大将は元気だった?」「ええ、おかげさまで。仕事休んでたんで、ちょっと太りましたけど。」店主との会話から、月に一度はご夫婦で食事に出ているようで、この店も行きつけの一つのようでした。「今日は、この人の慰労会よ。何かうまいもん適当に出して。」奥様が隣で静かに笑っていました。そして、短い“慰労会”が終わると、「ごちそうさん、お会計して。」「ごちそうさま。」「あっ、いつもありがとうございます。」マスク越しに店主の声が響きました。高齢のご夫婦よりずっと若い店主の方が、元気づけられたように見えました。

 私は久しぶりにこんな何気ないやり取りを見ていて、お気に入りの冷酒を飲みながら温かい気持ちになりました。

 「ごちそうさま」という食後のあいさつは、漢字で「御馳走様」と書きます。この「馳走」(ちそう)という文字には、次のような意味があるそうです。昔、客人をもてなすには、多くの人が走り回って食材を集めて料理を作ったことを表しているのです。そのような手間をかけて食事を準備してくれた人々への感謝の気持ちを込めて、食後に「ごちそうさま」とあいさつする習慣ができたのだそうです。
 今では、物流、加工、保存法なども発達していますから、新鮮な食材を簡単に十分に手に入れることはできます。それでも、この店主は安くて良質な食材を仕入れに、毎日市場へ行きます。早い時間から仕込みをして、料理を切り盛りして、お酒を出し、客をもてなす。客が帰ると片付ける。こういう仕事を何十年も続けています。そして、この店には、市場、生産者、加工業者、卸し業者など、様々な仕事の人との長いお付き合いがあります。このささやかな日々の営みも、人の支えがあればこそ続けて行けるものなのでしょう。

 職場においても、仕事を手伝ってくれる人や教えてくれる人、取引先や出入り業者など、様々な関わりがあります。その中には、何かあたりまえにしてもらっていることもあるでしょう。持ちつ持たれつ、お互い様かもしれません。
ただ、誰かに何かをしてもらう時には、自分が思っている以上に頼んだ相手やその周りの人にも手間をかけているかもしれないという想いを忘れないようにしたいものです。見えないところで誰かが、その頼んだ人を通じて自分のために動いてくれていることもあるかもしれないのです。
 だからこそ、誰に対してもいい人になれという訳ではありませんが、普段から何気ない会話や気づかいやあいさつで、かかわりのある人に感謝やねぎらいの気持ちを表すよう心がけたいものです。そうすると、職場の人間関係や仕事の味わいも変わってくるかもしれません。
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152.移住の3S点検

2021-06-08 21:58:14 | 時代 世の中 人生いろいろ
 都会から地方への移住を希望する人が増えているという。コロナ禍の影響で働き方や暮らし方の価値観が変わって移住を考え始めた人もいるらしいが、その大半はまだ大都市圏の近県や周辺市町村への移住のようだ。
 
 私は学生時代とサラリーマン時代を通算して約10年東京にいた。若い頃は都会への憧れもあったし、大都会の魅力や利便性も多少は知っているつもりだ。
 しかし、今は東京へ出張して単発的な仕事をしたいとは思っても、住みたいとは思わない。それは、地元にUターンして長く仕事をして、人とのつながりや地元への愛着ができたからだと思う。また、特にこの1年余は、都会のメディアから発せられる一方的一面的な情報について、「東京は日本の首都だけど、日本の一部に過ぎない」と思えば気が楽で、仕事や生活にも何ら支障がないことがはっきりしたからだ。
 
 最近は仕事を通じて、移住者の方々と会う機会が増えた。移住と聞くと、定年退職後に好きなことをしたくて移住したとか、若い家族が都会から自然豊かな田舎に移住してゆとりある生活を始めたというような希望に満ちたイメージもあるが、現実はそれほど甘くも楽でもないことが多い。移住の形は、Uターン、Iターン、Jターンといろいろあるが、中には様々な理由で仕事の再スタートや人生のリセットを求めて、縁もゆかりもほとんどない所へ移住する場合もある。

 移住される方の多くは下調べや準備をして来られるが、実際に来てみて不安や戸惑いが増す場合がある。移住の前後で「三つのS」の違いが大きいと、そうなりがちなのだろう。
 Speed・・・スピード感の違いのようなもの。例えば、仕事の依頼や問い合わせに対するレスポンスの速さなど。
 Scale・・・規模観や水準の違いのようなもの。例えば、生活水準、物価、買い物の際の店の選択肢や品ぞろえの数など。
 Society・・・地域社会の慣習や人づきあいの違いのようなもの。例えば、個人やその家族等のプライバシーに対する関心や関与の程度など。
 
 移住地でどのような暮らしをするのも個人の自由だが、もし移住に違和感を感じるようであれば、この「3S」について捉え方を変えてみたり、移住した目的を思い出してみると、何かヒントが見えるかもしれない。または、「郷に入っては郷に従え」と合わせられるところは合わせたり、「住めば都」と割り切ることができるようになれば、少し楽になるのかもしれない。

 ある移住者の方が言っていた。「移住担当の行政窓口は、移住する前は親切で歓迎モードだったが、移住が決まった後は住み家や仕事探しも人づきあいもご自由にどうぞって感じで無関心。来るまでに住む所見つけて、来てから仕事探して、生活リズムの変化に慣れるまでが大変だった。」と。
 こういう点に、行政の縦割りの問題があるのかもしれない。キャリアコンサルタントとしては、この隙間を埋めて、定住につなげる役割を担えたらと思う。具体的には、移住者の方を本人の希望や価値観を尊重しながらも、何らかの仕事を通じてコミュニティーにつなぐことかと思っている。そして、一個人としても「移住してよかった」と思ってもらいたいと願っている。
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151.右側に寄った

2021-05-08 23:14:03 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「雨が降ってるのに空は晴れている?」「天気荒天なれど波低し?」天気も世相ももやもやしがちなこの頃だが、昨年春先からの1年余を振り返ってみると、まだすっきりはしないものの、悪くはなっていないと思えてくる。
 
 経済・社会活動は、全国的に見れば昨年ほど抑制されていない。日経平均株価は今のところV字回復している。エッセンシャルワーカーだけでなく、働く人々の多くは不安や不便を感じることがあっても、変わらずに自分の仕事をしている。家事や子育ても休むわけには行かないから、主婦はいつもどおり日々の暮らしを守っている。学生の多くは、リモート授業に不慣れやクラブ活動制限などの不満はあっても、学びを続けている。就職活動や受験勉強も行われている。もちろん、様々な事情や問題で苦しんでいる人々を軽視するわけではないが、平穏な日常や生活リズムを守り頑張っている人が多いことも現実だ。

 感染症についても、対策をきちんとして普段通りに生活していれば、必要以上に恐れる必要はないと感じている人が増えた。一方、医療崩壊は実際には、ほとんどの自治体で起こっていない。もちろんそれは現場の医療従事者の方々や保健所関係者等の粉骨砕身の尽力あってこそだが、そもそも医療ひっ迫が起きて、繰り返されて、なかなか解消されないのは、ただ単に感染者数の問題だけではなく、行政や医療体制にも問題があるということも見えてきた。その中で、多くのまじめな飲食店や関係業界が理不尽なしわ寄せに耐え続けている。
 
 メディアの世界でも。批判のための批判や根拠のない偏った情報が、問題解決の邪魔であるということも見えてきた。自己顕示欲が強いだけの者が、他者を否定して自己主張してみたところで、その者が肯定されることもない。一部の情報番組のネガティブ感情の渦に巻き込まれそうになることはなくなった。思えばこの1年、TVニュースはほとんど見なくなったが、仕事にも生活にも特に支障がないことも分かったからだろう。

 政治に対する自分の見方も変わってきた。元々いわゆる無党派層で支持政党は無いし、主義や立場を明確にした団体等にも属していない。ただ、国政選挙と自治体首長選挙には行っている。
 はっきりとした線引きはない感覚的なものだが、日本社会の法秩序の中で許容される範囲の最も右寄り(保守系)を10、最も左寄り(革新・リベラル系)を1として点数にしてみると、一昨年までは判官贔屓なところもあってか「4」くらいだったのが、今では「7」くらいまで右に寄った感覚だ。
 そうなったのは、やはりこの1年でいろいろな事象の本質や人の素性が見えてきたり、これまで以上にリアルに物事を捉えて、できるだけ冷静に自分や事業の立ち位置や方向性を考えるようにしたからだと思う。
 結局、多様な意見や利害の対立の中で、方向性を示し、折り合いをつけながら、落し処を見つけるのは政治の力になる。よって、有事には、権力の暴走は止めなければならないが、迷走の際には批判するだけでなく軌道修正に力を貸すのが責任ある野党の姿勢だろう。選挙を意識したポジショントークやリアリティーのない提案ばかりでは、現実に向き合いながら日々懸命に働き暮らしている多くの人々の共感や支持は得られないだろう。
 今の政権には、批判も多いし逆風も強いし、水面下の足手まといもあるだろうが、ここまできたら完全ではなくとも一旦この事態を治めてほしい。そのためには、経済界の力や多数の国民の力も必要になるが、大局的には何とか治まりつつあると感じている。そして、結果は野党とともに次の選挙で国民が審判したらよい。

 年齢を重ねるにつれて、保守的になる人が多いと言われる。特にビジネスの世界はリアリティーが必要だ。そう考えると、これからの自分の仕事やキャリアの方向性は、緩やかな右カーブをほぼ曲がり切って、平坦ではないがまっすぐな道が見えてきたようなイメージだ。
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150.あの店のことが心配だ

2021-04-22 22:33:07 | 時代 世の中 人生いろいろ
 このブログ142号に掲載した「創業62年のバー」のマスターご夫婦のことが気がかりだ。今、この店のある繁華街は、時短要請の中で街が死んだようになっている。私は、店の常連でもマスターと親しい間柄でもない。マスターの作るハイボールの旨さと店の雰囲気、そしてバーテンダー一筋の生き様に感銘を受けた多くの客の一人だと思っている。
 
 昨年11月に久しぶりに訪れた際、マスターはいつものように淡々とお酒を作っておられた。奥様は人懐っこい笑顔で接客しておられた。ただ、その日マスターは、手が空くと時々店の片隅の椅子に座り込んでいた。お歳のせいか、少し疲れた様子も見えた。春になって、そろそろお元気なうちに行こうと思っているうちに、世間の状況が変わり行けなくなった。

 店を閉めて、どうしているのだろう。仕事が生きがいのように見えるマスターと、長年連れ添ってきた奥様。夫唱婦随で客の憩いと社交の場を守り続けてこられたお二人だから、常連さんらの応援もあって、きっと店を再開されると思う。バーテンダー人生の引き際をこんな状況の中で迎えるようなことにはならないでほしいと、勝手ながら願っている。

 最近、「医療には人の命がかかっている、経済には人の首がつながっている。」という、ある元官僚・医師の言葉が胸に響いた。
 政治家、自治体や医療のリーダーやトップら、一部メディアは、「命を守ることが最優先」という当たり前のことを今さらながらに唱えるのもいいが、それなら守るべき命の重さは平等であることをどう考えているのか「お示し」してもらいたい。穿ち過ぎだと思うが、誰もが反対できない大義名分の裏には、独善や私利私欲や何か不都合な事が隠されているのではないかとさえ感じる。皺寄せを受けている人たちからは、守られた世界で傷つくことのない者たちが、現場の声も聞かずに一方的に不利益を押し付けているという恨み節も聞こえてきそうだ。

 有事にすべての人が納得する施策を打つことはまず無理だろう。優先順位や最大公約数を求める中で、どこかに皺寄せや犠牲が生じるのはやむを得ないことかもしれない。それでも、今度こそ緊急時の医療キャパシティーを増強する対策、金を配るだけではない血の通った具体的方策、バランス感覚のある冷静な報道。国民や住民に負担や不自由を要請するなら、要請する側こそがこれらを命懸けで追求しないと、地域社会や国が弱って行く。事態は自然とおさまって行くかもしれないが、そうして喉元過ぎて熱さ忘れては、今の二の舞い三の舞いだ。弱い立場の人の心はますます傷んで行く。

 それにしてもあの店のマスター夫婦はどうしているのだろう。残りそう長くはないであろう人生の生きがいを奪われるようなこの状況の中で・・・。
 他にも気がかりな店はある。きちんと対策をして、まじめにがんばって仕事をしていたのにこんなことになって。仕方ないと割り切っているのだろうか。心折れていないだろうか。どんな思いでいるのだろうか。案外したたかに密かにやり過ごしているのだろうか・・・。
 早く店に行って心置きなく飲み、うまいものを食べ、楽しく人と話したい。そんな健全な心や行動が、少しでもまた店を元気づける力になればと切に願うこの頃だ。
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149.資格の品格

2021-04-11 08:43:44 | 仕事 キャリア ライフキャリア
  私は「国家資格キャリアコンサルタント」の資格を持ち仕事の一つの柱にしているが、 資格は仕事をする際の「必要条件だけど十分条件ではない」と思う。
 「キャリアコンサルティング」を仕事として行うには、この資格が必要であある。キャリアカウンセラーなどと呼ばれる類似のものもあるが、それらとは異なり国(厚生労働省)の認定の名称独占資格である。合わせて、スキルアップを目指す場合の目標として「1級、2級、キャリアコンサルティング技能検定」がある。私は自己研鑽と他のキャリアコンサルタントとの差別化のために1級と2級の技能検定を目指し、各級とも複数回受検して合格した。受検にあたっては、テキストや過去問題集の勉強もしたし、実技試験対策講座にも参加した。地元には講座も少なく、受験会場もないので、県外まで時間とお金をかけて何度も行った。
 そこまでしなくても、キャリアコンサルタントとしての仕事はできるのだが、合格して改めて考えるようになったことが「品格」についてである。
 「国家資格」とか「国家検定」とか、「国」がやっている資格を持っているから品格があるというものでもない。服装や言葉づかい、立ち居振る舞いなど、見掛け倒しだったり、逆に砕け過ぎていたりということがないか。どんな仕事においても、ふさわしい見た目や態度というものがる。ふさわしいかどうかは、自分ではなく相手がきめることだろう。かつて、実技試験にサンダルとTシャツというような試験をなめた態度で来ていた者や、資格があってもホステスさんのような場違いな服装で学生相手の講師をするような者もいた。

 そう考えると、品格の一つの目安は相手目線の考慮や事情や心情への配慮があるかどうかということだと言える。キャリアコンサルティングの倫理綱領の中に、「人間尊重」という基本理念があり、職務遂行上の行動規範には「相談者の自己決定権の尊重」と言う項目もある。難しく考えなくても、時々、独りよがりになっていないかと自分を振り返る謙虚さを持っていればよい。

 もう一つの品格の目安は、やはり現場で仕事に向き合う姿勢から身につくものだ。「やってる感」やアピールは盛んだけれど、自己満足だったり、実績が伴わなかったりしていないか。ちょっと逆風が吹くとすぐに逃げたり心折れたりしないか。基本に忠実に進めているか。臨機応変もいいが、必要に応じて教えを請い助けを求めることができるか。真摯に相談者や仕事に向き合っているかということだろう。

 先日、ある技能検定対策講座の受講生が、働きながら数年かかって合格した感想をくれた。「ぎりぎりで合格できました。勉強はとても苦しかったけれど大切なものになりました。」
 やはり、努力し苦労したからこそ大切なものに気づくことができると思う。自己研鑽とは、講習会などに参加することだけでなく、合格までのプロセスや実務経験を積むことも含まれる。そうして、資質の維持や向上の姿勢を保ち続けることも品格につながると感じた。
 私も、技能検定の実技についてはぎりぎりに近い点数だった。それでも、技能士というレベルをクリアして新たなスタートに立ったことで、キャリアに関する視点や視野が広がった感覚もある。

 キャリアコンサルタントについては、資格取得者が増えてきたことで、これからは増やしながら淘汰して行く流れになるだろう。履歴書に書く資格を一つ増やしたいという程度の、金で資格を買うような感覚なら受けてもうからない。資格を取るか取らないかは自由だが、資格がなくても十分に仕事はできているという考えは見直した方がよいかもしれない。資格も仕事も、真摯に向き合ってみないとわからない事もあるのだから、講釈はやってみてからにした方がいい。キャリアコンサルタントは、様々な「人」を相手にする仕事なのだから。
 そうして、相談者に寄り添い伴走し、誠実に仕事のできるキャリアコンサルタントが残り、着実に増えて行けば良いと思う。品格は自然と備わってくるものなのだろう。自分自身も品格を備えて保持するように努めたいと思う。

(参照:80.キャリアコンサルティングの作法と型)
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148.桜が目に沁みる

2021-04-03 22:33:01 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「おはよーございます。」と、大きな太い声。「あっ、おはようございます。」と、明るい女性の声。社員6人ほどの小さな営業所に、本社から部長がやって来て、新年度新発式が始まりました。会社の新年度方針や目標などの説明の後、全員で経営理念や社訓の唱和。その後、個別の打ち合わせが済むと、「よっし、じゃあみんなで弁当食べようかっ。」と部長の掛け声。すると、女子社員が注文した弁当の美味しさと安さをアピール。お茶の準備が整うと、電話番の社員を残して広い会議室に移動しました。会議室の外にはなごやかな笑い声も漏れ聞こえてきました。市内の桜の名所や、食べ物の名物の話などをしているようでした。
   
 私が昼食に寄った食堂は、安くてうまいと評判です。一つのテーブルに大体2名までとしているので、券売機の前に少し列ができています。壁面の大型テレビには高校野球の様子が映し出され、アナウンサーのメリハリのある声が聞こえてきます。野球を見ながら食べる人、スマホを見ながら食べている人、職場の同僚数名で一緒に食べている人たちもいますが、あまり会話は聞こえてきません。それでも、人が共に食事をするという日常が静かに流れています。
           
 桜を見に、近所の公園に足を運んでみました。芝生やベンチの上には、桜の下で弁当やお茶をしている家族連れや学生がいました。歩きながら、自転車に乗ったまま、桜の木の下で立ち止まっていました。今年は、写真を撮っている人が多い気がします。誰かに見せるためでしょうか。それとも、2年ぶりの記念でしょうか。

 昨年の春は、こうした人の動きや集まりはほとんどありませんでした。それを思うと、この1年で世の中の状況はずいぶん変わったと思います。まだまだ元に戻っていないという見方もありますが、戻りつつあるとは言えるでしょう。それに、元に戻らなくてもいい。元に戻ることは時の流れに逆行することになる。そのように考える人もいるのではないでしょうか。先行き不透明で不安定だと嘆く人もいますが、これまで常に先が見通せて安定した状況の中で生きてきた人がどれほどいるのでしょう。不安や保身も人情なら、安心したい、人と共にいたいと思うのも人情でしょう。
   
 「あれはダメだ」、「それはしてはいけない」、「こうするべきだ、こうあらねばならない」。こう言った、白黒思考、禁止や否定のメッセージ、完璧主義。私もこうしたものの広がりに一時期翻弄されそうになりました。もう緩和した方がいいと思います。人の回復力をそぐからです。「ここまでならいい」、「こうすればできる」、「こんな考えもある」。人それぞれの意見、事情、価値観の相違はあるにしても、こうした寛容で柔軟な思考や行動に重心を移した方がより健全でいられると感じています。そして、私の周りの多くの人は、多少の揺れや浮き沈みはあっても、日々働き暮らす中で新たな日常を自然と受け入れつつあるように見えます。自分や家族を守ることだけでなく、他者や周囲への気くばり、心づかいも大切という良識を、それぞれに取り戻しています。

 この1年の振り返り。今の自分を支えてくれている人への感謝。1年後への希望や目標。日々を地に足つけて生きている普通の人々の、弱さ、やさしさ、逞しさ。桜はやがて散っても、大地に根を張っていれば、また春が来れば咲く。そんなことを思いながら空を見ていると、桜が目に沁みてきました。
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147.数字

2021-03-25 21:21:31 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「結果を出せ」「目標未達は許されない」「数字を作れ」ーそんなことを日々言われ続けた時期があった。前世紀の終わりから今世紀の初めころがそのピークだった。当時私がいた会社では「お客様第一主義」を謳いながら、こんな言葉が上司や“本部”から飛んでくることは日常茶飯事だった。高圧的に、時に乱暴に、ヒステリックに。営業社員の中には数字至上主義に神経をすり減らし、振り回され、やがて社会の常識や職業倫理からずれて行った者も少なくなかった。そして今では許されないようなコンプライアンスに反する行為も、数字を出すことで上司から黙認された。むしろ賞賛されることすらあった。「営業殊勲賞」などの表彰や、「高いパフォーマンスを出す〇〇方式」なるものが、社内の営業部門を中心にもてはやされた。その後、それらの中には、偽装や虚構が判明したものもあった。数字に追われ、振り回され、人格までも数字で評価されるかのような風潮もあった。
 もちろん、きちんと努力してしっかりと結果を積み重ねていた社員もいた。しかし、そうでない社員も少なくなかったことは、後に会社自体が監督官庁から厳しい行政指導を受けた事実からも明らかだ。私も“そうでない”ことの方が多かった社員の一人だった。ただ、私個人としては、会社の行政処分に伴い一定の処分を正直に受けたのを機に仕事に対する向き合い方を是正し、その後別の事情や思いもあって退職したことで人生を軌道修正できたと思っている。

 数字は、物事の計測や分析などに必要不可欠であることは言うまでもない。統計や調査のデータだけでなく、論理的な思考や客観的な指標やエビデンス評価など、様々な場面で使われる。また、私自身、数字という目標に執着して仕事をした経験の全てを否定しているわけではない。目標達成して評価された時の自己肯定感。逆に達成できなかった時の劣等感など。今の仕事に生かされている部分もある。一方、数字では表せない人の感情や葛藤、計算通りに行かないプロセス、そして結果がすべてではないことを知った。数字は一つの事実を示すものだが、必ずしも現実を表してはいない。状況や捉え方によってその意味が変わってくることを体感した。

 最近、特にメディアの報道などを見聞きしていると、数字の扱いが粗雑で、稚拙で、盲目的と思われることが多い。企業の不祥事や行政処分の要因に、「数字至上主義」の負の側面があったと指摘されることが今だにある。数字を過信したり偽装したりしたことが社会の不安や不信を招く事件も後を絶たない。メディアなどの数字の発信者の偏った思考、利己的な意図、無責任が見え透いて感じられることもある。〇〇者数、〇〇率、〇〇回数・・・など。恣意的に不正確で不公正な数字をさも真実や正論であるかのように乱用している者もいると思われる。社会が混沌とした中ではやむを得ない面もあるが、いつの世にもそういう輩や曲学阿世の徒はいるのだろう。

 とは言え、私のような数字に強くない凡人は、どうしたら今後も数字に振り回されずにすむのか。改めて考えてみた。
 一つは、自分の判断や行動の軸を持つこと。私自身、計数的な思考や論理的な判断より、情緒的な思考や感覚的な判断をする傾向が強いので、現場感覚を大事にするという軸になる。現場感覚とは、仕事の現場や地域の状況に対する感覚だけでなく、周囲の人の様子や話を見聞きして実感するもの。
 もう一つは、数字の持つ意味や影響を冷静に考えること。自分の暮らしや仕事、家族や周囲の人にどんな影響があるのかという視点で考えてみること。メディアやSNSの情報は、発信元を確認して、鵜吞みにしないか無視すること。そして、自治体や一部の公正で客観的なサイトなど信頼できる所が公表している数字をもとに考えてみること。できるだけポジティブな情報も捉えてみること。そして、考えすぎないことと思う。

  私のこの春は、新年度の仕事の予定も立ってきた。心機一転。心や行動をポジティブに転じるには、できるだけ多く「人に会い、本を読み、旅に出る(=現場に行く)」こと(出口治朗さん)を心がけたいと思う。その中で、身近な数字を仕事やくらしを見直し、より良くする目安として役立てたいと思う。自分の軸と倫理観をもって働くことが仕事へのプライドにつながるし、人と関わりながら暮らすことが人生をリアルにすると思う。
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