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③忍者は実在 自民・生稲氏、萩生田氏と旧統一教会関連施設訪問 2022-8-18(木)

【豆知識】忍者は実在していた!? 合戦での活躍ぶりとは!?
2022/08/17 12:10 (城びと)

難攻不落の名城として名を馳せた月山富田城も、忍者には敵わなかった

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する城びとで人気の連載「超入門! お城セミナー」。戦国時代の忍者についてご紹介します。マンガやゲームでの超人的な活躍が人気の忍者は、実際の戦いではどのような活躍をしていたのか? 謎多き忍者の実像に迫ります!

戦国のスパイ・忍者の実像とは?
夜闇に紛れて敵地に忍び込み、煙幕によってドロンと消え、魔法のような忍術を使って任務をこなす──。少年・少女時代にアニメやマンガで忍者を知り、その超人的な力に憧れた人も多いのではないでしょうか。海外でも「NINJA」は大変な人気を誇っており、忍術を学びに来日する外国人も多いのだとか。

しかし、闇の存在である忍者は資料に残りにくく、忍者が使用したとされる忍法も口伝で継承され、文書にまとめられたのは江戸時代以降のこと。そのため、彼らがどのような能力を持ちどのように活躍していたのか、実際のところはよくわかっていないのです。

忍者の起源は、聖徳太子が用いていた「志能備(しのび)」説や天武天皇に仕えた「多胡弥(たこや)」説、役行者説などはっきりとしませんが、古代から権力者たちが情報収集や汚れ仕事などをこなす工作員を使っていたことは間違いないようです。中世に入り合戦が頻発するようになると、こうした諜報活動を専門に行う集団が形成され、忍者集団へと発展していきます。

では、実際に戦国時代の合戦で忍者はどのような役割を担っていたのでしょうか。

まず、最も重要な任務は合戦前の「情報収集」です。戦国大名たちは、あらかじめ敵地に忍者を潜入させてその国の政治・経済などの情報を収集。得た情報を元に、自国の軍事や外交方針を決定していました。戦国屈指の切れ者と評される武田信玄も情報戦を重視した一人。彼は、「三つ者(みつもの)」や「素波(すっぱ)」と呼ばれるスパイを全国に潜入させて情報を収集していたそう。合戦の際も、敵軍の編成や戦場の地形などの情報を集め、必ず勝てる作戦を立てていたといいます。甲斐(山梨県)からほとんど動かないにもかかわらず、諸国の事情に精通していた信玄を他国の大名たちは「足長坊主」と呼んで恐れていたのだとか。

次に、忍者たちは合戦がはじまると放火や夜討ちなどのゲリラ戦を仕掛けたようです。大名家の軍法や武将が部下に出した書状に、「忍者が火付けや夜襲をかけても、持ち場を離れず上からの指示を待つように」という内容が散見されることから、忍者たちの奇襲は敵陣を混乱させる効果があったことがうかがえます。

攻城戦においては、忍者たちが城に潜入して城内を混乱に陥れる「忍取(しのびとり)」が行われていました。徳川家に仕えた大久保忠教(おおくぼただちか)が記した『三河物語』では、家康が今川氏から独立する一連の合戦の中で、伊賀忍者たちが上ノ郷城(愛知県)に潜入し、城主の首を取ったという内容が記載されています。

また、忍者が奇策を用いて城攻めを手助けした例もありました。それは、出雲の守護代である尼子経久が守護の京極氏によって居城・月山富田城(島根県)から追放された時のこと。経久は毎年元日に月山富田城で芸を披露する「鉢屋衆」に協力を依頼。鉢屋衆は芸で城主や家臣の目を引きつける一方で、城内のあちこちに火を放ちます。そして、彼らの合図で隠れていた尼子兵が城に侵入。見事月山富田城を奪い返すことに成功したのでした。この後、鉢屋衆は尼子お抱えの忍び集団として庇護を受けるようになったといいます。

なぜ忍者は伊賀と甲賀で発展したのか?
そんな忍者たちが最も活躍したのは、大名や国人たちが覇権争いを繰り広げた戦国時代です。その中でも特に有名なのが伊賀忍者と甲賀忍者。伊賀忍者は現在の三重県伊賀市・名張市にあった伊賀国、甲賀忍者は現在の滋賀県甲賀市にあった近江国甲賀郡を本拠地とする忍者集団です。この地域は現在も忍者の里として有名ですよね。忍者を扱った作品でも必ずといっていいほど登場する忍者の二大流派ですが、なぜこの地域で忍術が発展したのでしょうか。

伊賀国は大軍を動かしづらい山岳地帯にあったため、国全体を統治するような有力大名がおらず、国人と呼ばれる小領主が林立していました。彼らは国人たちを束ねる有力者である服部氏・百地氏・藤林氏を中心とする自治組織を形成。この三氏は「上忍三家」と呼ばれることもあります。国人らの勢力は次第に拡大し、伊賀国全体で一致団結して外敵に対抗する「伊賀惣国一揆」にまで発展しました。

甲賀も伊賀と同様、山がちな地形から有力な統治者が現れず、国人たちによる合議で政治を行っていました。伊賀忍者と違うのは、甲賀国人たちがみな対等だったこと。合議に参加する国人は平等に発言権を持っており、議論がまとまらない時は多数決で物事を決めていました。

ちなみに、創作物では決して相容れない宿敵のように描かれることが多い伊賀忍者と甲賀忍者ですが、実際は周辺の大名に対抗するため、協力体制を取ることが多かったようです。

小規模な国人が林立していた伊賀と甲賀には、多数の城が築かれていました。小領主の城であるため、構造は1〜2個の曲輪を堀で囲んだ程度の単純なものですが、特筆すべきはその数の多さ。なんと、甲賀には約250城、伊賀には600城以上の山城が確認されているのです。なぜ、小国にこれほどの城が築かれたのかというと、城のネットワークを利用して大勢力に対抗するため。地域一帯に無数の城を築いておくことで、自分の城が落ちても近くの味方の城へ逃亡して反撃を仕掛けるゲリラ戦を展開できるというわけです。

このように、合戦ではなくてはならない存在だった忍者ですが、戦国時代が終わり泰平の世になると活躍の場を失い、幕府や大名家の隠密となった者以外は、困窮するようになり忍術は廃れていきます。一方、庶民の間では忍者が登場する創作物が流行。児雷也や飛加藤など派手な忍術を用いて八面六臂の活躍をする忍者がもてはやされ、戦国時代までとはかけ離れた忍者イメージの原型が形成されていったのです。

お城情報WEBメディア「城びと」
2020年7月初出の記事を再編・再掲載



自民・萩生田氏と生稲氏 参院選選挙運動中に旧統一教会の関連施設を訪問
2022/08/17 10:39 TBS NEWS DIG



自民党の萩生田政調会長が今年の参議院選挙で初当選した生稲晃子氏とともに旧統一教会の関連施設を訪問していたことが分かりました。

生稲氏の事務所によりますと、萩生田氏と生稲氏は6月、東京・八王子市内にある旧統一教会、現在の世界平和統一家庭連合の関連施設を訪問しました。当時、生稲氏は7月10日の参議院選挙の投開票に向けて街頭活動などを展開していました。

当日は別の場所で演説を行っていましたが、演説を聞いた人から「他にも仲間が集まっているので、お話を聞かせてもらいたい」と依頼を受け、萩生田氏とともに施設を訪問したということです。

生稲氏の事務所は「新人の立場ですので、より多くの方に政策を聞いていただきたいという思いでスタッフが判断しました」としたうえで、この件以外に生稲氏が教団や関連施設へ訪問したことはないとしています。

一方、萩生田氏は今月2日の会見で過去に教団主催のイベントであいさつしたことは認めていましたが、「地元の皆さんのなかに関係者がいたのかもしれないという認識です」などと述べ、教団側と知ったうえで関係を持ったわけではないとの立場を示していました。

また、今回の件については公表していませんでした。

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旧統一教会系に会費6万円 自民萩生田氏、継続的な関係か
2022/08/17 21:21 (共同通信)

萩生田光一政調会長

 自民党の萩生田光一政調会長の資金管理団体「はぎうだ光一後援会」が2012年と14年、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体に会費を支出していたことが17日、分かった。萩生田氏が代表を務める自民党東京都第24選挙区支部も15、17両年に同様の名目で支払い、いずれも3月で計6万円を支出していた。教団側との継続的な関係性を疑わせる支出が明らかになった。
 萩生田氏は、死去した安倍晋三元首相の最側近として知られる。今月の内閣改造・党役員人事で経済産業相から党要職の政調会長に就任しており、説明責任が問われそうだ。




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