明晰夢工房

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異性とは目も合わせないニートになれ!という「ヤバい教え」をなぜ信じるのか?ニー仏『だから仏教は面白い!』(kindle unlimited探訪7冊目)

 

 

「ニー仏」こと魚川祐司さんによれば、仏教、少なくともゴータマ・ブッダが説いた初期仏教は「ヤバい宗教」だったという。ヤバいといっても、危険だとか反社会的とかいう意味ではない。現代日本人の常識からはかけ離れた部分がある、ということだ。なにしろこの本では、冒頭から「異性とは目も合わせないニートになれ!」ブッダは出家者に説いた、とくり返し語られる。人間の自然な欲求に真っ向から逆らう教えだ。出家者は女性と冗談を言って楽しむのもいけないし、女性と会話したことを思い出すのもいけない、という経典もある。あまりにも厳しいので、梵天ブラフマン)がブッダのもとにあらわれ、説法するようにお願いしても、ブッダが断ったというエピソードまである。自分の教えが自然な人情に逆らうものだということを、ゴータマ・ブッダもよく理解していたのだ。

 

なぜ、こんなに厳しい教えに従わなくてはいけないのか。もちろん仏教の究極的な目的は悟りを開くことなのだが、別に悟らなくたって、人はそれなりに生きていける。確かに仏教が説くように、この世は苦(=不満足)で満ち満ちている。どんなに豪華な服を着ても、美しい伴侶を得たとしても、満足感はいずれ逓減する。だから人はまた新しい刺激を求め、飽くなき欲望を追求する。どこまでいっても煩悩が完全に満足することはない。

とはいえ、ニー仏さんが説くように、もし人生が一回きりなら、「快楽と苦痛のバランスシートで、一生のあいだに快楽のほうをプラスにできれ ば、それで人生は勝ち」ではある。「刺激ジャンキー」として生きたとしても、苦痛より快楽の多い人生だったなら、一生の終わりに「まぁいい人生だったな」と思いながら最期を迎えられるかもしれない。輪廻転生を信じない人なら、そんなにいやな思いをせず生きられればいいのだ。

 

だが、それはあくまで人生が一回きりなら、の話だ。ゴータマ・ブッダが生きた時代の人々はそうはいかない。なにしろ古代インドでは輪廻転生があたりまえのこととして受け入れられているのだ。さんざん頑張って一生かけてレベルを上げたのに、突然どこかで電源を落とされ、また生まれ直してレベル1からはじめる人生が延々とくり返される。この「永遠のRPGのレベル上げ」のような、不満足の生が続いていくのがインド文化圏における輪廻転生のイメージだ、とニー仏さんは説く。生まれ変わりが永遠に続くことが苦なのだから、ここから解脱したいと考える人が出てくる。出家して「異性と目も合わせないニート」になる動機がここに生まれることになる。

 

解脱して悟りに至るにはどうすればいいか。「仏教の実践」を読むと、テーラワーダではまず戒を守ることで、身体と言葉に表現される煩悩を抑制できると教えていることがわかる。だがこれだけでは心にあらわれる煩悩までは抑制できない。ここでサマーディー(定)が必要になる。サマーディーとは集中することで、実践法としては瞑想になる。瞑想で集中力を高めていくと知覚が変化し、「如実知見(=ありのままにものごとを見ること)」に近づくことができるというのだが、ここは言葉では説明できない領域になる。瞑想などに縁がない身からするとそういうものか、と思うしかない。

戒を土台として定を修めたあとは「智慧」(慧)が必要になる。業の潜在的エネルギーは戒と定だけでは滅することができないため、この源泉自体を智慧の力でふさいでしまわなくてはいけない。煩悩の流れをせき止めるために気づき、マインドフルネスの実践が大事になるが、ただ気づき続けているだけでは解脱には至らない。7章を読むと、どうやら気づき続ける修行をさんざんやったあとに解脱をもたらす「智慧」が生じてくるようだけれども、それがどういうものかは正直よくわからない。とにかく智慧を得ると「決定的で明白な実存の転換」が起こり、世界の見え方がまったく変わってしまうのだそうだ。そこまで行ったら、もう異性と目を合わせなくてもつらくはない。もうそんなものに執着することはなくなるのだ。

 

このように、輪廻の輪から抜け解脱したい人のために、仏教ではいろいろと守るべき決まりごとを設けている。では、「異性と目も合わせないニート」になる気がない人にとって、仏教の教えは意味がないものだろうか。必ずしもそうではないと思う。この本の6章では、「煩悩とは縁、つまり原因や条件によって生じたものにすぎず、それをあなた自身と思い込んではいけませんよ」とブッダが説いたことを指摘している。欲望とは勝手に心に浮かんでくるものでしかない、とドライに割り切れば、自分の欲の深さにあきれて自己嫌悪におちいることもない。それに、欲望が自分自身ではないと知ることで、それに振りまわされるのをふせぐこともできる。ニー仏さんに言わせれば、煩悩のままにふるまうことは人間の「ロボット化」だ。欲望の奴隷にならず、自分の行為や心理に自覚的になることで、「己こそが己の主人」であるような生き方に近づいていくことができる、とこの本では説かれている。この本でいう「金パン教徒(=金銭欲と性欲のために生きる者)」として生きるのもいい。でも人生はそれだけではない。欲望に振りまわされるのとは別のモードも人間にははあるのだ、という視座を与えてくれるところに、仏教のよさがあるのではないだろうか。