八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神と人との唯一の仲介者」 2021年4月25日の礼拝

2021年06月25日 | 2021年度
詩編110編4節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は誓い、思い返されることはない。
 「わたしの言葉に従って
 あなたはとこしえの祭司
   メルキゼデク(わたしの正しい王)。」


テモテへの手紙 一 2章4~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

  神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。


  神と人との間の仲介者はキリスト一人だと聖書は告げます。このことは、私たちには神との間に入ってくれる仲介者が必要だということを示しています。仲介者が必要だということは、神と私たちとの関係は極めて悪いことをも意味しています。「神は愛である」と記している聖書の言葉からすると意外かもしれません。しかし、神が愛であることは、キリストという仲介者があって初めてそのように言えるのです。
  聖書は、私たち人間が神に対して罪人であり、それ故、神に近づいたり、神を見ることができないと記しています。罪により人間ははなはだしく汚れており、完全で絶対的に聖である神を見たり近づいたりすると死ぬと考えられました。
  そこで、神は、私たち人間の罪を取り除くための方法を示してくださいました。それが贖罪という儀式でした。贖罪のために動物が献げられ、その動物の血が流されることによって献げた人の罪が取り除かれるとされたのです。その動物は傷のないものでなければならず、そのため、犠牲としてささげられる前に入念なチェックがされ、傷が見つかれば献げることはできませんでした。こうして、この贖罪は神と人間とを間の仲介の働きをしたのですが、その儀式を司る祭司もまた、仲介の働きをしたと言えます。
  しかし、贖罪の儀式や祭司は不完全ものでした。なぜなら、贖罪の献げ物は繰り返し繰り返し行わなければなりませんでした。完全に罪を取り除くことができるのであれば、何度も繰り返す必要はなかったはずです。また、祭司も贖罪の儀式をする前に、自分を清めなければなりませんでした。祭司も罪人だからです。このように贖罪の供え物も祭司も不完全でしたが、完全な贖罪の供え物を献げ、また祭司として完全な方として、人となられた神の独り子が私たちのところにおいでになりました。それが主イエス・キリストです。
  主イエスは十字架にかかられ、血を流され、動物よりはるかに勝る贖罪となったのです。それまで、ずっと繰り返されてきた贖罪のための動物は、主イエスの十字架という完全な贖罪によって、もはや献げる必要がなくなったのです。
  主イエスは神の独り子で、人間となられました。こうして、罪のない人間となって十字架にかかり、完全な贖罪の供え物となられたのです。十字架によって死んだ人は無数にいますが、彼らの死は贖罪の死とはなりません。なぜなら、献げられる動物が傷のないものでなければならなかったように、人間が贖罪の死となるためには罪のない人間が必要でした。しかし、全ての人間は罪人であり、傷のある動物と同じす。贖罪には適さないのです。それで、完全な贖罪のために、神はご自身の独り子を地上に送り、罪のない人間として生まれさせたのです。罪のない人間、すなわち主イエスが御自身を贖罪の供え物と献げたことにより、それまでのどの祭司よりも完全な贖罪の業を全うしました。こうして、主イエスは神と人との完全な、そして唯一の仲介者となられたのです。主イエスは、天に昇り、神の右に座しておられ、今も私たちのとりなしをしてくださっています。こうして、神と私たちの間の仲介者としての働きを続けておられるのです。
  教会は、主イエス・キリストの贖罪を証しし、神との和解を得ていると告げ知らせます。こうして、教会は神の恵みとしての和解の勤めを担い、その意味で、教会もまた仲介者としての務めを担っていると言えます。


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