FIRE: 投資でセミリタイアする九条日記

九条です。資産からの不労所得で経済的独立を手に入れ、自由な生き方を実現するセミリタイア、FIREを実現しました。米国株、優待クロス、クリプト、太陽光、オプションなどなどを行うインデックス投資家で、リバタリアン。ロジックとエビデンスを大事に、確率と不確実性を愛しています。

年利100%以上で貸していたサラ金とは何だったのか

昨日、『サラ金の歴史』という新書を読みました。いまでは銀行傘下に入ってすっかり存在感をなくしたサラ金ですが、20世紀にはCMの花形であり、社会問題にもなった一大産業だったのです。本書は、否定的立場でも肯定的立場でもなく、成り立ちからファクトを追っていくという、貴重な一冊でした。

サラ金のざっくり歴史

では、サラ金のざっくりとした歴史をまとめてみます。

  • 1929年 日本昼夜銀行「サラリーマン金融」開始
  • 1960年 団地金融開始(日本クレジットセンター)
  • 1960年 勤め人信用貸し開始(マルイト、のちのアコム)
  • 1973年 ポケットティッシュ配り開始
  • 1983年 貸金業規制法・改正出資法 上限金利109.5%→73%に
  • 1986年 出資法上限金利73%→54.75%に
  • 1991年 出資法上限金利40.004%に
  • 1993年 アコム 自動契約機「むじんくん」投入
  • 1994年 アコム、プロミス上場 (その後、CM盛んに)
  • 2000年 各法 上限金利40.004%→29.2%に
  • 2007年 大手4社赤字転落、銀行傘下に
  • 2010年 改正貸金業法上限金利29.2%→20%

サラ金の歴史で面白かったのは、その源流が素人高利貸し、つまり友人や同僚からお金を借りるところにあったという話です。初期のサラ金創業者たちは、そこから出発して、次第に規模を拡大していきました。

 

その中で、個人への無担保貸付の技術を磨いていきます。貸金業は、いかに正確に素早く安く与信をするかがポイントです。そのために編み出された技術は次のようなものがあります。

  • 団地(現UR。入居には厳しい審査が必要だった)に入居していればすぐに貸す
  • 勤め先が上場企業ならばすぐに貸す 「人に貸すんじゃなくて会社に貸すわけです」

また借金を借金と感じさせない技術も進歩しました。

  • 「現金の月賦」という表現
  • 「現金の出前」という表現
  • 自動契約機「むじんくん」

このあたりの貸金技術は、現代でも進歩が続いています。いわゆるスマホ金融においては、各社が「属性によらない与信」を標榜し、行動履歴などで与信をできるように技術を開発しています。

 

借金を借金と感じさせない技術も進歩を遂げています。現金を手元に入手する形ではなく、スマホ決済のバリューとして貸し付けるLNEの「ポケットマネー」やKyashの「イマすぐ入金」、バンドルカードの「ポチッとチャージ」などは、借金をしている感覚がほとんどないでしょう。それどころか、Kyashやバンドルカードの場合、バリューという品物を後払いで購入するという建て付けになっていて、法的には貸金でもなく、さらに2ヶ月以内返済とすることで割賦販売にも当たらないという、脱法的なスキームになっています。

サラ金のビジネスモデル

もう1つ、面白かったのが、サラ金のビジネスモデルです。サラ金というと、集客、与信、そして回収がキモで、たしかにここが重要なのですが、実は成長の原動力は別にありました。資金調達です。

 

サラ金を製造業に例えてみると、まず原料としての現金を用意し、それを加工(貸付商品化)して、販売(集客、与信、回収)するというモデルです。加工の部分にあたるどのくらいの利息にするかは法律で規制されていてほぼ各社共通。販売部分の技術が向上したため、お客のニーズは大量にある。となると、事業の制約となったのは現金の用意でした。

 

当初は、お金を持った個人、いわゆる「金主」から現金を調達して事業をやっていたサラ金ですが、やはり飛躍の要因となったのは銀行からの借入です。例えば、武富士が業界トップに躍り出たのは、卓越した銀行からの資金調達でした。

 

当時の貸出金利は年利100%を超えており、銀行から10%程度で資金を調達できれば、凄まじく利益が出るという状況でした。そして銀行側も、高利で貸し出せるサラ金にどんどん融資をしていたようです。

 

走りとなった東京相互銀行は、1978年当時で武富士に29.7億円(金利10.7%)で貸し付けています。現在の価値で100億円弱といったところでしょうか。

武富士は、融資を受ける見返りに同行の株式を100万株購入しており、これは株主総会を(東京相互銀行の)長田会長に有利に運営するための「勢力株」だった。

武富士が業界トップとなったのは、このように銀行と良い関係を築けた点が大きく、実はサラ金の命運は銀行が握っていたともいえます。途中、不況で銀行の貸出先がなくなり苦しくなったときには、資金ニーズのあるサラ金の地位は向上し、外国銀行からの借入なども積極化していますが、「原料としての現金」調達能力がサラ金各社の重要な競争優位性でした。

下がり続ける貸出金利

最初の歴史のところで太字にしたのは、貸出金利の下落です。サラ金がこれだけ隆盛したのはひとえに貸出金利が高かったせいで、没落したのは金利が規制されたからだともいえます。

 

1983年の規制前は、普通に年利102.2%で貸し出しており、それは儲からないほうがおかしいよねという感じです。

 

しかし、ひたすら規模の拡大を目指したサラ金各社は、回収が期待できない人にも貸付を推進します。

1973年度のプロミスの社内目標は「求めるすべての人にサービスを」とされ、74年4月には「“無駄足を踏ませない”100%融資体制の強力な推進」、76年1月には「100%融資の完全実施」が重点目標とされた。

熾烈な競争の中で、基準を厳しくしていては生き残れない。そのため、ひたすら規模の拡大に進んだといいます。その結果、役所が見放し、生活保護が受けられないような人に対してもサラ金は融資を行い、セーフティーネットとなるという奇妙な事態でした。

 

一方で、誰にでも貸していては回収ができなくなります。それに対応するため編み出されたのが、現在のJICCにつながる民間の信用情報機関の誕生でした。各社でブラックリストを共有することで、悪質な借り手を排除したのです。

 

そしてもう一つが団体生命保険の導入でした。住宅ローンでおなじみの団信です。このことで、事故などによる返済途絶は防げたものの、自殺が急増するという結果をもたらしました。この頃、取り立ても「返せないなら死んで生命保険で返せ」という方向にいき、苛烈な取り立てとして社会問題化していきました。

 

その後、業界のロビーイングにも関わらず、上限金利は引き下げられ、さらに過払い金請求も発生し、武富士は倒産、アコムは三菱UFJの傘下に、プロミスは三井住友FGの傘下に入りました。レイクは、米GM系に買収されたのちに新生銀行に譲渡され、新生銀行自身が行う銀行カードローンブランドとなりました。独立系として上場維持しているのはアイフルだけです。

 

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