昭和天皇がジメジメの防空壕から、吹上御所にお引越しするまで

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この記事では、戦争中からお住まいだった「御文庫」から、昭和天皇が終の棲家として使われた吹上御所にお引越しするまでの話を書いていきます。

フツーの人だって、こんな場所に住んでいたらサッサと引き払いたくなるよ

…と思っちゃうくらいの住環境だったのに、ずっと防空壕に住み続けた理由なども含めてご紹介します。

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突貫工事で作った「御文庫」

昭和天皇が終戦のとき住んでいたのは昭和16年に建設が開始され、翌年に完成した御文庫でした。

大きな建物だが、天皇の生活スペースは4部屋、のべ40畳ほどしかなかった。

これは戦争中に造られたもので、爆弾に抜かれても困るから屋根のコンクリートが分厚くほどこされ、爆弾除けの砂もたっぷり詰まっていました。

そのため、中の気温は夏は涼しく、冬は割と温かい感じでしたが、問題は湿度。

何分突貫工事で、本来ならば中に詰める砂も十分に乾燥しなければいけないのに、そんなことお構いなく、

降った雪といっしょに詰め込んでしまっていたわけです。それなんで、コードを伝って錆びた水がポタポタと落ちてくる。

さらに地下室も、湿気が上がってくる。

窓は爆風に対応するため小さくとってあるから風通しも悪く

長年侍従長を務めていた入江相政さんが自著「天皇さまの還暦」で、職員のロッカーにスーツを吊るしておくと2,3日で服がしけってしまう、と語っていました。

ジメジメで、日も差さない、風通しも悪い。まるで古今亭志ん生のなめくじ長屋みたいな環境で、

侍従も侍医も「早く新しいお家を」と焦るのも無理はない環境でした。

国民はみんなバラックに住んでいる!

ところが、ひとり昭和天皇だけが頑として納得しない。

「国民は掘っ立て小屋のような建物で毎日生活している。私にはちゃんと屋根があるではないか?」と。

いくら、お体に障ります…と言ってもだめ。「印象論ではダメだ。科学的でなくては」と学者の視点から反論しました。

それならば、と建築衛生の専門家に見てもらうと、口を揃えて「なんかコンクリートの塊を作って温度や湿度の実験でもしているようだ」とあきれ果てるほど。

ともあれ、検査機器を使って一年間調べてみると、結果は「人間の住む環境としては最悪」と出ました。当たり前ですが。

そこまでやって、やっと陛下は工事を許可。両陛下には宮内庁の一室の仮住まいに移ってもらって開始しました。

天井に穴を空けたら水がドバドバ出て来たのです。ひどいところだと大型のドラム缶2杯半(ということは総量はもっと多い)というから、そりゃ部屋の中ジメジメになるわな。

そこに、湿気がのぼってこないように床に石綿をつめたりして「スーツが湿気るほど」の状況は改善。

しかし、日差しの悪さは相変わらずで、さらに5,6年をここで過ごすことになりました。

 渋々OKを出してもまだ、躊躇う

話が変わってきたのは、戦中炎上した明治宮殿に変わる、新たな宮殿建設計画が持ち上がった後でした。

宮殿は天皇が住むためではなく、海外からの賓客をもてなしたりする施設だから、陛下もコレには文句を付けませんでした。

しかし、これが自分の住む御所になると途端にガンコになるので、側近たちも頭を抱えてしまう。

だけど、そんなこと言ってたら陛下も更におじいちゃんになるし、

なんとか押し切って、渋々建設を了承してもらったのです。1960(昭和35)年7月のことでした。

愛娘の死を乗り越える力になった

実はこの頃から長女の東久邇成子さんの体調が悪化していました。

宮内庁病院であらゆる手を尽くしましたが

若年性のガンで、1961(昭和36)年7月23日に薨去されました。

愛娘を亡くし、髪にも一気に白いものが混ざり始めた、といいます。

そんな中でも少しずつ出来上がっていく御所は悲しみを乗り越える力にもなったでしょう。

同年11月20日、御所が竣工。ご住居は「吹上御所」と命名されました。

御文庫の前に建設された、吹上御所

同年12月8日、昭和天皇、香淳皇后両陛下はスリッパを持って新居の吹上御所へ。

「こんないい家に住めるのも、みんな国民のおかげだ」とのお言葉を残しています。

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