珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

溶岩を食べる覚書|食べるな

休日から休日までが早すぎるメイド・イン・ヘブン状態

以前ほど休日が楽しみではなくなったのは、休日にも平日のような頭で生きているからであろう。平日と同じことを考えて過ごしていると言い換えてもいい。ただ苦痛を立ち食いしているか、苦痛をごろ寝で齧っているかの違いである。結局口にしているものが同じなのだから、違いといえばせいぜい、立ったままか寝転がっているかによる肉体の損耗の多少であって、それさえも口にしている苦痛の度に比べればなんてことはないのだ。立ったまま溶岩を食らうのと寝転がって溶岩を食らうのとで、苦痛の度に一体なんの違いがあろうか。溶岩を食らうのをやめろ!……だがしかしどうやって?溶岩でも食らわねば飢えて死ぬのである。ならばいっそのこと飢えて死ぬがよい!……その勇気と度胸があったなら、私はとうに火口から這い出ているはずである。

 

アツゥイ!

あるいはこうだ。自分の中でグラグラ煮え滾って今にも噴き上げそうなマグマ、それが溢れるそばから口をつけて必死に啜り、なんとか噴火を抑えているのだと。自分で吐いた二酸化炭素を自分で吸っているような具合に。自分のマグマは熱くて最悪だし、自分の二酸化炭素は苦しくて最低だ。いっそ他人に食わせて処理してやりたい。私のマグマが他人の口に届く頃にはもうだいぶ冷えて熱さがマイルドになっているだろうし、私の二酸化炭素が他人の肺に届く頃にはもうだいぶ周辺の空気で誤魔化されているだろうから。私があなたのマグマを食らうから、あなたは私のマグマを食らっておくれ。私があなたの吐いた息を吸うから、あなたは私の吐いた息を吸っておくれ。なるほど。これが助け合いの精神で、共存で、共生で、人の、人々の、まこと碌でもない生き方というわけ。

 

やっぱかれぇわ

自分の苦痛は食うに堪えない。でも他人の苦痛ならまあ食えなくもない。苦痛と言っても所詮は他人事だし。例えばここに、大切な試験に落第した人が抱えている苦痛があるとするでしょ。で、それを食う。ぐああああ。苦しい。どうして。なんで。どこが悪かったんだろう。目の前が真っ暗になる。このあとどうすればいいんだ。もっと勉強していれば。後悔してもし尽くせない。絶望で身がちぎれそうだ。このまま失踪してやろうか。いっそ身投げしたい。それくらいの苦痛が襲ってくる。でもよくよく考えて欲しい、あなたは落第していないし、そもそも試験すら受けていないのだ。苦しいには苦しいが、実際こちらにはなんの被害もないのである。「辛いんです」と「辛いんです」の間にそびえ立つ山の高さを測ったことがあるかね?程度によっちゃあ、自分の苦痛を茶碗1杯平らげるより、他人の苦痛をどんぶり3杯平らげる方がよっぽど易い。何故ってそりゃあ、他人事だからさ。他人カレーの3辛と自分カレーの1辛が同じ辛さってわけ。あっこの場合はつらさじゃなくて、からさって読んでください。カレーなので。つらいカレーは誰でも嫌だと思います。私も嫌です。「赤の他人の苦痛体験VRみたいなソフトが開発されたとして、それでどこまで他人カレーの辛さと自分カレーの辛さを近づけられるか?って話なんですけど、まあ、所詮は追いスパイスの域を出ないでしょうね。

 

それ休日のなんたるかが余計に分からなくなるやつだゾ

そうそう私は今回苦痛の話をしに来たんじゃなくて、ええと……なんの話をしに来たんだったか……平日の気分と休日の気分でそう大差ないのひどくないですか?って話だったか……苦痛の話やんけ!まあそれはどうでもいいとして、平日の気分と休日の気分に差をつけたいのなら、平日をより平日らしく、或いは休日をより休日らしく生きればいいだけの話なんですよ。平日にこれでもかというくらい平日すれば、休日にぼんやりしているだけでもわあい休日だという気分に浸れるだろうし、休日にこれでもかというくらい休日すれば、その時点で全ての問題は解決するわけです。休日にこれでもかというくらい休日するというのは、アレです、かつて休日に休日することに一生懸命になりすぎるあまりその隙を突かれて戦に負けた人々がいたそうですが、あれくらい休日するのです。次の休みは一生懸命休日をしよう。全身全霊で休日をしよう。精根尽き果てるまで休日をしよう。そうすれば、休日のなんたるかが見えてくるかもしれない。