アメリカは、十全な意味でキリスト教国とは言えませんが、それでも多くのキリスト教徒が存在します。

そんなアメリカ人の意識調査で、アメリカ人の4割程度が「原爆投下は間違っていなかった」と考えているという結果が──7年くらい前ですが──報道されました。20世紀の段階ではもっと多くの人が原爆投下賛成派だったと記憶しています。

 

一般の日本人にとっては信じられない感覚ですが、この4割のアメリカ人の中にキリスト教徒も多数いることを考えると、彼らはどういう理屈で、無防備な市民に向けて原爆を投下することを「正しい」と言えるのだろうかと不思議でなりません。私など、そういったアメリカ人のキリスト教徒に「その説明を神の前でできるのか」「福音的に解説してくれ」と問い詰めたくなります。

 

おそらく、彼らは漫然とキリスト教徒だと自覚しているだけなのでしょう。つまり、

 

「キリスト教徒として育った感覚」×「アメリカ人としての保身」=原爆投下肯定のキリスト教徒

 

なのだろうと思います。

教会で「主の祈り」を唱える人が同じその口で「原爆賛成」を語る姿など、あまりにもグロテスクです。まじめに神の言葉と照らし合わせて原爆投下の問題を考えているとは思えません。

 

 

ここでいう「保身」とは、「自分の立場や環境を守ろうとすること」ですが、そのこと自体は悪いことではありません。しかし、キリスト教徒であるはずの彼らが、本来のキリストの教えと大きく矛盾する判断をしてしまうのは、実生活に関わる「アメリカ人としての保身」のほうを、(意識的にか否かは別にして)聖書や教義よりも優先しているからだと思われます。


私も何かの判断をするとき、

 

「カトリックの教えを信じ、洗礼を受け、教会に行っている自分」×「日本人としての保身」

 

を誤った形で連動させないようにしなければならないと思いました。

 

「日本人としての保身」の度が過ぎると、結果として、神の言葉よりもパンを求めることになってしまうこともあり得るからです。

 

 

【2022.4.15 追記】

ロシアのウクライナ侵略に対し、ロシア正教のキリル総主教がプーチンの行為を全面的に支持し、祝福を与えているのも、この悪しき一例だと言えるでしょう。

 

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日本の真珠湾攻撃の是非や、その後の世界における自衛や国防の問題はここでは論じていません。ただ、「原爆」という、あまりにも異常な殺戮兵器を「戦争を終わらせるため」だとはいえ、庶民に対して行使することが「正しかった」という意見に対して、それはキリスト教的発想ではないと言いたいのです。

 

また、混沌とした現代社会にあっては、キリスト教徒が、一個人として、神の前で申し開きができるような判断と行動をすることがますます求められるのではないかと思っています。誰もが陥りやすい「保身」という罠にかからずに、カトリック的中庸をもって判断を間違わないようにしたいと願っています。

 

余談

小学生の頃、ゲームセンターに「人殺しゲーム」がありました。車で走りながら人を轢き殺す、というゲームです。それを見つけた友人に誘われるままゲームセンターに行ったのですが、そのゲーム機は取り除かれていました。やはり設置に反対する人がいたようです。当時は「たかがゲームなのに、なぜ?」という思いでした。

 

大人になってからも、ゲームセンターでゾンビを撃ち殺すゲームをしようと順番待ちしたことがあります。そのときは、ギャラリーが多く、待ち時間も長そうなのでやめましたが…。

 

今、相手がゾンビやモンスターであろうと、人間であろうと、「敵」を殲滅させるゲームが流行っています。CMでも普通に流れていて老若男女問わず人気があるようです。「日本人って、こんなに戦いが好きだったかな」という感じがします。もちろん遊びは遊びですが、命を取る、相手の存在を消滅させる、という行為に、ためらいを感じることも大事なのではないかと、年を取ったのか、想うこの頃です。