ぎっくり腰になってからさぼってました。

 

 

私は自分が発達障害になって障害者になるまで

「障害者」という考え方自体を考えたことがありませんでした。

 

 

私の親戚には知的障害があって自閉症の子がいるのですが、

単純に殴られたり、物を投げられたり、大音量で音楽を聴いていたりするのが嫌で今でも嫌いです。

 

 

正直、同じようなタイプの子には恐怖心しかありません。

いつ殴られるか、物を投げられるか、不安です。

 

 

これって、以前に犬にかじられたから

またかじられたらどうしようという感覚と似ていると思います。

 

別にその子を動物に例えているという意味ではなく、

一度そういった経験をしたら大型犬だろうが小型犬だろうが怖いんです。

 

大きさとかじゃなくて、犬という対象自体が怖いのです。

 

 

それが平気な人には伝わりません。

 

 

 

子供の頃近所には目の見えない人の通う学校が近くにあったからか

たまに遊ぶ目の見えない子がいました。

 

 

お母さんにこの子と一緒に遊んでくれてありがとうといつも言われていましたが、

この子が目の見えない子であることを考えたことはありませんでした。

 

 

ただ、自分より大きい子だったので、小学校に入ってからは同級生との交流が増えてその子とは遊ばなくなりました。

 

 

中学校の時、言語障害のある子で恐らく自閉症も患っているであろう喋れない子が教室に居ました。

 

 

な、ぜ、か

 

私が隣の席に指定され、私がその子の面倒を見るように言われました。

 

 

ただ、この時にも私はこの子が障害者という考え方をしたことはありませんでした。

 

 

ですが、机をがたがた揺らしたり、口にくわえた指で触ってきたり、いきなり立ち上がったり他にも諸々されるので本気で嫌いでした。

 

 

でも、その子と仲良くなりたいと一生懸命にかかわっている人がいて、

こいつすげーなといつも感心していました。

 

 

しかし、その子のかかわり方はその子にとっては適切ではなかったらしく

後日一生懸命関わっていたその子は呼び出され、

いじめを行っていたと教師に厳しく注意を受けていました。

 

 

傍から見ていても別にイジメ感は感じなかったのですが、

結局のところ本人の感じ方次第なので致し方ないのかと思いました。

 

 

一生懸命にかかわったその子は仲良くなりたかっただけなのにと泣いていました。

 

 

そんな中私は、いなくなってくれて清々したと思っていました。

 

 

嫌な思いを我慢して対応していた私と

仲良くなりたくて一生懸命だったその子

 

 

どちらが合理的配慮だったのでしょうか?

 

 

私にはわかりません。

 

 

それでも障害者という言葉を意識したことはありませんでした。

 

 

その後にも発達障害だけでなくLGBTや身体障害の方や色々な方とのかかわりがありました。

 

 

私的には一度も差別的意識を持ったり、

障害者やマイノリティという認識をしたことはありませんでした。

 

 

それこそ、マイノリティと言う言葉を知ったのも発達障害を知ってしばらくしてからでした。

 

 

ただ単純にそりが合わないことで嫌だなと感じたことはありますが、

障害を理由にその方を拒否したことはありませんでした。

 

 

 

障害等の要因を考えて相手を意識したことは

一度もありませんでした。

 

 

 

ですが、自分が障害者になって初めて障害者というものを意識しました。

 

 

 

 

すると不思議と障害者に対して向けられる周りの差別意識や、

障害者側に向けた自分の差別意識が芽生えだしました。

 

 

今までかかわってきた恐らく障害者であろう人々に対しても

あぁ、あの人も障害者だったんだと決めつけて考えるようになりました。

 

 

障害者になったことで障害者という考え方に固執してしまったのかもしれません。

 

 

そして、自分が障害者という認識になってから現在7年ほど経過しましたが、

今の私が感じている感覚としては

 

 

知らないものは差別しようもないし、

深くかかわりのないものは差ほど意識することもない。

 

 

といったものです。

 

 

要するに、知らないものを無理して知る必要はないと思っているということです。

必要になった際には知ろうと思わなくても入ってくると思いますし。

 

 

 

なんというか、変に知ってしまうと

ドツボにはまってしまって

あえて嫌なことを探してしまうのではないかと感じています。

 

 

それって恐らく、うつ状態とか言うような言われ方もするのでしょうが

ネガティブに対するエネルギーって本当にすごいんだなと逆に感心してしまいます。

 

 

私自身の経験則として、ある時ふと

 

もしかして自分はあえて嫌なことを探しているのではないか?

 

と感じたことがあり、

それを意識できるようになってからは

そういったネガティブを感じた時には

すぐにそれを捨てるというように出来るように努力しました。

 

 

それによって精神的な疲労はだいぶ軽減できました。

 

 

今でもそういうことを考えてしまうことはありますが

わんこのぷりぷりかわいいお尻の動きを見たりして癒されています。

 

 

結局何が言いたいのかというと

無理に知ってもらおうとすることは、

拒否反応しか生まれないのではないかと思っています。

 

 

 

ワンピースのルフィが言いそうで言っていない

ルフィのセリフと勘違いされているセリフナンバーワンの

 

 

「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ!!!」

 

 

というツギハギ漂流作家という漫画のセリフがあるのですが

まさにこの漫画のこのシーンで今の世の中の全体が形成されているような感覚を感じます。

 

 

例え正義のためであったとしても、

悪態で得た勝利では 誰も英雄とは呼ばないだろう。

 

 

ただ、何を心のよりどころにするかを選ぶのもまた自由。

ただ、どうせなら、楽しくありたい。

 

 

嫌いなところを探すのって簡単なんですよね。

でも、それってストレスたまるじゃないですか。

 

 

嫌いな人の嫌いなところを

嫌いじゃない人と共有できればすっきりするのかもしれないですけど。

 

 

結局嫌いな人を嫌いである事実は変わらないし、

嫌いな人という認識への不快感は変わらない。

 

 

だったら、嫌いな人にも嫌いな人を好きな人がいるという風に考えて、

私は嫌いな人は嫌いでも

嫌いな人を好きな人もいるんだから

その人と幸せになればいいんだと考えるようにしています。

 

 

別にわざわざ私が嫌いを語る必要なんてないし、嫌いを語る利点もない。

 

 

本当にただ嫌な嫌われている人って自然と孤立していくと思うんですよね。

 

 

そうじゃないってことは、自分では見えない素敵なところが沢山あるんだと思います。

 

 

まぁ、私は嫌いなものは嫌いなので、

極力関わらないようにしていますけどね。

 

 

レモンとか、お酢とか絶対食べないし。

 

 

でも、別にそれで困ることないし。

 

 

けど、好きな物を食べられないのは困る。

 

 

 

そういう考え方でいいんじゃあないかなと思っています。

 

 

 

 

 

 

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