『プラチナエンド』は残念な作品でした。
しろあです。
でも天使の概念が非情で、人間の感情とは別な常識で設定されており、
見方によって天使こそが”悪魔”じゃないかと思える作品でした。
前回紹介したこちら『審判』でも、同じようなことを考えさせられます。
主人公の前に現れる2人の男。警察? にしては変だ。
男はいう。「俺たちはお前にとっての天使だ」。
(ここで演出上、二人がぼわんと白く光る)
『審判』を現実の物語と考えると、きっと2人は警察でしょうから天使じゃないんだけど。
作品を通して見ると、
もしかしたら主人公はすでに死んでおり、
その死後を決める審判の時間を過ごしているのではないか?
とも解釈できます。
そうなると、謎の2人の男は文字通り天使であった可能性がありますね。
そんな2人ですが。物語終盤、主人公を車に乗せて話している中で、
「へ、俺たちが天使だって」といって笑います。
そして2人はラスト、主人公を撲殺する。
実は2人は悪魔で主人公を裁いた、なんてことも考えられますね。
でも、本当は天使と悪魔は別々ではなく、同じじゃないの
と私は思っています。
私がそう考えるようになったのは『ダンテ・神曲』を読んだ時。
地獄編に登場する悪魔の描写をみていて気づいたんですよ。
悪魔の上司は、天界の神なんだって。
日本の地獄の概念もそうですよね。
地獄のエンマ大王も神様のしもべで、裁いて天界に行くか決める。
エンマ大王のしもべの獄卒、鬼たちも、つまり上司は神様のしもべとつながってるわけ。
天の使いが天使なら、鬼も天使なんですよ。
しかもしっかり自分たちの仕事をしてるんだから偉いです。
仏教の説話に「天国と地獄の違い」というのがあるんですけど、
天国も地獄も同じだと語られています。
どちらも大きな釜があり、そのふちにみんなが座っている。
釜の底にはお粥があり、お腹が空いたら食べてもいい。
しかし手が届かず、身長よりもかなり長いスプーンを使って掬わないといけない。
地獄では自分で食べようとするんだけど、
長いスプーンだと自分の口に運ぶことができず、
みんながお腹を空かして飢えに苦しんでいる。
天国では相手を思いやり、
「どうぞ」と釜の向こう側に座っている人に食べさせてあげる。
相手も「どうぞ」と食べさせてくれるから誰も飢えない。
同じ状況だけど、自分たちの考え方次第で天国か地獄かは変わるんだよ、
と実にわかりやすく伝えてくれるいいお話ですね。
天使と悪魔もおんなじだと思うわけです。
……悪魔ルシファー(イタリア語でルチフェロ)も、もともと天使ですしね。