アメリッシュガーデン改

姑オババと私の物語をブログでつづり、ちいさなガーデンに・・・、な〜〜んて頑張ってます

ジャズの名曲「My funny Valentine」に恋して


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この曲をイメージして書いた短編です。お読みいただければ、とても嬉しいです。

 

My funny Valentine

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My funny Valentine

 

 仕事帰りに寄ったカフェは半地下にある。
 レンガ造りの赤っぽい階段は色がはげ目地が黒ずみ、いかにも古い。五段ほど降りると、扉の向こう側から古いジャズ曲がもれてきた。

 

 My funny Valentine(マイファニーバレンタイン)

 

 このカフェ、いつもは朝に立ち寄りエスプレッソで目覚める場所だ。夜に来たのははじめてで、気になるバイトの男の子がいた。智昭という大学生だ。彼に出会ったとき、わたしは32歳だった。

 

 昼間とはふんいきが違い気怠い曲が流れている。トランペットがささやき、人々のざわめきに混じって歌声が耳に届く。


 重くて古い扉を肩で開けて中に入る。両手が経済新聞とビジネスバッグでふさがっていて、閉じた時にスカートの裾がはさまった。それは単に偶然のいたずらにすぎないが、なんとなく来るんじゃなかったと後悔した。

 古い椅子が並んだアンティークで重厚なカフェ、20人も入れば、いっぱいになるような小さな店。

 ……

 

 ここまで書いてから、パソコンに向かう手を止めた。
 なぜ書くのか、その理由がわからないからだ。
 わたしの名前は明子。

 これは、もう10年ほど前の昔話だ。

 でも、途中で書くのをやめるのもどうかと思うから、話を戻そうか。あの半地下のカフェに降りていく、その日の朝の通勤前。夜から、さらに時間を戻してみよう。

 32歳の朝早く、カフェ、そして、ひとり。

 

 ……

 

 当時、わたしは出勤前にカフェに行き、エスプレッソを飲むのを日課としていた。人というものは習慣の生き物かもしれない。早朝、半地下のカフェに駆け込む。それは、もう習慣以外のなにものでもなくなっていた。

 

 カウンターにいるのは学生アルバイト。毎朝、通ううちに会話するようになっていた。

 

「この店、夜になるとライブ会場になるんです」
「知らなかったわ」
「ここで歌っているんですが、よければ」と、言って彼はパンフレットを手渡した。

 

 ジャズナンバーばかりで、その中にMy funny Valentineがあった。

 

「古い曲ね」
「好きなんです」

 

 智昭の白目が部分的に赤いのは、夜ふかしして歌っているからだろう。

 

「大学に行くヒマがあるの」

 

 彼はクッと笑った。

 

「留年は近い」
「気の毒ね」
「ですよね」
「あなたじゃないわ、ご両親がよ」

 

 智昭はバツが悪そうに笑って頭を掻いた。彼のそんな顔が好きだと思った。

 

 カウンターの椅子に腰を下ろして、注文したエスプレッソを飲み、経済新聞を広げる。バッグを開けて感触だけで携帯を探りだし、テーブルに置いて数字をタッチした。

 目は雑誌記事を追っている。数字を見なくても指が自動的に動く。それは余りに慣れた動作であって、習慣というより悪習に近かった。

 

 呼び出し音が聞こえ、耳に携帯をあてる。すぐに、「もしもし」と、女の掠れた声が聞こえてきた。

 それから「もしもし」と、男の声に変った。

 

 慌てて携帯を閉じた。
 自分の連絡先が男の携帯に表示されたことに舌打ちしたい気分だった。

 なぜ、連絡したの?

 

 きっとベッドの上で番号を見て笑っているか、あるいは、ふざけた言い訳をしている男の姿が思い浮かぶ。

 男は報道関係の仕事をして時間が不規則で、昼頃に出社して徹夜することも多い。

 

 彼はわたしのことを優しい女だと勘違いしている。それ以上に、自分を惨めにするのは、わたしが男を愛しているのかわからないことだ。

 

 わたしは、彼の妻だということを、時おり忘れることがある。
 都合のいい女という言葉が流行したが、都合のいい妻という言葉もありそうな気がする。

 

 新聞記事を目で追う。

 頭のなかで女の『もしもし』という声が響いていた。低めの掠れた若い声で、起こされたことで不機嫌になった声。

 

 あの時の娘だろうか?

 

 春のはじめ頃、珍しく夫が自宅にいた。そのとき電話のベルが鳴って、わたしが出た。無言電話だった。『誰?』と、夫が声をかけた瞬間、プツと止切れた。彼の携帯ではなく自宅の電話にかけてくる若さが疎ましい。

『間違い電話よ』と、答える自分はさらに疎ましい。

 間違い(なくあなたの名前も知らない彼女の)電話よという言葉を省いていることに夫は気付いている。が、何も言わない。『そう』と呟いて、少しだけ疾しさを隠して目を伏せる。


 朝のエスプレッソを飲む。智昭がこちらを見て、怪訝そうな顔つきをしている。

 

 わたしは夫からの返信を待っていた。

 携帯に連絡を入れて、すぐに返事が来なくなって何年だろう?
 少なくとも化粧に気を使わなくなったよりも短いかもしれない。そのことで慰められるのかどうか自分でも疑問だった。しかし、そう考えることで、ほっとした理由がわからなかった。

 

 わたしは「ごちそうさま」と言ってカフェを出た。
「午後8時からです」と、彼の声が背中を追って来た。

 

 雨がふっていた。

 

(つづく)

 

後半はカクヨムに掲載しております。いつもすみません。お読みいただければ、とても嬉しいです。

 

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