障害者と生きる・障害者として生きる

言えないさよならを繰り返して時が過ぎていった

 

昔話の続きを書こうと思う。

 

幼い頃の記憶は、4歳の私が「お嬢さま」と呼ばれていた時代から始まる。父は、東京でいうなら銀座のような場所にある寿司屋の常連だった。

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しかし、そんなお嬢さま生活は6歳で終わりを告げる。父が脳動静脈奇形の手術を受けることになったからだ。私は「お嬢さま」から「障害者家庭の娘」にブランドスイッチ。父が退院するまでの半年間、私と弟は知り合いの家を転々とし、ご厄介になることとなった。文字通り、厄介者扱いされながら生きていた。

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父がやっと退院し、家族4人が再び暮らせるようになってからも、色々な問題にぶち当たることになる。今から半世紀も前のことだ。身体障害者を見る目は露骨に冷たかった。就職先はなく、タチの悪い嫌がらせを受け、父は何度も失踪騒ぎを起こすまでに至った。テーブルの上に置かれた遺書を私は今でも手元に残してある。せっかく助かった命を自ら断とうと決意するまでに、社会復帰への壁は父にとっては高すぎたんだと思う。

 

いなくなるたびに必死に探した。不自由な足で歩くのだから行動範囲は広くない。私が見つけたこともある。尋常じゃない目をした親に向かって、こんな感じのことを話し続けたのを覚えている。当時9歳。小学3年生だった。

 

お父さん、今日のおかずは、お父さんが好きなナスビの炊いたやつ。お揚げさんも入ってるで。おなかすいてる時に悲しいこと考えたらあかんよ。お父さん。私らのことを幸せにしようと思わんでええのよ。お父さんは手術で命を救われた。それだけで十分。生きてるだけでええ。生きてるだけでええねん。私ら置いてどこいくの。あかんで、どっか行ったら。夜はおうちでご飯を食べなあかんよ。『さようなら』は言うたらあかん。言うてええのは『いただきます』と『ごちそうさま』。ナスビ食べよ、な?

 

以降、父は自分から人生にさようならを言うことはなくなった。病気と闘い続けて寿命が尽きるまで、さようならを言うことは一度もなかった。

 

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当時私たちが住んでいたのは低所得者向けの府営住宅で、その中でも特に低所得者向けのエリアに住んでいた。

昼間から焦点の合わない目で壁を見つめている同級生のお母さん、仕事もせずに電柱にもたれて叫んでるオッサン、今でいう反社会的勢力の方々や認知症のお年寄り、そして両親がそれぞれの恋人と暮らすために家を出ていき、小学生の子供2人だけで暮らしている家。

学校はといえば、お金を払わず店から商品を持ち帰る同級生、キレると教室内をメチャクチャにする同級生、一緒にあの世に行こうと誘ってくる同級生。黒い芽を出している子たちが目に付いた。そして何かとお誘いがかかる。不幸そうな所には良からぬものが色々と集まるのかもしれない。

 

もしあのまま中学生になっていたら、私は不良少女になっていたと思う。勉強ができるし父親は障害者。きっときつく叱りづらい生徒だったに違いない。

私がそうならずに済んだのには、ひとりの転校生との出会いのお陰だ。先に記事にしてしまった。

影の中から仰ぎ見る光

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言葉を忘れる前に伝えたい。13歳の君が見せてくれた世界は美しかった

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その転校生の少年との出会いから2年後、今度は私が引っ越すことになった。中1の冬のことだ。

 

転校することがクラスに知れ渡ったある日、2人の女の子から呼び出され、封筒を渡された。中に入っていたのは、その少年の写真だった。

「これ、あげる。私たちが持ってるより、自分(関西弁の「あなた」)が持ってた方がええと思うから。だって両想いやろ、この子と」

今のようにスマホで簡単に写真が撮れる時代ではない。写真はカメラにフィルムを入れ、撮影後はフィルムを現像所に持っていかねば写真は手に入らない。いわばちょっとした貴重品。手間がかかってる。しかも写っているのは、家族と出掛けた時に撮影されたもののようで、これは本人に頼まないと手に入らない。

「・・・なんで持ってるの?もらったの?」

「『ちょうだい』ってお願いしたら、くれた」

 

脳の中で血液が沸きあがるのが自分でもよく分かった。こいつ、私に嘘をついたんやな。好きやという言葉はウソやったんやな。

父が障害者になってから、人を信用して酷い目に遭う経験をたくさんしたせいか、13歳の私は親にも心は開かなかったし、頼りもしなかった。唯一信用して付き合ってきたのがその子だ。浮気されたという次元ではなく、人間を信じた自分の愚かさに腹が立った。頼まれたら軽々しく他の女の子に写真を渡す軽薄さも許せなかった。

 

 

「この写真、なんであの子らが持ってるの?」

ところどころしか記憶にないけど、人間は信じられない、オマエも同じ穴のムジナかよ?という気持ちで一杯だった。

「好きな女の子の順番がある。一番がお前」

1番だと言えば喜ぶとでも思ったか。順番ってなんやねん。

「頼まれたら断られへんし・・・」

断れや。他に好きな子がいるから、こういうことはできないんだとなぜ言わんのや?

「そういう時にどうしたらええか、あんたお兄ちゃんがおるんやから、教えてもらえばええやんか」

「でけへんよ、そんなこと・・・」

 

そうか。自分で「全天候性人間だ」と悩むだけのことはあるわな。要するに八方美人ってこと。誰にでも愛想よく接し、すっと相手の懐に入るのが上手いヤツだ。

 

もういい。アンタを信用した私が甘かった。

 

それ以降、目を合わせることも話をすることもしなくなった。同じ教室にいるから声は聞こえるし、視界にも入る。

時々上級生のお姉さんたちが、その子を教室から呼び出してたのも知っている。中学生になってから何度も目撃した光景だ。

また、告られてるんだな。上級生には何と答えてるんだろう。「写真をよこせ」と言われたら、またアルバムから写真を一枚はがすのか。

 

転校する日。

教室にある荷物をまとめ、寄せ書きなんかをもらい、未練なくさっさと教室を出ていった。未練などないわ。

「さようなら」と言わないでおくけど、さようならだ。

 

 

転校先では何もかも振り切りたくて、とにかく勉強だけの毎日を送り続けた。

実は、振り切りたいことは写真の件だけでなくなっていた。両親の夫婦仲が壊滅的に壊れ始めていたのだ。激高した父の怒号、悲鳴に似た母の声。時々家を震わす鈍い音が、勉強部屋の床の下から連日聞こえてくる。

1日おきに母は徹夜を強いられ、そのまま仕事に行く。父は無職なので、おそらく昼間に寝てるんだろう。こんなことが何年も続くことになる。

止めないと母が壊れる。弟は不登校になっていた。体の大きさと体力には自信があった私が階下に降りていき、「これは何事や?何があったんや?」と聞こうとすると、父の感情が更にエスカレートして非常に危険な状態になった。

 

「止めに入るな!余計にこじれて大変なことになる」

後から母に強く強く釘を刺された。割って入ることもできないなら、なかったことにして忘れるしかない。とにかく何かに没入すれば音は聞こえない。想い出も蘇らない。勉強して勉強して勉強し続けて、私は忘れてしまいたかったんだ。人を信じてしまった過去を。人としてやっちゃいけないことを繰り返す父のことも。そして、後になって分かったことだけど、父をそこまで激高させる原因を作った母のことも。

 

私は勉強で心を麻痺させた。新しい中学はつまらない場所だった。行事のたびに作らされるグループに入れないと困るので、友達とはいえない子達と仲の良いふりをした。あそこは、高校進学のための内申書を書いてもらう役所のような位置づけだった。

無難な内申書を書いてもらうために演技し、簡単すぎて意味のない授業も真面目に受け、何の感傷もないまま卒業。学区トップの進学高に進み、学年で5番から20番くらいの成績をうろうろし、京都大学に手が届いた。この大学は変人だらけの場所で、他者と同じであることを強要されない自由な学風で有名だ。やっと私みたいないびつな人間が、ほっと息をつく場所にたどり着いた。

 

 

そういや中3の時に、電車のなかでばったり出会ったことがあったっけ。乗客がたくさん降りた後、5メートル先から私を凝視する視線を感じた。

なぜ何も言わない?どうしてこちらに来ない?ー おそらくお互い同じことを考えていた気がする。

 

私はこの駅で降りないといけない。その子が降りるのは一駅先だ。

もし私がもう一駅先まで乗り越そうと思ったら。あるいはその子が私と同じ駅で降りたなら。お互い、何を話そうとしただろう。

誰にでもにこやかに話しかけるちょっとお調子者の少年は、何も言わず固まったまま、電車を降りていく私を目で追いかけてた。分かってた。分かってながらも、振り向くことなく階段に向かった。

最終バスの時間まであと5分。家に帰ったらGメン’75が始まってる頃だ。ご飯を食べたら数学から始めよう。そんなことを考えながら。

 

「久しぶりやんか!」とさえ言わず。「さようなら」を口にすることなく。私たちはまた離れていった。

 

 

それから数十年経ったある日。写真のことで揉めてそれっきりになって別れた少年の行方が分かった。大病を患い、日常生活を自分ひとりで送ることが難しいと書いてある。パソコンのディスプレイに大きく写った顔写真は激しく浮腫み、あの頃の面影は必死に見つけないと見つからない。

・・・この子、私より寿命が短いかも知れん。

私も健康体とは言えない。しかし今の身体状況を比べたら、その子のQOLの方が圧倒的に低い。

 

「返さなあかん。この写真、この子に返してやらなあかん」

急にそんな気持ちが心を突き上げた。中学時代に別の女の子にあげ、それを私がもらい、たまたま卒業アルバムに挟んでたからなくさずに残ってた、あの写真だ。

 

私たちの子供時代の写真は貴重なものだ。お出かけとか誕生日とか、何か特別なことがあった時にしか写真は撮らなかったからだ。多分家庭にもよるんだろうけど。

とにかく、写真を撮りたければカメラを買い、1本12枚、24枚、36枚の写真しか撮れないくせに高価なフィルムを装填。撮影できる枚数には限りがあるから、どーでもいい時の写真をバンバン撮るわけにはいかなかい。スマホもケータイもない時代の写真は大変で、ちょっと貴重なものたるゆえんだ。

いってみれば、写真は人生のジグゾーパズルの1ピース。人生の持ち主にお渡しするのが一番いい。人生が長くなさそうならなおのこと。

ディスプレイに大写しになってる重病人の顔を見ながら、何とかして写真を本人のもとに返す方法を探し始めた。元気な頃の思い出をひとつ埋めてあげようと。

 

 

そのネットニュースは某新興宗教のネット版だった。配信元にコネがある信者さんに頼み、その子の居住先の公明党市議にメールを打ちまくり、なんとか本人と連絡がついた。

13歳の秋に腹の立ついきさつで私の手元に届いた写真は、簡易書留の封筒に入れられて40年後の本人のもとへ旅立っていった。

 

白血病を発症し、移植した骨髄のせいでGVHDまで発症。内臓も筋肉もボロボロに攻撃され、10分の距離を歩くこともできない今。腹膜透析をするための管がおなかに刺さってる今。ボタンを留めるのに何分かかってんだと苛立つ今。

私が送った少年時代の自分を見て、あなたは何を思っただろう。勉強がよくでき、走らせたら風のように速く、端正な容姿で下級生から近所のおばちゃんまで魅了したあの頃の写真を見て、何を想ったことだろう。

 

 

久しぶりに写真を見て思い出した。転校した後、人づてに聞いた言葉を。

「大好きな女の子が転校したくらいでダメになったらあかんと思ってるって」

 

大学生になった時に再会し、何度か遊んだ時にも同じ言葉を本人から聞いた。

・・・まあ、信じといてやるよ。それがオトナというものだ。

 

 

実は転校後に1度だけ、運動場が見える場所から転校前の中学校を見に行ったことがある。

陸上部の子たちが走ってる。同じ服を着て同じスピードで走ってる何十人もの中であっても、その列のどこにいるのか、すぐに分かった。身体や走り方の特徴はよく覚えている。走る姿が美しいこの子を描きたいと願い、小学生の頃からずっと鉛筆で絵を描いてきたからだ。

お陰で絵が少しだけ上手くなったみたいで、市の絵画コンクールで賞をもらったりした。

私が勉強にのめりこんだ遠因もこの子だ。

 

 

10代の初めのあなたと、10代の終わりのあなたを、私は両方とも覚えている。

大学生になってすぐに再会したとき、美しい少年は端正な青年になっていた。さらさらした髪の手触り、厚い筋肉が放出する熱、握力の強さ。勉強はあまりせず、忙しい部活にのめりこんで殆ど休みもない毎日のことを、私に毎回ずーっと話していた。「普通の青春というのはこんなに素敵なものなんだな」と楽しく聞いた。

 

もうあの時代は戻らない。病気はそれらすべてを無慈悲にあなたから奪っていった。

私は今のあなたの姿はネットニュースの画像と、メールに書いてくれた体調を説明する文面でしか知らない。それで充分だし、それ以上知ろうとしてはいけない。

 

そういや、大学生になってから再会し、何度も会ってたというのに、またぴたっと会わなくなったきっかけは何だったんだろう。多分何かあったはずだけど、理由がなんであれ、あの時も「さようなら」を飲み込んだんだろう。言うきっかけがないままに。

 

 

11歳の時に初めて「こんにちは」を言ってから今までに、「こんにちは、久しぶりやね」と言う機会はこれで3度目となった。しかし、長く会わなくなることになる時、一度も「さようなら」を言わずここまできた。

 

でも今回はけじめをつけよう。今のあなたは別のお宅のご主人。私も別の家の奥さんだ。

記憶は心の水底に深く静かに沈め、水面に波が立たぬよう、大事に持ち続けておくよ。写真と違って、記憶は私があなたから直接もらったものだから、誰かに返す必要はない。無理に忘れる必要もないからね。

 

幼い日々の恋も、若き日々の恋も、みんな遠い日の花火だよ。本当に綺麗だった。そして、花火が消えた後の夜空は寂しく暗い闇だった。

 

 

さようなら、しんじ君。

仮名だよ。

 

 

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くりからん

全身に遺伝性の血管奇形があります。脳や脊髄、身体を支える大きな骨に至るまで。出血するたびマヒや発作が強くなるのに、手術は危険なのでできません。そんな人生も半世紀を越えました。老後が見えてきた今。何をしておきたいか。どんな人生を送りたいか。日々考えてます。

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