カーペンターズ7つの衝撃真実

拒食症と薬物中毒の壮絶な物語100

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カレン・カーペンターの亡くなる直前の体重は49㎏だった?

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カレン・カーペンターイメージ
カレン・カーペンターが痩せ衰えて、
ベッドから起き上がれない状態で亡くなったと
思っているファンの方も多いと思いますが、


事実はカレン・カーペンターの亡くなる直前の体重は、
49㎏迄増えていたのです。



拒食症という病気で亡くなったということだけでは、
そのような思い込みになることは当然です。



私もダイエットの専門家としてカレン・カーペンターを
調べる迄はそう思い込んでおりました。





カレン・カーペンターが世界中に拒食症という言葉を認知させた?



カレン・カーペンターが亡くなったというニュースが、
世界中に配信された当時、



拒食症という病気が、
この世にあることすら知らない時代でした。



カレン・カーペンターにとりついた
この恐ろしい病である



拒食症(神経性食欲不振症)とは
いったいどんな病気なのでしょう。



カレン・カーペンターの拒食症とはどんな病気か?


カレン・カーペンターがこの病と闘った年月は
約7年間です。



結局、カレン・カーペンターは
この拒食症(神経性食欲不振症)を
克服することは出来ずに亡くなりました。



カレン・カーペンターがニューヨークで
治療する前の体重は36㎏でした。



これは身長165㎝の身長からすると
骨と皮の骸骨状態です。




カレン・カーペンターはニューヨークの病院へ、
入院して身体的な治療を受けていたと


思いこんでいる方も多いと思います。


しかし、カレンカーペンターは
入院して身体的な治療を受けていたのではありません。



1日1時間、
週5日のカウンセリング治療を受けていただけです。



この病気は精神的な病なので
強制的に入院させて身体的治療を受けさせても、



本人の意思で食べることを受け入れないと
重症化する恐れがあるのです。



この病気は身体的な治療では治らない
恐ろしい病気です。



ものを食べることに嫌悪感を感じているので、
普通は食べたものを外へ出してしまいます。



カレン・カーペンターも
薬物で食べたものを外へ出していました。




カレン・カーペンターが治療を受けたのは男性心理療法士だった?


カレン・カーペンターが
最後の1年間に受けていた治療法は心理療法でした。



ニューヨークの著名な心理療法士である
ティーブン・レヴェンクロンという



男性心理療法士です。



日本のあるテレビ番組で
カレン・カーペンターが取り上げられたときに、



女性心理療法士がカレン・カーペンターの病状について
解説をしていますが、



カレン・カーペンターが唯一治療を受けたのは、
男性心理療法士の



ティーブン・レヴェンクロンだけです。


その番組ではカレン・カーペンターが
誰の治療を受けたか一切触れていないため、



視聴した方はその解説している女性心理療法士が、
カレン・カーペンターの治療を行ったように


思わせている演出がされておりますが、
真実は違います。


カレン・カーペンターが「わたしのママになってよ、お願いだから」と言った意味とは?


ニューヨークでの心理療法で行われたのが、
ティーブン・レヴェンクロンが



提案した家族セラピーです。


カレン・カーペンターの両親がニューヨークへ呼ばれて
90分間の家族セラピーは行われました。


ニューヨークへ来て心理療法を受けて初めて、
7年間に及ぶ拒食症(神経性食欲不振症)との


闘いの末に、
カレン・カーペンターは


自分が陥っている問題の深刻さを悟ったのです。


そして両親を前にしてすすり泣きながら、
何年ものあいだ抑え込んでいた感情を吐き出したのが、




「わたしのママになってよ、お願いだから」




という言葉です。


これもカレン・カーペンターを
取り上げている番組では、



どのようなシチュエーションで
この言葉が発せられたのか


再現されていないので
視聴者に誤解を与える演出になっており、



カレン・カーペンターだけが、
カーペンター家では独り疎外されているかのような



演出になっていますが・・・



事実は違っていました。


カレン・カーペンターと母親の関係は過保護だった?


カレン・カーペンターと
母親アグネス・カーペンターの関係が悪く、



兄のリチャード・カーペンターだけが
母親から愛されて、


カレン・カーペンターは
母親から愛されていなかったような誤解が、



広まってしまったのは、
家族セラピーで発せられた



「わたしのママになってよ、お願いだから」


というカレン・カーペンターの言葉を


誤った解釈のもとにテレビ番組で
放送されたからです。


現在でもユーチューブ動画でこの番組は
視聴できます。


家族セラピーでは
カレン・カーペンターの



奥深くにあったものを吐き出させることが
目的で行われています。


これは年齢退行催眠療法に近いものです。
誰でもが生まれたときから小学6年生くらいまで、


戻った状態になり、
言葉使い等も子供の話し方になります。


つまりカレン・カーペンターは
母親から疎外されていた訳ではなく、



単に年齢退行催眠状態で発した言葉を
カレン・カーペンターが


母親を常に求めていたのに、
母アグネス・カーペンターが母親としての愛情を


カレン・カーペンターに注いでいなかったように
演出してしまっただけです。


実際のカレン・カーペンターと
母親のアグネス・カーペンターの関係は


とても良好であり、
母アグネス・カーペンターの育て方は


「過保護である。」


とスティーブン・レヴェンクロンが
表現しているのが真実です。


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カレン・カーペンターの拒食症の原因はオリビアだった?

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カレン・カーペンターが憧れたオリビア・ニュートン・ジョンイメージ





オリビア・ニュートン・ジョンといえば

誰もが知る大スターです。

日本では『カントリーロード』の曲が

スタジオジブリ映画『耳をすませば』の

主題歌として知られています。

杏里の代表曲「オリビアを聴きながら」で

曲の題名にも名前が使われています。




美しい顔とスタイルに

美しい声を持つ彼女はまさに

“天は二物を与えず”

の言葉が信じられないほど

全てを持っている感じで

当時は眩しいくらいのスターでした。



ジョン・トラボルタと共演した

ミュージカル映画『グリース』は

大ヒット!


歌と踊りと演技で

ファンを虜にしました。



さらにフィットネスブーム時代に

レオタード姿でエアロビクスを

踊るミュージックビデオが話題になり

『フィジカル』はオリコン洋楽チャートで

9週連続1位を獲得ました。



そんなオリビア・ニュートン・ジョン

親しかったカレン・カーペンター

どんな思いで彼女を見ていたのでしょう・・・





カレン・カーペンターがオリビア・ニュートン・ジョンと過ごすはずの週末!


年齢も近くデビューも近い

オリビア・ニュートン・ジョン

カレン・カーペンターはとても仲が良く、

1983年2月の最初の週末を

一緒に過ごすつもりいたのです。



母アグネス・カーペンターは

休養することを優先するべきだと

簡単には許可しませんでしたが・・・



オリビア・ニュートン・ジョン

楽しい時間を一緒に過ごすはずの週末を

迎えることができずに

2月4日金曜日の朝

カレン・カーペンターは永遠の眠りに・・・







カレン・カーペンターのオリビア・ニュートン・ジョンへの憧れ


カレン・カーペンターは

デビュー当時身長165㎝で66㎏と

少しぽっちゃり体型でした。

カーペンターズリードボーカルとして

彼女はダイエットに成功して、

53kg前後となるのですが・・・



ダイエットをしてエクササイズしても

母親ゆずりの下半身の太さ

克服することは出来ず、

頑張れば頑張っただけ逆に

筋肉がついてしまうことに

焦りを感じていたともされています。


誰でもダイエットをしているときは、

誰かを目標にして頑張るものです。

カレン・カーペンターは

オリビア・ニュートン・ジョンのようになりたい」

という憧れを口にしていたといいます。

そして、憧れのオリビア・ニュートン・ジョン

体重で追いついたときには、

ダイエットの魔の手が・・・


カレン・カーペンターの拒食症の原因


カレン・カーペンターが

痩せても痩せても

周りを見渡すと

細くて美しい女性ばかりの世界に

身を置いてしまったことが、

最大の不幸だった思います。



あなたの周囲にスタイルが良くて憧れる存在が

何人いるでしょうか?



常に批評家から歌のことだけではなく、

衣裳のことや髪形、顔、スタイルに至るまで

事細かにチェックされてしまうのですから、

想像するだけでもそのプレッシャーたるや

恐ろしいものがあります。



ホットできる仲の良い友人との楽しい時間ですら、

目の前にいる友人が

世界中の誰もがうらやむ細身のスタイルであったなら・・・




拒食症(神経性食欲不振症)という恐ろしい病の

原因は現代の医学でも謎のままですが、

身近にいる人があなたを安心させてくれる

スタイルであることに感謝することができれば

あたなは幸せかもしれません。


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カーペンターズのリーダーが〇〇〇中毒だった!

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カーペンターズのリーダーであるリチャード・カーペンター睡眠薬中毒に!





1960年代から1970年代は

アメリカがベトナム戦争の影響により、

ロックが全盛期に入り、

反戦運動とヒッピー文化、

そしてドラッグが蔓延して国全体が、

沈滞ムードの時代でした。

カーペンターズのロマンティックで

ノスタルジックな音楽が

人々の心をなごませました。

ロックバンドがドラッグの

イメージだったの対し、

カーペンターズは薬物とは無縁と

思われていたのでしたが、

実は恐ろしい薬物中毒の魔の手に・・・


カレン・カーペンターの兄 リチャード・カーペンターがハイな気分になれることを発見?


1971年の秋

あまりに移動が多すぎて、

スタジオで充分な時間を過ごせず、

リチャード・カーペンター

ひどい睡眠不足だったのです。

そんなときに母アグネス・カーペンターが、

主治医から新しく出た驚異的な薬を

もらってきたのです。

リチャード・カーペンター

4年間、

就寝時に規則的にきちんと1錠服むだけで、

何も問題はありませんでした。

しかし、あるとき・・・

眠る以外の目的で、

1、2錠服んだときに、

その薬の効果で

ハイな気分になれることを

発見してしまったのです。

しかも、それを気に入ってしまい、

初めは、その効果が刺激的だったのが、

やがてだんだんと依存してしまったのでした。

その薬こそクエイルード!

先端的なパーティーではボウルに

入れられて飾れたという

当時、流行のドラッグでした。

リチャード・カーペンター

薬物とは無縁であったからこそ、

何も知らずに・・・




カレン・カーペンターの兄リチャード・カーペンター睡眠薬中毒でカーペンターズの音楽活動は停止


身体に耐性がついてくればくるほど、

服む量は増えていきます。

とてもいい気分になれるので、

1976年にはリチャード・カーペンター

きちんと食事するのを

やめてしまったのです。


空腹時にいきばんよく効くので、

朝食をとったあと、

夜の軽食まで何も食べない生活で

体重は11㎏減って63㎏にまで

痩せてしまったのです。

ときおり震えがきてサインが

うまくできなかったり、

正確にピアノが

弾けない状態にまで達しました。

ついには一晩で25錠近く・・・

服用するまでになっていたのです。

こうしてリチャード・カーペンター

睡眠薬中毒となり、

やがてカーペンターズの音楽活動停止にまで、

追い込まれてしまったのです。


カレン・カーペンターの兄リチャード・カーペンターの眠れなくなる原因


リチャード・カーペンターは、

おとなしそうな見た目と違って

怒りの感情がわくことを口にします。

私は睡眠研究をする研究者として

リチャード・カーペンターの事例を

大変興味深く見ています。

眠れなかった最大の原因は

自律神経のみだれだったと考えています。

怒りの感情は人を興奮状態にします。

興奮状態は交感神経が

ずっと優位になったままになり、

眠りに必要なリラックスした状態の

副交感神経の働きが抑えられたままになり、

眠りたくても眠れないという状態が続きます。

感情のコントロールは難しいのですが、

時間のコントロール

普通の人は自律神経のリズムを

保っているのですが、

殺人的スケジュールをこなす

カーペンターズのリーダーである

リチャード・カーペンター

時間をコントロールして

規則的な時間に

眠りにつくことは

かなり難しかったでしょう。

眠れない原因は

ほかにも色々とあるのですが、

安易に薬に頼ることが、

こんなにも恐ろしいことになるということを

私たちへ教えてくれているのでしょう。

治験バイト


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カレン・カーペンターが拒食症になった原因は母親だった?

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カレン・カーペンターの治療を行っていた
ニューヨークの男性心理療法士は



週5日で1年間に渡る治療を行っていたが、
彼女を救うことは出来ませんでした。



拒食症という病気があることを
ティーブン・レヴェンクロンが



小説『鏡の中の少女』(1978年)を発表し
大ベストセラーとなったことで、



1981年にカレン・カーペンターの
心理療法を行うことなるのですが、



二人の出会いがもう少し早ければ
運命の歯車は違っていたかも知れません。



様々なエピソードを分析しながら
カレン・カーペンターが、



恐ろしい心の病に取りつかれたのは、
カーペンター家での育て方に



原因があったのかを
考えていきましょう。


カレン・カーペンターが発した「あたしのママになってよ、お願いだから」


男性心理療法士スティーブン・レヴェンクロンが
提案した90分間の“家族セラピー”の際に、



発せられたカレン・カーペンターの
母親アグネス・カーペンターへの言葉です。



7年にもおよぶ拒食症(神経性食欲不振症)
との闘いの末、



自分が陥っている問題の深刻さを悟った
カレン・カーペンターが両親を前にし、



堪え切れずにすすり泣きながら、
何年ものあいだ抑え込んだ感情を



開放したときに言ったのです。



この言葉が発せられた後に、
心理療法士スティーブン・レヴェンクロンに



促されて母アグネス・カーペンターは、
ソファに座るカレン・カーペンターを



初めて抱きしめました。



カレン・カーペンターもハグやキスを一切しないカーペンター家


アメリカ人は人前でも
ハグやキスを挨拶として行うと



日本人なら思っていると思います。



母アグネス・カーペンターと
父親のハロルド・カーペンターは



愛情豊で、誠実で、誇り高いけれど、
感情を表情や動作に表さなかったのです。



カーペンター一家はハグやキスしたりすることが
けっしてない家族だったのです。



日本人が欧米化していても、
人前で家族がハグしている瞬間を



見たことがありませんし、
母親とキスすることを



想像することも出来ませんでした。



あなたは家族とハグしますか?



キスやハグをしなかったら
親子の愛情がないと言えるでしょうか。



スキンシップがなくても家族の愛情が
あると思っているあなたなら、



カーペンター家の愛情があったことは
信じられるでしょう。




カレン・カーペンターの 母と娘の関係は過保護だった?


カーペンター家では兄リチャード・カーペンターだけが
両親に愛情を注がれていて、



カレン・カーペンターは家族の中で疎外されていたと
誤解されている方もいるようです。



ドラムセットも両親から買って貰っていますし、
家族旅行にも行っています。



カーペンターズとして売れ出した頃に、
ドラムセットの後ろで歌っていた彼女を



前に出て歌うようにみんなが説得にあたっても、
誰の言うことも聞かなかった彼女を



最後に説得に乗り出したのは
母アグネス・カーペンターでした。



母と娘の関係で言えば“過保護”という言葉を
使っているのは、



家族セラピーを行った男性心理療法
ティーブン・レヴェンクロンです。



彼女がヨーロッパ、日本、オーストラリアツアーで
ホテルや楽屋でニードルポイント刺繡をして過ごし、



ニードルポイント刺繡で描いた作品を
額縁におさめたものには



「このロードにいるのはパパとママのおかげです」




と感謝の言葉が書かれています。



カレン・カーペンターを死に追いやった
恐ろしい拒食症(神経性食欲不振症)になった原因が



母親説というのは、
様々なエピソードを調べても



考えにくい説ではないでしょうか





カレン・カーペンターの書いた作文



ニューへィヴンの女学生だった13歳のカレンが、
自分の人生をどう考えているか書いた作文があります。


「わたしの自叙伝」



両親は長いこと女の子の誕生を待ち望んでいた。



そしてついに1950年3月2日、母は女の子を産んだ。



もちろん、わたしのことである。



わたしはコネティカット州ニューヘィヴンにある
グレース・ニューヘィヴン病院でこの世に生を受けた。



うちは5人家族である。



まず父のハロルドだが、職業は印刷工である。



ニューヘィヴン・ボード&カートン社で
五色刷りの印刷機を動かしている。



母のアグネスは普通の主婦だ。



いとこのジョーンは生まれたときから
ずっとわが家で暮らしてきた。



つぎに兄のリチャードだが、
16歳で、



ウィルバー・クロス・ハイスクールに
通っている。



彼は才能あるピアニストだ。



わたしの人生の楽しみは
歩きはじめたときにはじまった。


わたしがはじめて歩いたのは
8か月のとき。



最初の歯が生えたのは7か月のときだが、
この歯が生える期間に苦しみもあじわった。



そのときわたしは口を開け、
以来ずっとおしゃべりである。



最初の言葉は「バイバイ」と「いや」だった。



あるときメリーランド州ボルティモアへ行った。



そのときのことをわたしは
けっして忘れることはないだろう。



それは土曜日の午後のことだった。



わたしは2歳くらいだった。



いとこがブランコにさかさまに
ぶら下がってごらんと言ったので、



わたしはなんだかよくわからずにそうした。



何を思ったのか、
突然兄がわたしをくすぐり、



その結果、わたしは唇にひどい怪我をした。



地面に落ちたときに前歯が
下唇を突き抜けたのだ。



そのほか犬に噛まれたことを除けば、
わたしの幼年時代はとくに変わったこともなかった。



家族に連れられてカナダ、ボルティモア、そのほか
東部の州のいくつかに旅行をしたけれど、



そういう旅先での体験については、
愉快で楽しい旅だったこと以外に



とくに憶えていることはない。



4歳のときに現在も通っている
ネイサン・ヘイルに入学し、



学校生活がはじまった。



この学校での9年間、
全部の先生たちと楽しく過ごし、



愉快なことがたくさんあった。



わたしの趣味はポピュラー・ダンス、
レコード収集、



そして絵を描くことである。



どれもめったにやらないのだが、
すごく好きだ。



1962年には
わたしが描いたポスターが賞を受けた。



今までにうちではたくさんのペットを飼った。



現在かっているペットは1匹で、
スヌーピーという名の犬だ。



スヌーピーはビーグル犬、
あるいはそれに似た種類だが、



とにかくかれはさんざんな目にあった。



まだ生まれて何か月の子犬だったときに
自動車にぶつけられたのである。



ちょうどそのとき、
うちには誰もいなかったので、



わたしは近所の人に獣医さんのところへ
連れていってもらった。



回復の見込みはすごく低かったが、
緊張に満ちた長い1週間ののち、



彼は退院した。



家に帰ってきてからも、
先の見通しはあいかわらず明るくはなかった。



それから1か月後、
スヌーピーはすっかり良くなかった。



わたしの将来の見込みについては
まだよくわからない。



わかっているのは、わたしたちが6月に
カリフォルニアに引っ越すこと。



向こうに行ったら、
看護婦になる勉強もしたいし、



画家にもなりたいとも思っている。


引用『カレン・カーペンター 栄光と悲劇の物語』(株式会社ベネッセコーポレーション




カレン・カーペンターと家族の関係が、
この作文からも良くわかる。



両親が女の子を待ち望んでいたことを、
13歳の彼女が作文に書くということは、



両親の愛情を受けていることを、
感じているからこそでしょう。





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カレン・カーペンターの死因の謎?

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1983年2月4日のカーペンターズリードボーカルであるカレン・カーペンターの死のニュースは・・・



やせ細った彼女の写真と「拒食症」という
聞きなれない病名で、



世界中に衝撃を伝えています。



1983年当時は拒食症という言葉が
一般に知られていない時代です。



拒食症(神経性食欲不振症)という病気を
世界に広めたのは、



カレン・カーペンターだと言われています。



では、何故カレン・カーペンターが
この恐ろしい病にかかり、



32歳という若さで
死ななければいけなかったのか・・・



亡くなる前の体重は何キロだったのか・・・



カレン・カーペンターの検死報告は?

解剖結果の最初の項目は肺水腫(心不全)。



二番目が食欲不振症。



三番目の所見は悪液質。



悪液質は体重減少、衰弱、全般的な体力低下。



検死報告は・・・



神経性食欲不振症による、あるいはその結果としての、エチメン心臓毒性に帰した。



エチメンの毒性は、カレン・カーペンターが吐根シロップを使っていたことを示唆します。


吐根シロップは食欲不振症患者や食欲異常亢進患者が、
食べたものを無理やり吐くために



使用されることがある、極めて強力な吐剤です。



アメリカではどこの薬局でも手に入り、
子供が誤って毒性物質を飲み込んだときなどに使われるのです。



しかし、吐根の乱用が死因だったことを示す明白な証拠は出ていないのです。





何がカレン・カーペンターの死を招いたのか?


カレン・カーペンターの死因はダイエットの結果、
カリウムが不足して、



体内の電解質のバランスが崩れたという説。


急激に増加した体重が心臓に負担をかけたという説。



甲状腺治療用の錠剤の使用が
心筋を疲労させたという説。



公式に死因として挙げられているエチメン心臓毒性について、



カレン・カーペンターの親族に手渡された証拠書類15ページには、



エチメンの痕跡が検出された記載は一切なく、
ロサンゼルス検死局は証拠となる文書は、



存在しないことを認めています。




イギリス著名な毒物学者であり、
バーミンガムの国立毒物情報管理局長である



ドクター・アリスター・ヴェイルへ
解剖報告書は渡された結果・・・



「組織学上あるいは解剖学上の証拠が不十分である」
との結論を出しています。

カレン・カーペンターが亡くなる前の体重とは?


あなたはカレン・カーペンターが、
やせ衰えて死に至ったと



想像していたかもしれませんが、
実は彼女の体重は50kg目前にまで



戻っていたのです。



ニューヨークでの治療前には
36kgを割ることもあった体重は、1年間の治療で49kgまで


回復していました。



カレン・カーペンターが拒食症(神経性食欲不振症)
という恐ろしい病と、闘った年数は7年間に及びます。



165cmの身長で66kgあった体重が、
僅か36kgにまで痩せていたのにもかかわらず、



カレン・カーペンターの美しい歌声は、
全く変わらなかったことが不思議でなりません。




普通ならば日常生活にも、
支障をきたしてしかるべきはずなのに・・・



カレン・カーペンターの歌声に支障が出ていたなら、
多分、彼女自身もニューヨークでの



治療をもっと続けていたことでしょう。
しかし、心理療法士の治療を



カレン・カーペンターの判断で、
途中で打ち切ってしまったのです。



彼女は兄と両親のいるダウニーへ戻ってしまいました。



彼女がニューヨークから帰った直後、
両親と一緒に昼食へ外出した時に、



カレン・カーペンターは30分も
バスルームに姿を消していた。



つまり、彼女の病は完治していなかった!



バッグの中には5種類もの薬を入れていたのを
母アグネス・カーペンターが見ています。



この薬は何をするために使われていたかは
謎のままです。




死の前日、ニューヨークから戻った
カレン・カーペンターは、



両親と食事に出掛けています。



そこで、美味しそうに大好きなシュリンプサラダを、
お替りしている彼女の姿を両親が見ています。



ニューヨークで治療をして、
これから人生をやり直すつもりでいたのでしょう。



両親へプレゼントした家に,
その晩、泊ることにしたカレン・カーペンター。



翌朝、母アグネス・カーペンターが
娘カレン・カーペンターを起こしに、



彼女の寝ている寝室へ行くと・・・



クローゼットの前で倒れている娘の姿が・・・



母アグネス・カーペンターは救急車を呼びましたが・・・



偉大なる歌姫カレン・カーペンターは天に召されました。



32歳という若さで天に召された原因は謎のままなのです。




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カレン・カーペンターがカーペンターズ活動停止の原因じゃなかった?

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カーペンターズは今年でデビュー50周年を迎え、
2001年の未発表音源集
『レインボウ・コネクション~アズ・タイム・ゴーズ・バイ』
から実に17年ぶりに
Carpenters With The Royal Philharmonic Orchestra』が
全世界同時発売されました。

そんなカーペンターズの知られざる真実を
書き綴っていきたいと思います。

カーペンターズの音楽活動を終わらせてしまったのは、
リードボーカルである妹カレン・カーペンターの死だと思われているかも知れませんが、
真実はカレン・カーペンターが亡くなるずっと以前にカーペンターズとしての活動は停止していたのです。

カレン・カーペンターが亡くなった日は1983年2月4日で、
実はその4年以上も前にカーペンターズは活動を停止していたのです。

活動を停止しなければならなかった原因は
リードボーカルの妹カレン・カーペンターの拒食症(神経性食欲不振症)ではなく、
実はカレン・カーペンターの兄リチャード・カーペンターにあったのでした・・・


カレン・カーペンターが亡くなるずっと以前に、カーペンターズは音楽活動を休止していた

1978年9月4日、ラスヴェガスMGMグランド・ホテルで
バンドリーダーであるカレン・カーペンターの兄リチャード・カーペンターは、
ショーとショーの合間に
バンドとスタッフに向かって

「ここまでだ、ぼくは明日からはもう演奏しない」

と宣言してカーペンターズの音楽活動に終止符が打たれたのです。

まだ何日もの契約を残して、ドッカーン!

最後のショーとなれば花を贈られたり、打ち上げとかがあるはずが・・・

2週間に28回のショーを行う契約を1週間で解約することになりました。

そしてこれがカーペンターズの音楽活動を終わらせた真実です。

しかし、また音楽活動を再開出来ると関係者もファンもそして

リチャード・カーペンターもカレン・カーペンターもそう思っていたはずでした。


カレン・カーペンターの兄リチャード・カーペンター睡眠薬中毒だった?


カレン・カーペンターの兄リチャード・カーペンターは1978年の秋、
ライヴではカーペンターズの選曲から、
ピアノがむずかしくて複雑な部分のある素材ははずすようになっていたのです。

コンサートが終わる瞬間を待ち焦がれ、
急いでステージを離れ、
ホテルの部屋に帰って睡眠薬を服用して眠る毎日。

カーペンターズの音楽活動を終わらせた原因は・・・

バンドリーダーであるカレン・カーペンターの兄リチャード・カーペンター睡眠薬中毒だったのです。


カーペンターズアメリの若者の望ましい姿だった?

カレン・カーペンターが全米がん協会の青年部長となり、
十万ドルを研究援助のために寄付すると・・・

第37代アメリカ合衆国大統領であるリチャード・ニクソンから
1972年9月にホワイトハウスに招かれて、
ゴルフ・ボールとカフスボタン、金製のコンパクト(全て大統領の紋章入)を
ニクソンから贈られているほど、
アメリカの若者の望ましい姿として選ばれていたカーペンターズでした。

ニクソンは、ベトナム戦争やヒッピーの流行に合わせて
アメリカ国内で若者を中心に流通が増加し、
当時アメリカにおいて深刻な社会問題になっていた麻薬に対して
強硬な対策を行っています。

アメリカの望ましい若者の姿で、
麻薬とは無縁であったはずのカレン・カーペンターの兄リチャード・カーペンター
まさかの睡眠薬中毒によって、
カーペンターズの音楽活動に終止符を打っていたことは、
皮肉としか言い表すことができない衝撃の真実です。



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