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特殊部隊

Sayeret Matkal サイェレット・マトカル イスラエル国防軍特殊部隊

サイェレット・マトカル Sayeret Matkal

(Photo from:Cómo es la Vida de un Miembro de Sayeret Matkal)

偵察部隊として一般にはサイェレット・マトカルの名称で知られるイスラエル国防軍(通称:IDF)の特殊部隊。

正式には269部隊に属しています。

フィールドインテリジェンスの能力を至上として求められる彼らは、戦略的な情報を得るために、時には敵の懐深くまで偵察任務を行い、時にはイスラエルという国の国境を越えてテロ対策や人質救出の任務にあたります。

部隊は初め、アブラハムアルナウンの主導で1957年に創設されました。パルマック退役軍人、諜報部隊の退役軍人や、101部隊の退役軍人、空挺部隊や、旅団、若いキブツの人間によって構成されていますが、その能力や活動のほとんどは極秘として扱われています。

ヨムキプール戦争では、主にシナイとヘルモンで戦闘を行い、第一次レバノン戦争では部隊の指揮官であるシェイ・アビダールはあらゆる局面に対応した歩兵部隊として運用を主張しました。

第二次レバノン戦争ではレバノンの奥深くで襲撃任務などを行い、これらの作戦群の中でエマニュエル・モレノ中佐という人物の戦闘の記録が残っています。

部隊はイギリス軍の特殊空挺部隊(通称:SAS)をモデルに、部隊単位はアメリカのDelta Force(デルタフォース)をモデルに作られています。

彼らの部隊のモットーは「Who Dares, Wins」(挑んだものが勝つ)。お名前.com

(Photo from:Διοικητής της Sayeret Matkal αποστρατεύεται μετά από επιδρομή στη Γάζα)

歴史

1954年、イスラエルで最初の特殊部隊であるユニット101は、キビヤの虐殺の後にあった抗議行動によって解散することとなりました。このため、イスラエル海軍の特殊部隊であるシャイェテット13以外に特殊部隊がなくなり、IDFはユニット101の代わりとなる部隊を用意することが急務となりました。1957年、元イェシーバー(タルムード学習のための施設)の学生で、パルマッハの隊員だったアブラハムアルナウンが主導で、敵の領土への潜入や、諜報活動を遂行する部隊を作成します。彼の部隊作成のアイデアは、イスラエルの若者から最も優秀かつ輝かしい成績を持つもののみでの構成でした。結果的に、部隊は肉体的にも知的にも最高峰の人材で構成されることになります。もともとはイスラエル参謀本部諜報局の157部隊の一部だった、サイェレット・マトカルですが、1年後、イギリス軍の特殊空挺部隊(通称:SAS)をモデルにした参謀本部の特殊作戦部隊として独立した作戦行動を開始し始めました。部隊の隊員は、敵をより理解するために、アラブの遊牧民族であるヴェドウィンの追跡者によってよく訓練されました。イスラエルで最初のヘリコプターによる編成部隊が結成されてから1年後のこの部隊は、部隊感動詞で緊密な協力関係を気付く事になります。彼らはユニット101よりも長く、より幅広くアラブの領土内に配備されることになりました。最初の司令官であるアルナウンの部隊のビジョンは、戦略的な情報収集や作戦を実行する部隊でした。イスラエル国防軍の一般隊員に与える影響なども鑑みて、新しい武器や教えを実践しています。

1960年初頭にはサイェレット・マトカルはシナイ半島で数々の情報収集作戦を行いました。最終作戦は、第三次中東戦争の勃発の僅か4か月前に着手されたものでした。作戦の前に行わなければならなかった広範囲にわたる訓練、計画、準備のために彼らは戦争の間では表立って動きを見せることはありませんでした。しかし、その後の消耗戦争(イスラエル・エジプト間での戦争)では広範囲での活動に従事しました。1967年以降はパレスチナ解放機構(通称:PLO)などのグループが引き起こすアラブでのテロリズムの台頭に伴い、サイェレット・マトカルは世界で最初の人質救出及びテロ対策技術の研究を開始しました。サベナ航空572便ハイジャック事件から始まり、部隊はいくつもの注目度の高い作戦に従事したため、彼らはエリート落下傘部隊として脚光を浴びることになりました。(当時サイェレット・マトカルの存在自体は機密扱いとなっていました)。1972年、ミュンヘンオリンピック事件が起こる前に、サイェレット・マトカルの工作員は西ドイツに送られ、ドイツ当局と協力し、必要に応じて人質救出作戦を行いました。その後、ミュンヘンオリンピック事件の報復として行われた神の怒り作戦ではサイェレット・マトカルは、ベイルートのパレスチナ解放機構を攻撃しています。wpX Speed

(photo from: סיירת מטכ”ל‎, General Staff Reconnaissance Unit)

1970年の第四次中東戦争にて部隊は大きく変化する事になります。イスラエルの戦線は2つに分かれ、参謀本部はその管理に苦慮していた為、サイェレット・マトカルは任務の遂行を行う事が難しい状況でした。その中で、サイェレット・マトカルの将校は一時2つの陣営に分かれることになりました。危険な戦線に軽々しく送るべきではないと考えた陣営と、どんな任務にも果敢に行動を起こすべきだと考える陣営です。最終的には後者の主張が勝ち、サイェレット・マトカルは両方ともの戦線での任務につくことになります。この際には敵地で対空ミサイルをいち早く破壊する為の空挺部隊が設立されています。戦後、サイェレット・マトカルは戦時計画について前々より策定に着手していたこともあり、今後は戦争が発生した際などは、命令や任務指令を待たずに、部隊が直ちに行動を起こす事できるようになりました。サイェレット・マトカルの空挺部隊もまた、その後イスラエル空軍との協力のための特殊部隊として、不測の事態における独自の部隊シャルダグに姿を変えていきます。

1974年、マアロ大虐殺が起こった際に、救出任務に失敗したサイェレット・マトカルは大きな打撃を受けました。この失態は後に、国内のテロ対策、人質任務救助を専門に行う特殊部隊ヤマム(通称:ICTU)の創設につながることになります。一方でサイェレット・マトカル自体は、国外でのテロ対策、人質救助に焦点を合わせることになりました。2年後の1976年7月4日、後に語り継がれるエンテベ空港奇襲作戦の指令が下されます。ウガンダでのハイジャック事件で、パレスチナ解放人民戦線のメンバー2人と西ドイツのテロリストグループ細胞革命の2名によって引き起こされた、248人の乗客と12人の乗員を乗せたエールフランス機が人質になるという大規模なテロ事件でした。少なくとも3人の人質の犠牲が出ましたが、これを見事鎮圧する事に成功しました。

サイェレット・マトカルは極秘の部隊ではあるものの、その存在はイスラエル国防軍に多大な影響を与えています。

彼らはイスラエルでの初めてのヘリコプターによる浸透戦術の導入者であり、武器としてウージー(UZI)を頻繁に使用したことから、その後、小さなフレームを維持しつつも命中精度を高めるために折り畳みストックを備えたウージーの製造を行うようになりました。

2015年、ガザ進行の活躍について表彰を受けています。
Z.com WP

雇用

部隊は設立当初の数年間は極秘ある会だったため、戦闘員や指揮官は個人的な繋がりによって厳選されたものから選ばれていました。

1979年代以降、選抜の募集規定は機密として守られているものの、部隊は正式新兵の募集を開始する事になりました。年に2回数日間眠れない日々が続く、極限状態にも耐えられる隊員を選抜する選抜キャンプが実地されています。それは悪名高く厳しいことで知られ、通称ギブブッシュと呼ばれています。新兵候補は常に医師や心理学者によって監視され、この選抜試験を潜り抜けたものが新兵として認められることになります。1990年代には、この選抜試験は他のイスラエルの特殊部隊にも導入されることになります。

 

(photo from:Sayeret Matkal in training)

訓練内容

入隊後、新兵は20ヵ月に及ぶ訓練を受けることになります。銃火器の取り扱い、マーシャルアーツ、水中訓練、隠密高度、偵察および敵地での生存に必要なその他の技術に重点を置かれて訓練が行われます。正式な隊員の証である赤いベレー帽を受け取るには、最後の4日間で120キロのベレー帽マーチと呼ばれる行軍を完遂する必要があります。トレーニングの内容は以下で構成されています。

・第35空挺旅団の基地における4か月の歩兵基礎訓練。これは落下傘部隊の基本的なルーチンの一部と同様となっています。

サイェレット・マトカルでの2ヵ月の歩兵訓練。

イスラエル国防軍パラシュートスクールによる3週間の落下傘訓練。

イスラエル国防軍対テロ戦争スクールによる5週間の対テロ(CT)コース、その後の部隊内CTトレーニング。

・残りの時間を長期偵察パトロール訓練がおこなわれ、特に部隊で非常に重要なナビゲーションやオリエンテーリングに重点が置かれます。オリエンテーリング訓練のほとんどは、イスラエル国防軍の他の多くの部隊で安全上の理由からペアで行われますが、サイェレット・マトカルではソロでの長距離ナビゲーション演習を行う数少ない部隊の一つです。

(photo from: Sayeret Matkal)

サイェレット・マトカルはイスラエル国防軍で2つしかない、独自の記章を持つ部隊です。ちなみにもう一つは217部隊のドュベバン(Duvdevan)です。ドュベバンの兵士はその性質上、公に着用する事は出来ません。サイェレット・マトカルもまた記章を身に付けていないことは良く知られています。

著名人

サイェレット・マトカルの退役軍人は、イスラエルの軍事的、政治的に階層の高い地位を獲得する事で知られています。幾人かはイスラエル国防軍の将軍やイスラエルの立法府であるクネセトのメンバーとなっています。著名な一例としてエフード・バラクの経歴に目を向けてみれば、1959年の発足後、101部隊のメイアハルザイオン少佐の後を引き継ぎ、イスラエルで最も象徴的な兵士となりました。彼はサイェレット・マトカルと共に1972年のサベナ航空572便ハイジャック事件、翌年にはレバノン侵攻( Operation Spring of Youth)の任についています。その後、1991年から1995年の間にイスラエル国防軍の首席補佐官に就任しました。1999年には彼はイスラエルの第十代首相に就任するまでになっています。

・アヴィ・ディッチャ―

元隊員。あとのイスラエルの治安部隊(シンベット)の隊長となり、後に国内治安大臣となる。

・ベンジャミン・ネタニヤフ

元部隊のチームリーダーで後にイスラエル首相となる。

・ダニエル・M・ルーウィン

Akamai Technologiesの共同創設者。後のアメリカ同時多発テロの最初の犠牲者となってしまう。

・ダニー・ヤトム

元副司令官。あとに将軍。モサドの長で、クネセトのメンバー。

・ドロン・アヴィタル

1992年から1994年までの司令官。カディマの18番目のクネセトメンバー。

・イド・ネタニヤフ

ライター兼放射線科医。ベンジャミン・ネタニヤフの弟。

・モシェ・ヤロン

元司令官。後のイスラエル国防軍の首席補佐官、イスラエルの戦略大臣、イスラエルの国防大臣。

・ムキベッツァー

エンテベ空港奇襲作戦のNo.2司令官。シャルダグの創設者。

・ナダブ・アルガマン

元チームリーダー。シンベットの指揮官。

・ナフタリ・ベネット

イスラエルの政党であるユダヤ人の家の元指導者。

・ネケミア・コーエン

バラクと共にもっとも著名な隊員。殺害されている。ベイト・ネケミヤは彼の名前が付けられた村である。

・シャウル・モファズ

元副司令官。後のイスラエル国防軍の首席補佐官で元イスラエル国防相。

・シェイ・アビタル

1982年のレバノン戦争中の司令官。後にデプスコープスの最初の司令官となる。

・ウージー・ヤイリ

元イスラエル国防軍空挺部隊旅団の部隊司令官。サボイ・ホテル作戦中に非番の際に戦死しました。

・ヨナタン・ネタニヤフ

元司令官。エンテベ空港奇襲作戦で殺害される。作戦での唯一の隊員の犠牲者。ベンジャミン・ネタニヤフの兄。

備考

元イスラエル国防軍少将で前首相のアリエル・シャロン氏がサイェレット・マトカルだったという誤解が流布したことがあります。

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出典:Sayeret Matkal

出典:Sayeret Matkal English HP

出典:es la Vida de un Miembro de Sayeret Matkal

出典:Διοικητής της Sayeret Matkal αποστρατεύεται μετά από επιδρομή στη Γάζα

出典:Sayeret Matkal in training

出典:סיירת מטכ”ל‎, General Staff Reconnaissance Unit

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