1章 巫山之夢《18》


 あぁ、やっと死ねる。
 そんな事を思うなど、忍びとしては失格なのだろう。
 だがもういい。
 こんな赤錆色の色羽織なんか着せられている時点で、忍びでもなんでもない。
 里はとうの昔に焼かれ、お頭も死んだ。跡取の息子たちは何とか逃がしたが、色街に買われた後の消息は知れず。むざむざ生き残った私は死ぬことも許されず、里を消しにきた元雇い主の飼い犬だ。
 馬鹿馬鹿しい。
 どうせ忍びなど時代遅れ。今となっては、存在自体がお伽噺だ。
 だが皮肉なものだ。
 お伽噺と化した忍びの前に、昔々はお伽噺だったはずの鬼が私の目の前に居るのだから。
 それにしてもこの家は異常だ。
 怪しい術で巧みに侵入者を玄関へ招いたかと思えば、出迎えるのは金色の鬼。
 なににが〝新米の薬師を殺してくる簡単な仕事〟だ。
 あんな狂った作家風情の尻ぬぐいに使われるなど、私も落ちたものだ。
 
 あぁ、鬼がニヤついている。
 恐怖という感情は、もとより持ち合わせていない。
 それより、目の前の光景の美しさに目を奪われる。
 鬼が地面を蹴った。
 奴は的確に私の喉を狙っ――。
 
   ・・※・※・・
 
 じっと睨み合ったまま根夢も中川も動けずにいた。
 最初の一太刀で仕留め損ねた中川では、多少手傷を負わせたとは言え、討伐専門の薬師相手に真正面からの立ち合いで勝てる望みは薄い。
 一方根夢も、自分の患者である中川を斬りたくはない。
 両者の思惑が、二人の動きを止めていた。
 そんなさなか、パリンという薄い硝子が割れた様な音が上空で鳴った。
 音のした上空を二人が見上げると、黒で塗りつぶされたような不自然な空に亀裂が走る。
 亀裂は瞬く間に穴となり、星空が覗いた。
「にぎゃああああああ!」
 奇声と共に空から少女が落ちてくる。
 アズキだ。
 必死な声とは裏腹に猫らしい軽い身のこなしで着地をすると、アズキは根夢を庇うように前へ躍り出た。
「悪い人は食べてやるのにゃー!」
 間髪入れず、鋭い爪で飛び掛る。
 突然の事に面喰い、アズキの一撃で中川は刀を取り落とす。
 追い打ちをかけるようにアズキは中川を蹴り上げ、倒れた中川に馬乗りになると、首に手をかけた。
「待ってアズキ!」
「どうしてにゃ! 悪いやつにゃ!」
「でも! ただ殺したら、何も判らないままになってしまう。いいから、そのまましっかり抑えてて」
 根夢の目が、すっと細められる。
 アズキは小さく頷くと、中川の首に掛けた手を程よく緩め、あまり上品とは言えない格好で中川の利き手を踏みつけた。
 中川は呆然と天を仰ぐ。
「中川さん」
 近寄りながら、根夢は静かな声で呼びかけた。
「説明してください」
 根夢の言葉など耳に入っていないかの如く、中川は相変わらず呆けている。
 アズキが手に力を籠めて攻め立てても、お構いなしと言った様子で眉ひとつ動かない。
 根夢は怪訝そうに中川の顔を覗き込む。
「中川さん、僕が判りますか……?」
「ああ、判るさ。先生んとこの坊ちゃんだ。なぁ坊ちゃん……俺はどうなるんだい?」
「どうって……まず事情を説明していただかないと何とも」
「……ああ、そうか。そりゃそうだよな」
「あの……何故斬りかかってきたんです? もしかして、遊女の妖物に憑かれていたというのは僕達の見込み違いだったんですか?」
 中川は口元を歪ませる。
「俺は、殺されちまうのかなぁ……」
 根夢の追及には答えず、中川は呆けた顔のまま独り言のように言葉をこぼす。
「薬師は処刑人ではありません。それに中川さんは誰かを殺したわけでも――」
「はははは、そりゃ違うよ坊ちゃっ、ゲホッ」
 言葉の途中で、中川が狂ったように笑いだす。
 その異様な様子に危険を感じたアズキが手に力を込めた。
「待ってアズキ、落ち着いて」
 根夢の言葉に再び手を緩めたアズキだが、不安そうに根夢を見つめる。
 その隙をつき、中川がアズキを突き飛ばした。
「アズキ!」
 根夢の心配をよそにアズキはすぐに体制を整えていたが、中川にはすっかり距離をとられていた。
 その手には先程の刀が握られている。
 根夢は眉間に深く皺を寄せると、抜けの悪いため息をつく。
「どうしても、やるんですね」
 根夢は夢幻刀を握りなおし、中川に向き合う。
 しかし、中川は刀を構えるわけでもなく、力なく立ち尽くしているだけだった。
「中川さん?」
「薄々わかっちゃいたさ、彼女が俺の事なんかなんとも思ってない事くらい。けどよぉ、会ってみねぇと確かめられないだろう?」
 要領を得ない中川の言葉を、根夢は必死に理解しようと耳を傾けながらにじり寄る。
 しかし中川はへらへらと笑みを浮かべ、動く様子もない。
「……駄目なもんは駄目だな」
「中川さん、刀を渡してください」
「そりゃ出来ない相談だ。この刀は特殊だからね。坊ちゃんじゃ触れねぇよ」
 にじり寄る根夢の袖をアズキが掴む。
 その瞳孔は極限まで細められ、怯えているようだった。
「悪いね。坊ちゃんにも先生にも恨みはないが、薬師ってもんには恨みをもってるやつが――妖物以外にもいるって事、覚えていた方が良いぜ」
「なかっ――」
 根夢が手を伸ばし飛び出す。
 しかしその手が届く前に、中川は自らの首を掻き斬り更に刀を胸に突き立てた。
 音もなく刀が中川の胸に沈み込んでいく。
 みるみるうちに中川の瞳から生気が消え、刺さったままの刀もろとも身体も透けていった。
「どうして……」
 中川が消え始めると、周囲にあった筆机達も存在が曖昧になっていく。
 この場所は、いわば〝中川の夢〟という小さな部屋に入っていたようなものだ。
 その部屋の主が消えていまえば当然部屋自体も無かったものとなっていく。
 その〝無かったもの〟として巻き込まれてしまった場合の影響は未知だ。
 しかし、予想しうる最悪の事態としては魂の存在が消え、身体だけ現実の世界に残ってしまう、俗にいう植物様態になる事は十分ありえる。
「根夢、起きるにゃ! 戻らないと駄目にゃ!」
 アズキが呆然としている根夢の袖を何度も強く引く。
「あ……そうだね、でも」
 お香を消して、強制的に起してもらうにしても、あさきとはあれ以来連絡が取れない。
 根夢は中指の紐に触れる。
「あれ」
 右手の中指に結ばれた紐は、アズキに繋がっていた。
「今気付いたにゃ? 大丈夫にゃ、アズキが先に帰って起こすにゃ! アズキは案内猫だからにゃ!」
 アズキの言葉で、ようやく根夢の顔がほころぶ。
「ありがとう」
 アズキは大きく頷くと、くるりと一回転してみせた。
 一回転し終わる頃にはアズキの姿はなく、いつもの夢渡りの様に紐の先が闇に消えている。
 ほんの少しの間を開けて、紐が元気よく揺れた。
 ――根夢! 聞こえるにゃ? ――
「聞こえるよ。ありがとう。あさきさんは?」
 ――いるけど、まずは根夢を起すにゃ――
「そうだね、頼むよ」
 ――にゃにゃっ――
 ご機嫌なアズキの声が耳に届くと同時に、視界がぼやけてくる。
 歪みながら消えていく中川の部屋を、根夢は遠ざかる意識の中で、瞳に焼き付けるように見つめた。
 
 ――――続く

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