この岩はどかせない岩
どかすとよくないことが起こるから?
だから階段をよかせて作った
みんなの近くにもあるでしょ
たとえば道がよけてる大きな樹とか
なんだか不思議だね
(画像と本文は直接の関係はありません)
前回の記事で今川義元の嫡子、今川氏真を主人公にした小説「氏真 寂たり」について書いた。理系の仕事に就いていたのだが、歴史も子供の頃から興味があった。そして人の「命運」というものについて考えさせられた。
最近、武田勝頼の弟の武田信清という人物を知った。信玄に出家させられ、僧になっていたが、兄の勝頼の命で還俗し、名族「甲斐安田家」の名跡を継いで、安田信清となった。父からは後継争いを防ぐために出家させられ、窮地に立たされた兄からは、その藩屛となるために還俗させられた。信清の思いがどうだったかは知らないが、信長の甲州征伐では自刃して果てた勝頼と異なり、生き残る道を選んで、いったいどうやって逃亡したのかはわからないが(僧侶に変装したとの説があるが)、とにかく高野山まで逃げ延びた。
やがて本能寺の変が起こり、執拗に武田の残党狩りをする信長が死ぬと。上杉景勝の正室となっていた姉の「菊姫」を頼り、上杉家に寄寓した。景勝は義弟である信清を一門として遇し、三千石の領地を与え、安田姓から武田姓に復した。関ヶ原合戦の後、西軍についた上杉家は大幅に領地を削られ米沢30万石に。信清も知行を千石に減らされたものの、上杉家高家(一門)衆筆頭という地位は変わらず80歳を越えるまで生き、子孫は幕末まで上杉高家筆頭米沢武田家として続き、現在も子孫の方は健在だという。
それにしても、不思議なことに、武田信清については、ここに書いた以外に特に記録が残っていない。米沢に行けば、何かしらの資料があるのかもしれないが、ネットで調べても逸話については何もヒットしない。80過ぎまで生き、子々孫々米沢藩NO.2(ただし藩政の実権はない。)の優遇を受けたのだから、よくできた人物ではあったのだろう。天目山を血で染めて逝った兄勝頼、おそらくは穏やかに米沢で生涯を終えた弟信清、それぞれの「命運」はどこで別れたのだろう。「運命」というものに興味はないが、帰結としての「命運」については考えさせられるものがある。
7月1日(土)、良く晴れた夏の日だ。排気量110ccの小型自動二輪、スーパーカブ110プロ(カブプロ)で茨城県石岡市の八郷盆地に。夏雲の下の加波山(709m)がよく見える。加波山の稜線上にある加波山神社までバイクで行き。そこから山頂に登るつもりだ。尚、麓に加波山神社の里宮があって、そちらの方が大きくて立派らしい。
麓の県道から林道に入り、ひたすらバイクで林道を登っていく。神社は標高600mほどのところにあるので、標高差500mを上がって行く。舗装はされているが幅員が狭くて、車はところどころにある待避所でしかすれ違いができない。しかも林道から長さ1.2kmほどの神社への連絡道に入ると、これがほとんどオフロードで、待避所もないので、車で行く場合は覚悟がいります。
ダートコースを抜けて神社の駐車場に。車が十数台停められる広さがあるのだが、なにぶん途中の道が悪い。それでも車が2台停まっていた。
慎ましい鳥居。階段があるが、横にはきれいに舗装された歩道がある。途中の神社用車道はほとんどオフロードなのだが。
こじんまりした拝殿だが、美しい拝殿だ。隣の社務所の方が大きい。社務所に軽自動車が置いてあり、宮司さんが境内を掃き清めていた。木漏れ日が清々しい境内にはベンチがいくつか置かれていて、麓からのハイキングコースを登ってきた登山者が何人か休憩をしていた。加波山はハイキングで人気のある山なので、神社はハイキングがてらの参拝者が多いようだ。
神社から山頂は標高差が100mしかないので、30分ほどで登れる。岩がむきだしで、結構険しい道だが、時間的には膝の捻挫が治ったばかりの足慣らしにはちょうどいい感じ。
こんな岩の隘路もあって、なかなか楽しめる。
ここが山頂。たぶん奥宮だと思う。
山頂から見た関東平野。冬ならば日光連山も見られるのだろうが、夏はどうも見通しが悪い。この日は確か真夏日だったと思うが、吹く風が涼しくて、気分がいい。正味1時間弱の軽い登山だったが、神社連絡道のダートコースと林道のバイク走行は変化があって楽しい。それと八郷盆地の風景を楽しみながらバイクを走らせるのが楽しくて、しばらくはこのあたりで楽しめそうだ。
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