鈴を付けられなくなった人は周囲にいないか? | イベントやエンタメの周辺、バックステージ

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あなたは誰かから怒られたことがあるか?

 

それは親であったり、プライベートな関係の友人だったり、職場の同僚だったり、妻だったり。

 

怒る行為は、怒る側も、怒られる側も、ストレスがある。

普通、怒りは怒る側から仕掛けられる。

そこに至るまで相当な葛藤がある。

「これを言ったら大きなキズを与えてしまうのではないか」

「取り返しのつかない状態になってしまわないか」

 

それでも怒る。

あるいは苦言を呈する。

 

受け手が怒られ慣れていると、直ちに「スイマセンでした」と謝罪をするが、これはとりあえず事態を収拾するための科白か、あるいは口癖だ。

妙なプライドがあるとカチンと来て無口になるか、言い合いになる。

 

怒る側の理由がそれなりに一般的で客観的なロジックが成立しているのであれば、「怒り(おこり)」は正当化される。

だが受け手はそのロジックに納得すればするほど、自意識との葛藤が始まる。

「怒り(おこり)」を受け入れるにせよ、言い争いになるにせよ、相手が親身で指摘してくれているうちは安全圏だ。

 

面倒なのは「怒り(おこり)」や、むしろ日常・一般的な「指摘」にすら噛み付いてくる輩だ。

自らのスキルと自意識を相当高いところに置いているので、お前ごときに指摘されるほど俺は安っぽくない!、とする人間が少なくない。

それはただその業界に長くいただけで、自らを一流だと思い込み、だが周囲はそう位置づけていいない、こういう二者を私は多く知っている。

このような輩は何かにつけ、「世間が悪い」「おれは正しい」「あいつらは何もやっていないのにマージンだけ取っている」と主張する。

すると批判された側はどうなるか。

「あの人は面倒くさいね」

「触らぬ神に祟りなし」

だんだん近ることを避け、相談もしなくなる。

だれも彼(彼女)に鈴を付けなくなる。

 

この「鈴」こそが、「怒り(おこり)」であったり「苦言」、「アドバイス」だ。

誰からも鈴を付けられないことをいい気になって、一流と勘違いをする「裸の王様」は少なくない。

 

自分はそうありたくないと自重している。

 

 

 

 

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