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【原文】

まことに如来(にょらい)()(おん)ということをば沙汰(さた)なくして、(われ)(ひと)も、()()しということをのみ(もう)しあえり。聖人(しょうにん)(おお)せには、「(ぜん)(あく)(ふた)つ、(そう)じてもって存知(ぞんじ)せざるなり。その(ゆえ)は、如来(にょらい)(おん)(こころ)()しと思召(おぼしめ)すほどに()(とお)したらばこそ、()きを()りたるにてもあらめ、如来(にょらい)()しと思召(おぼしめ)すほどに()(とお)したらばこそ、()しさを()りたるにてもあらめど、煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)凡夫(ぼんぷ)火宅(かたく)無常(むじょう)()(かい)は、よろずのこと(みな)もって空言(そらごと)・たわごと・まことあること()きに、ただ念仏(ねんぶつ)のみぞまことにておわします」とこそ、(おお)せは(そうら)いしか。まことに(われ)(ひと)空言(そらごと)をのみ(もう)しあい(そうろ)うなかに、(ひと)つの(いた)ましきことの(そうろ)うなり。その(ゆえ)は、念仏(ねんぶつ)(もう)すについて信心(しんじん)(おもむき)をも(たが)いに問答(もんどう)し、(ひと)にも()()かするとき、(ひと)(くち)をふさぎ相論(そうろん)(たたか)()たんがために、(まった)(おお)せにてなきことを(おお)せとのみ(もう)すこと、(あさ)ましく(なげ)(ぞん)(そうろ)うなり。この(むね)をよくよく(おも)()心得(こころえ)らるべきことに(そうろ)うなり。これ(さら)(わたくし)言葉(ことば)にあらずといえども、経釈(きょうしゃく)()()をも()らず、法文(ほうもん)(せん)(じん)心得(こころえ)わけたることも(そうら)わねば、(さだ)めておかしきことにて(そうら)わめども、()親鸞(しんらん)(おお)(ごと)(そうら)いし(おもむき)を、百分(ひゃくふん)(ひと)片端(かたはし)ばかりをも(おも)(まい)らせて、()きつけ(そうろ)うなり。(かな)しきかなや、(さいわ)いに念仏(ねんぶつ)しながら(じき)報土(ほうど)(うま)れずして辺地(へんじ)宿(やど)をとらんこと。(いっ)(しつ)(ぎょう)(じゃ)(なか)(しん)(じん)(こと)なることなからんために、()()(ふで)()めてこれを(しる)す。名付(なづ)けて「(たん)()(しょう)」というべし。外見(がいけん)あるべからず。

 

【意訳

私達はいつも、仏方の教えに耳を傾けることもしないで「自分の考えこそが正しい」と、そればかりを言い合って、争いを止めることができません。

親鸞聖人は「何が善いことで何が悪いことなのか、私(親鸞)には、まったく分かりません。もしも私がさとりをひらき、仏方と同じ知恵を得て、仏方と同じように善悪を判断できるのなら、何が善いことで何が悪いことなのかも、はっきりとするでしょう。しかし煩悩にまみれた私達が、争いばかりを繰り返す『この世』という場所は、嘘・偽り・デタラメに埋め尽くされていて、真実と呼べるものは何一つありません。そんな私達にも、さとりをひらく道を残してくれた仏方の知恵が、南無阿弥陀仏の念仏なのです」と仰っていました。

私(唯円)も含め、全ての人は、虚しい言い争いばかりを繰り返していますが、その中でも、特に心の痛むことがあります。

それは、他力の教えについて話し合う時、解釈の違いによって争いが起こると、自分の考えが正しいことを証明し、相手を黙らせるための道具として、親鸞聖人が言ってもいないことを「これは、親鸞聖人が仰っていたことだ」と主張する人がいるということです。これは、煩悩具足の凡夫である私達が、大変に陥りやすい間違いですから、よくよく気をつけておかなければなりません。

これまでに書き連ねてきたことは、私(唯円)個人の考えではありませんが、知恵も知識も足りない私が書いたものですから、きっと、おかしな文章になっているでしょう。それでも、今は亡き親鸞聖人が伝えようとしたことの百分の一でも伝えることができればと思い、書き連ねてみました。

念仏をする人にとって、(信心を得られないまま命を終えて)極楽浄土へ往生することができずに、仮の浄土へ生まれることほど悲しいものはありません。

他力の教えを聞く人の中に、自力という異なる信心を得た人がいるという現実を嘆いて、泣く泣く筆をとりました。『歎異抄』と名付けておきます。同じ他力の信心を得た人以外には、見せないでください。

 

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