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浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)の方であれば、日頃のお勤めで馴染みのある正信偈(しょうしんげ)は、浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)の開祖である親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)の主著「(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)」の中に収められています。

 

(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)は、真実の教えと、念仏(ねんぶつ)という修行と、他力の信心と、全ての人を等しく救うと誓った阿弥陀仏(あみだぶつ)の約束の証という四つの段落に分かれています。

 

その中の修行の段落の末尾に収められている正信偈(しょうしんげ)は、正式名称を正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)と言います。

 

()」とは「(うた)」という意味です。

 

正しい信心で念仏(ねんぶつ)という修行をするための(うた)。それが、正信偈(しょうしんげ)です。

 

このことからも、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)が「日頃のお勤めの手助けになれば」という想いで正信偈(しょうしんげ)を書き残したことが(うかが)えます。

 

その正信偈(しょうしんげ)は、次の二行から始まります。

 

帰命(きみょう)無量(むりょう)寿(じゅ)如来(にょらい)

南無(なむ)不可思議(ふかしぎ)(こう)

 

南無(なむ)帰命(きみょう)は同じ意味であり、元々はインドの「ナモ」という言葉を漢字で表したものです。

 

インドには「ナマステー」という挨拶があります。

 

これはナモが変化した「ナマス」と「テー」を組み合わせた言葉です。

 

ナマスは「敬意を示す」という意味であり、テーは「あなたに」という意味です。

 

ナマステーとは、両手を合わせて「あなたに敬意を示します」という心を伝える挨拶なのです。

 

そこから派生して、浄土(じょうど)の教えにおいて南無(なむ)は「お任せする」「心から信じて従う」という意味で使われます。

 

その後に続く、無量(むりょう)寿(じゅ)如来(にょらい)不可思議(ふかしぎ)(こう)如来(にょらい))は、どちらも阿弥陀仏(あみだぶつ)の別名です。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いは、分け隔てがなく全ての人を救うことから、際限がないという意味で「無量(むりょう)」と呼ばれ、その功徳の果てしなく広いことから、私達には思い計る(思議(しぎ)する)ことができないという意味で「不可思議(ふかしぎ)」と呼ばれます。

 

如来(にょらい)とは、仏という意味です。

 

つまり正信偈(しょうしんげ)の最初の二行は、阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏の教えを心から信じて従うという意味であり、それはそのまま南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)なのです。

 

結局のところ浄土(じょうど)の教えとは、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)の六文字の中にすっかり収まってしまうものであり、ただ念仏(ねんぶつ)をして救われるという極めてシンプルな教えなのです。

 

しかし、それだけを言われても、疑り深い私達は浄土(じょうど)の教えを素直に信じることができません。

 

簡単すぎる教えのために、人によっては、かえって疑いの心を強くするかもしれません。

 

なぜ南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)念仏(ねんぶつ)をするだけで救われるのでしょうか。

 

そのことを親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、親しみやすい(うた)という形にして、正信偈(しょうしんげ)の中で説明しています。

 

次回から、正信偈(しょうしんげ)の三行目以降に触れ、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)正信偈(しょうしんげ)を通して私達に何を伝えようとしたのか、その真意に迫ってみたいと思います。

 

※過去記事は、こちらにまとめてあります。